第一話クリスタ
私の左手きれい。眺めても眺めても飽きない指輪。
今週もニルは来なかったわ。どうしたのかしら。きっと忙しいのね。
お父様もお母様も先週から顔が青くなったり赤くなったりして忙しくしている。慌てる様子が面白くて何回も吹き出しちゃった。
皆忙しいのね。
フラフラ庭園をさまよっていると、馬小屋のほうで何人かの話声が聞こえる。
使用人たちの噂話だわ。思わず近づき声をかけようとして止まった。
「本当かよ。ニルの野郎叩きのめしてやりたい。お嬢さまは大丈夫なのか」
「ああ、まだご存じない。お嬢さまもなぜあんな野郎に・・・いや、取りあえずお嬢さまには気づかれないようにな」
「もう、はっきりしてもいいと思うぜ。婚約解消てことを。あんな野郎。畜生」
婚約解消って、ニルが婚約解消って。
まさか、そんな事があるわけないじゃない。左手の指輪をそっと撫でる。
そう、幼いころから、ずっと一緒だったの。大好きなニルとこれからも一緒なの。
馬小屋から離れて、いつもニルと遊んでいた温室に行く。ニルは花が好きでいろいろな花の名前を知っていた。去年の十五の誕生日にもらった多肉植物は駄々をこねてようやく貰ったものだ。ニルは私に会いに来るたびに撫でるように大切にしていた。だから私も大切にしている。そこに行けばニルに会えるような気がして、いつも会いたくなると温室に行く。静かで優しく暖かい。本当にニルはどうしたのかしら。なぜ会いに来ないのかしら。ニルのようなでっぷりした形の植物をつつく。その時温室の外から私を呼ぶ声が聞こえた。今日はなんて日かしら。みんな騒々しい。
「お嬢さま。ここにいらっしゃいましたか」
庭師長の息子のカイルが安堵の表情を顕わにしてクリスタのそばによる。
「ええ。わたくしに何か用ですか」
「用って・・・。俺は、親父から頼まれて、取りに来たんだ」
「カイル。あなた将来この家で働くのでしょう。乱暴な言葉使いはおよしなさい」
カイルは急に不機嫌な表情になる。
「感情も出さないようにしなさい」
注意されたカイルは口をきつく締めるが、多肉植物に視線がいくと緊張していた顔が落ち込んだ。
「お嬢さま大丈夫か」
「大丈夫かって、今日何回も聞いたわ。わたくしは元気よ」
私と同い年のカイルはこの一年で急激に身長が伸びたようで近くに寄られると首が痛くなる。幼いころは二人で泥んこになりニルに苦笑されていた。私は婚約を発表したあたりから『淑女』として距離を置くようにしたがカイルはその所がわからないようだ。未だに対等に話しかける。
「それなら良かった。お嬢さまは信頼しきっていたから心配していたんだ。じゃあそれ持っていっていいか」
返事も聞かずにニルの多肉植物を手に取る。
「だめ。何するの。カイル。それは大事なものよ。どこに持っていくつもりなの」
「ニル様がこれだけは返してほしいと使者が来ているんだ」
「ニル様!来ていらっしゃるの?」
カイルは首を振る。
「使者だけだ。謝罪に来ている」
「謝罪?」
「先週、伯爵からトーズル男爵の伝言があっただろう。そのことについてだ」
「そのこと?」
「婚約解消の事だよ」
さらりと告げて屋敷に戻ろうとする。
「お待ちなさい。カイル、お待ちなさい。婚約解消って何なの。」
立ち止まり無言のまま振り返る。
「誰の婚約解消なの。誰の・・・誰のなの」
父が重いため息をつく、その両眼には愛娘をコケにされた怒りで満ちていた。母は私の代わりにハンカチで顔を抑え泣いている。私は未だ状況を判断できずボンヤリと温室から運んできたニルの多肉植物を眺めていた。本当なら先週からこの輪に入るべきだったのだろう。でも私は逃げていた。現実を受け入れたくなかった。
「旦那様。今夜は王宮でザール公第三公子の誕生祝賀会がございます。ご準備なさってください」
父は重そうに腰を上げる。
「行かねばならんな。クリスタ。どうするかね」
今夜の社交界の話題は変わらない。私の話題だ。
行かなければ婚約破棄されたので倒れているのだと笑われ、行ったら見世物になる。
まさか自分がこのような立場になるとは思いもしなかった。悪意に満ちたあの場所は今の私には辛すぎる。
「行かない」
父はうなずいて居間から出で行く。
俯いている私の目にニルから貰った指輪が光る。
ニルはそんな人ではない。何か事情があるのかもしれない。明日になったらきっと謝ってくる。婚約解消しないでくれと懇願するはず。右手で左薬指を包み頬に寄せた。私だけは信じようニルのことを愛しているから、父や母が許さないといっても私は許すんだ。そう、ニルに会わないと。
「お父様。私、やはり行きます」