消えた、夏の日
死んだ蛍が転がっていた。
それが本当に蛍という虫だったのか、今となっても分からない。しかし私はあれを蛍と呼ぼうと思う。呼ばなければ、ならない。
私と彼女は、隣の席だった。単なるくじ引きの結果にすぎないが。運命と言うのも、偶然と言うのも他愛ない。しかしその二つのどちらかだと断言しない。こだわるつもりはないのだから。
大学の教室というのは、高校よりも恐ろしい。講壇とホワイトボードを中心に、半円を描くように並ぶ机、机、机……。ここはとても、広いのだ。高校のように一クラスという狭い枠組みで動くような世界ではないが、島と島の間が広すぎる。独りきりの地味な島など、悪目立ち以外の何物でもない。私はもちろん、悪目立ちをしていた。
会話のまったくない、舌の錆びる生活。しかし幸いなことに私はそのような生活を送ることはなかった。
繰り返す。私と彼女は隣の席だった。
語学の授業、それも実用的な英語を目的とした授業だ。会話せざるをえない状況。課題消化のため、それだけ。しかし会話をすることで、一人じゃない、というような気分になれただけで大きく救われた。一人ぼっちは思いのほか被害妄想に囚われる確率をあげにかかりにくる。
「おはようございます」
「ここはどういうことですか?」
「ありがとうございます」
「じゃあ」
文面だけでは、のっぺりしてしまっている。しかしその一つ一つのイントネーションは豊かだ。上がったり下がったり、暗かったり明るかったり、跳ねたり沈んだり。もっと話しかけてほしいのだが、それはない。必要最低限。ならばいっそ私から? しかしながら、私にはそんな勇気などなくて。全身全霊を傾けて、彼女に何かあればすぐ分かるように、それだけだ。……そんなことはなかったが。
春からこの調子であった。
重要なファーストコンタクトの場でこれなのだ。この授業が最も成功したように思える、とでも言えば、先は容易に想像できる。私は結局、潜伏先を見つけられなかった。
せめて、とばかりに群集に紛れる、紛れようとする。けれどやはり、教室では浮いてしまう。大人数ではなく、少人数になるとそれはもう分かりやすくポツンと。高級レストランに迷彩服、はコスプレです。しかしドレスコードに見合う服など、見合うマナーなど! どこで学べばよかったのだろうか? ……知るはずもない。
他にも同士がいるはず。私はうつむいたまま視線を左右に動かす。しかし見つからないのはどうしてだろうか、私は、彼ら以上に目立っている気がする。構内大体二人組以上。一人は……、ふむ。
彼女と隣の席なのは、不幸中の幸い、と言ったところか。
お一人様ですか?
私は頷く。
昼間のコンクリ道路の傍らで見つけた虫の死骸。細く、乾ききったくすんだ緑の雑草の間に身を潜めていた虫の死骸。カラカラに干からびていたそれは、アリにすら集られていなかった。
なぜ目についたかは覚えていない、進行方向を妨げてはいなかった。
砂をかぶって薄く茶色めいた蛍。夜に光ればもてはやされよう、けれど昼間、それも死骸。これは夏の夜の特別な虫ではなく、ただの汚い、虫、だ。
彼女は、私が話しかけても笑顔だった。暗く、うつむいていた私にはあの笑顔はとうてい真似できないだろう。羨ましい。そしてなにより、眩しい。見上げる首が、痛いのだ。彼女が笑顔で紡ぐ言葉は美しく聞こえる。たとえそれが、変な奴がいるんだよねー、という悪口だろうと。不思議な事だ。
キャラキャラと声を立てて笑う時もあった。その明るい笑い声は教室中に響き渡る。あぁ、またか、というように何人かの生徒が振りかえる。そう、いつもの光景。誰かが明るいとこうも賑やかさは伝染するものか。私は擦れて汚れた右手を隠す。
夏になっても変化はなかった。
相も変わらず私は一人、部にもサークルにも入らず、バイトを怠惰にこなす。淡々。
じゃあ二人組作ってー。
は、幸いなことに存在しなかった。トラウマになっていない、と言えば嘘になるのかもしれない。体育など、様々と。
雨。
豪雨。
それでも学校はあるわけで。仕方なく登校した。靴を教室で脱いだ。濡れすぎて気持ちが悪いのだ。あまり褒められた行為ではないが、見逃していただきたい。彼女も同じことをしていた。勝手な親近感。大勢が同じことをしていた。勝手な共同感。
またある日。
暑い夏の始め。
喉が乾ききっていたから、先生が後ろを向いた隙にこっそりと水を飲んだ。生ぬるい水を飲んだ。周りでは堂々と飲む人もいたが、そこまでの勇気はなかった。隣の彼女も飲んでいた。勝手な共犯感。まぁむしろ飲んでいない人物の方が少なかった。勝手な一体感。
蛍が夜、光ながら飛ぶ時期。あのころがこの虫のピークだった。淡いながらも、見る人を魅了する光。しかし足元の死骸からはそんな名残など微塵もみられない。水を与えても、乾ききった体は蘇らない。
えてして蛍というのは寿命の短いものらしい。
それを知った……思い知らされたのは、夏休みが近付いていたときのこと。
私は、蛍の墓を見たのだ。
感慨などなにもなく、単純に、あぁそうなのか、と知識として吸収した。それだけ。
それだけなのだ。
メールアドレスを聞こう。
そう思い始めたキッカケは忘れてしまった。説明するにも曖昧な記憶なので、何の足しにもなるまい。
とにもかくにもメールアドレスを聞く、という目標に私は燃えた。風前の灯ではあったが、燃えた。どのように声をかけるべきか、考えに考えた。様々なパターンを想像しては、対応策を練った。しかしどうにも具体的なイメージができなかった。経験の無さが致命的であった。
まことに個人的なのだが、夏休みまでを期限として、彼女にメールアドレスを尋ねる機会を窺った。しかし休み時間、彼女の周りには大体彼女の友人がいる。勝手の悪い状態だ。
ならば、授業中しかチャンスはない。
幸いなことにこの語学の授業にはペアワークが存在する。いや応がなしに離せなければならないそのときを狙えばよいだろう。
授業中のペアワーク、今回はプリントに「小学生が携帯電話を持つことについて」に対する意見を英語で書け、というものだった。周りが頭を必死に悩ますなか、私たちは異様に早く終わってしまった。というのも作業分担が自然に行われていたからだった。具体的な意見の数々は彼女が出してくれた。英訳作業は私が電子辞書を駆使した。それゆえにあまり悩むことがなかったのだ。
他のペアはまだ作業に手間取っているため、話していたり、メモを取ったり、辞書に文字を打ち込んだりしている。そんな音がする。しかし私たちの間にもうその音はない。周りに音があふれている分、どうしても沈黙が際だってしまっている。
気まずい。
普段もこのように早く終わってしまうことがある。それにしても……これほどまでに沈黙とは重たかっただろうか? ドロドロとしていただろうか? しかし今日の私には彼女からメールアドレスを聞きだすという任務がある。こんな沈黙に気圧されてるわけにはいかないのだ。今日、彼女にしては珍しく携帯電話をいじってはいない、けれど持ってはいるだろう。ふっ、と軽く彼女が息を吐いた。私は上着のポケットに潜ませた携帯電話を握りしめた。息を吸う。
そういえば。
なんて、偶然思い出したかのように呟いた。明らかに嘘だ。ずっと前から私は気にしていた。ここぞ、というタイミングを、息を潜めて狙っていた、待っていた。わずかでも私の方に彼女の意識が向くときを。彼女がプリントになんとなく目を移したこのとき、少しばかり私の顔色を窺ったようなこの瞬間を待っていたのだ。
めるあど……。
緊張したせいか、少しばかり舌っ足らずになってしまう。それで余計に焦ってしまい、よければ交換しない? と最後まで言えなかった。しかしあの呂律の回っていない一言でも充分に分かる彼女は聡く、あぁ、と言った。
「ごめん、今、充電切れてんの」
……そうか。それなら、仕方がない。そう表面上では取り繕いつつも、深く青い気分になった。ディープブルー。限界にまで溜めた私の勇気も、ここで一気に消費されてしまった。苦笑いですらぎこちない。彼女は机に突っ伏した。さっきよりも数倍きまずい空気だ。重くて苦しくて重くて、ため息でさえ地に落ちる。こんな調子で私はもう一度彼女にメールアドレスを聞こうと挑戦することなどできるのだろうか? メールアドレスを聞き出せるその時まで問うことができるのだろうか? できない気もしてくる。しかし聞きたい、という気持ちは消えなかった。
消化不良な泥を抱えたまま、私は授業を終えることとなる。どうしようもなく胃が重たく感じられた。これほどまでに穴に潜りたくなるのはいつぶりだろうか?
電子チャイムが鳴る前に、授業は終了した。いつもは手早く荷物をまとめて、いの一番に教室から退出する私だが、今日は気分とともにこの体も重く感じられ、かなりゆっくりと荷造りしていた。筆箱の中に筆記具をしまいこみ、鞄の中に放り込む。パラパラと書いたノートを流し読みしながら閉じると、教科書の間に滑り込ませる。教科書の該当ページにふせんを張って、ファイルを崩さぬように間へ入れる。
ピリリリリ、ピリリリリ。
ピリリリ、ブツッ。
と、すぐ横から、携帯の着信音がけたたましく聞こえてきた。持ち主がすぐに鞄に手を突っ込み、カチカチとボタンを押して止めた。……枯れ木に力を入れたような音が、脳内からした。ずいぶんと簡単に折れるものだな、と私はまるで他人事のように考えた。立ち上がった。誰も何も言わない。ちょうど後ろには茶髪な男子グループがいるのだが、あの一連の流れを聞いていたのだろうか、驚くほど静かだ。彼女は固まっている、顔は気まずそうではない。ただ、彼女はなんとなしに笑いたそうに唇の端を歪めていた。
スゥッと今までの気持ちが不自然なまでに落ち着いた。そう、垣間見得た彼女の本性はひどく■■■■から。
私は。
鞄が妙に重たかった。肩がちぎれそうな感覚。全身が引きちぎれる感覚。
私は…………。
足下。
蛍の死骸は、消えていた。
私にはあれが本当に蛍だったのかわからない。しかし蛍ではなかったように思える。あれは気の迷いだったのだ。
消えた、夏の日。
初出
関西大学文芸部創作パート部誌「ネムノハナ」
2012年夏号




