~リンツ・バルヴェニー~
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ナナシがトゥリアーナの世話になってから半年ほどが経った。勁とアルベニス流連槍術を覚えてからナナシはトゥリアーナの仕事も手伝うようになり、モトの町の住人とも随分親しくなった。自警団団長のキースから入団の誘いもあったが、ずっとここにいるわけではないからと断った。相変わらずトゥリアーナには飲み比べで勝った事はない。
とある日の夜、その日も魔獣駆除の仕事を終え、帰宅した二人。部屋着に着替え、そろそろ寝ようかとナナシはベッドに入ろうとした矢先、ドアの外からトゥリアーナの声。
「ナナシ、ちょっといい?」
「ん? ああ、どうした?」
「リビングに来て」
リビングに向かったナナシ、トゥリアーナは二人分の紅茶を用意していた。森で取れるセルバ草という薬草を発酵、乾燥させて抽出したこの紅茶は香りが強く、主にストレートティーとして飲まれることが多い。いつだったか仕事で砂楼亭に寄ったときにナナシが気に入り、それからというもののトゥリアーナはこの茶葉を切らしたことはない。
「珍しいな、トゥリアーナが淹れてくれるなんて」
「あたしだって紅茶くらい淹れるわよ」
「で? どうした?」
「もうそろそろかと思ってね」
その一言でナナシは理解した。ここでの生活が終わりだということを。
「そっか」
カップを見つめたままのナナシ。
「今でこそまだアタシと仕事してるけど、アンタはもうとっくに一人で仕事をこなせるレベルになってる。記憶はまだ戻ってないようだけど、これ以上ここにいても記憶が戻るとは限らない。別な場所に行くことで何かの手がかりが掴めるかもしれないんじゃない?」
「……そうかもな」
「それに最初に言ったでしょ? 記憶が戻るか、一人でやっていけるようになるまでって」
「ああ」
「明日すぐに出て行けなんて言わないけど、ここらで終わりにしましょ」
「そう、だな……そろそろかなとは思ってたよ」
「案外あっさり受け入れるのね。もう少しゴネるかと思ってたわ」
「あっさりでもないさ。それなりにショックはある」
「……」
「でも、俺もわかってる。いつまでもトゥリアーナに甘えちゃいられないって」
「そうね、もうアンタはガキじゃない」
「いつだかは母親に駄々こねるガキと一緒だって言われたっけな」
「そうだったわね」
「少しは成長できたのか」
「少なくともアタシがいなくてもやっていける程度にはね」
「……そっか……わかった。ここを出るよ」
「ええ」
「モトのみんなにも挨拶しなきゃな。そうだな……あと3日くれないか」
「わかったわ」
話の間、ナナシはトゥリアーナと目を合わせることはなかった。静かに揺れる紅茶に映る自分の顔はどんな顔をしていただろう。一口だけ口をつけた紅茶はすっかり冷めていた。
――そして3日後の朝、この日も相変わらず朝食はナナシが用意していた。お互いにいつもと変わらぬ様子で朝食を終え、間借りしていた部屋に荷物を取りに行くナナシ。日の光を抑えたこの部屋で、この家で過ごした半年余りを思い返すナナシ。いつもなら早く来いというトゥリアーナの声も今日は無い。
部屋を出て、玄関に向かう。トゥリアーナはドアのそばで腕組みをしながら待っていた。
「本当に世話になったよ、トゥリアーナ。この恩は忘れない」
「もちろんよ。……ナナシ、一つだけ約束して」
「なんだ?」
「アタシがここにいることは誰にも言わないこと」
「どうして……って聞くのは野暮か。ここに住んでる以上色々あるんだろうしな。わかったよ。誰にも言わない」
「ありがとう」
「トゥリアーナから礼を言われるなんてな。明日には砂漠が森にでもなってるんじゃないのか?」
「可愛くないわね」
「ははっ……じゃあ、行くよ」
「ええ、精々食われないように気をつけなさい」
トゥリアーナが扉を開け、ナナシは外に出る。餌を食べているホルメスを撫で、声を掛けたがちらりとナナシを見たホルメスはすぐに視線を餌に戻した。
「ナナシ」
「ん?」
「アンタに最後のプレゼントよ」
「なんだ?」
「リンツ・バルヴェニー。それが今日からアンタの名前」
「え……?」
「いつまでもナナシじゃ格好つかないでしょ。本当の名前思い出すまでは使いなさい」
「リンツ・バルヴェニー……ありがとう。大切にする」
「いつかその名前が終の地にも知れ渡るくらいになるよう期待してるわ」
「期待に添えるよう努力するよ」
「アンタの天恵がありゃ努力なんて必要ないでしょ」
「それを言うなよ……じゃあ、行って来る」
「行ってらっしゃい」
最初で最後のトゥリアーナからの「行ってらっしゃい」を聞き、リンツは旅立つ。トゥリアーナが見送るその背中は出会った当初の不安を抱えた男の背中ではなかった。
リンツを見送り、家の中に戻るトゥリアーナはドアに背を預け
「リンツ・バルヴェニーね……我ながらセンスのない名前だわ……」
小さく笑った。
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