第十一話 クリスタ
荘厳な空気も人がいなくなった後はがらんどうだ。
私もがらんどう。何もないから。
謝罪のないニル。理由を言わないニル。
「まあ、こんなところで発表できるとは大した女だよな」
気楽そうにカイルがつぶやく。
「うん、カナはすごいと思う」
まっすぐで、ぶれない。きっと私のようなことがあっても前を向いて生きていくのだろう。
それは、空っぽではないから。軸がまっすぐにあるから、私もあのようになれば、ニルは私を見てくれるのかしら。
「今年の新入生の募集はいつからかしら」
いつもの軽い思いつき。そう、お父様からは反対された。
「第一公子とはどうするんだ」
なんて、だから私は言った。「お父様は立派だから大丈夫よ。人の弱みなんて見つけなくても、公爵に重宝されているじゃない」って。
そしたら、お前は馬鹿かーって。
私のことでイライラしているうえに、もう齢だから焦っているのかも・・・
「大丈夫よ。第一公子とわたくし、大の仲良しになったの。何があってもお父様を守るわ。でも、わたくしは一人っ子でしょう。この家を守らなくちゃならないの。お父様とお母様が続けてきた、祖先からの流れを止めたくないの。だからわたくしね、勉強するわ。お父様の右腕になれるように」
お父様はあきれたような、怒ったような微妙な顔をしている。
試験は二か月後。
貴族の子なら無条件で入れるけど、怒らしてまで自分の意見を通したのだもの。
お父様に恥ずかしい思いはさせたくない。家庭教師を雇い、今まで逃げていた勉強のための手配をはじめた。
カイルに頼んでいた書類を覗き込む。
「この受験者名欄は自分の名前。教授名は家庭教師に書いてもらえばいいけど、この貴族推薦名は」
「旦那様の名前ですね。書いてもらえそうですか?」
あの様子だと大丈夫だと思う。私に甘いお父様だから。
「連帯責任者名」
「旦那様の知人に頼んでもらいましょうか」
私は1人の人物が浮かんだ。
「自分で頼もうと思う。いい口実になるから」
ニルの実家、トーズル男爵
私は文書をしたためる。
婚約破棄を受理とそれに伴う賠償の請求
逃げられたら困るので、カイルを連れてトーズル男爵家に乗り込む。
優しかったおじさまとおばさまがオロオロして私を出迎える。
私はトーズル家のソファに座り、持ってきた手紙をカイルから渡した。
おばさまはハンカチを口に当てて、涙ぐんでいる。
「クリスタちゃんごめんね。クリスタちゃんごめんね」
ひたすら繰り返す。
おじさまも震える手で封を開き、ガタガタ震えながら手紙を読む。
文章に沿って目を動かす。途中が目が停止して、口をわなわなさせた。
「破棄。賠償」
すがるような視線を送る。
「・・・何でもする。許して下さい」
私は願書を取り出した。
「大学への連帯責任者になって下さい」
「大学?」
「わたくし、勉強を始めようと思いますの」
「クリスタちゃんが入るの?」
「ええ、わたくしが入ります。おじさま、おばさまには恥の無いよう頑張ります。だから署名をお願いします」
「これ、あの子の」
「ニル様の通っている大学です」
ああっとため息を漏らして、おばさまはソファに倒れこむ。
「あいつは、クリスタさんの婚約を勝手に破棄して、大学のまかない婦と結婚しようとしている。わしから何度も言ったのだが、やめない」
「大学のまかない婦?」
初めて聞く。
「イリスという女だ。身元を調べても、何もないおかしな女と結婚しようとしている」
数日前の記憶がよみがえる。
「イリスって第一公子の愛人のはず」
色気むんむんの女。
「ニル様がイリスと・・・」
頭が混乱する。どういうことなのか。隣で空気だったカイルがつぶやく。
「お嬢さん。もしかしたら、ニル様は騙されているのではないか」
あの門番を思い出す。
第一公子は無理でも、イリスには会えるのではないか。
「カイル、大学のまかない婦のイリスを捕まえて、わたくし、後から行くから」
神妙な顔をしながらカイルはその場から去る。
「クリスタちゃん。ニルを許してあげて。もし正気に戻ったら、許してあげてね」
泣き続けるおばさまを見ないようにおじさまに促す。
「では、おじさま。署名をお願いします」
「クリスタさん。あなたも正気ではない」
「そうね。でも決めたの」
許す、許さないの感情じゃない。
ただ、私はニルが好きなだけ。
ずっとずっと一緒だったから、ニル以外考えられない。
それはきっと変わらない。
前まで漠然としていた、好き、の感情は失ってからじわじわと心に沁みてきている。
でも、不思議なことに負の感情ではない。
ニルの事好きだから、幸せでいてほしい。
ニルに苦しみとか悲しみとか背負わせたくない。
全力で彼を守ろうって、決めたの。
彼を守るために頑張ろうって。
おじさまの震える手が署名を終える。
私は署名の入った願書を見た。
「多肉植物は、わたくしの誕生日に貰ったものですからこのまま頂いてもいいですか」
おじさまとおばさまは一緒に頷く。
「これ以上はご迷惑をおかけしないようにします。大学に入ってもニル様には接触いたしません。署名してくださりありがとうございました」
馬車に乗り込む前におばさまの顔を見て感情が溢れた。優しいおばさま。
「おばさま。わたくし、おばさまのことをお母様と、お呼びしたかった。ニル様よりそれが残念でなりません」
おばさまは何も言わず、大きく頷き、涙の止まらぬ顔をハンカチの中にうずめるだけだった。
優しいおじさま。
「父は怒っていないと言えば嘘になりますが、わたくしがトーズル男爵家とニル様を守ります」
おじさまは、口を震わせて謝罪の言葉を何度も繰り返した。
「大学に行って、早くね」