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入室してきたのは幸の薄そうな女性だった。30代後半くらいであろうか、彼女の目には光がなかった。長く伸びた赤茶の髪もその輝きを失っていた。
「こちらへ。」
天帝が厳かに声を掛け、彼女は素直にそれに従った。
「あなたは1958053012号、福田早苗さんでよろしいか。」
「…はい。」
彼女は震える声で答え、そのまま下を向いていた。まるでこれから起こることを恐れているようだった。
「1958年、5月30日、夫の会社が倒産したことを受けて無理心中を図る。しかし失敗し自分だけ死亡、享年32歳。夫は手を怪我しただけだったが、当時5歳だった長男は左足に障害が残った……。確かだね?」
女はそれを聞くと糸が切れたようにへなへなと座り込み、嗚咽を漏らした。
同情する余地はあるのだろうか。まだ駆け出し天使の私には分からなかったが、リヒトさんは何とも言えず苦い顔をしていた。やはり後味の悪い案件なのだろう。
天帝は哀れむ目で彼女を見やると続けた。
「情状酌量の余地はある、と思う。しかし愛する者を手にかけようとした罪は重い。」
天帝は一呼吸おいて、感情を消したような表情になった。彼にとってもこれは楽しい仕事でないのは明らかだ。
「もちろんあなたが無駄にした残りの寿命48年分は返してもらう。これを引いて今回残る寿命は25年だ。さらに愛する者を殺めようとした罪と、彼らの心に残る傷を引くと10年。あなたに与えられる最長の寿命だ。」
「じゅ、10年ですか?」
女はおどおどと、青白い顔を上げて天帝を見やった。天帝はけれども今度は真っ直ぐと彼女を見つめた。始めて二人の視線が合わさる。
「むしろこれでも長いくらいだ。罪を犯した者の中には寿命で対価を払いきれない者も多い。」
「子供を…子供を殺めようとしたから、次は産まないようにと…そういうことなのですか。」
震える声で訴える彼女に、天帝は溜息をついた。
「それも選択肢の一つだというだけだ。あなたには三つの選択肢をあげよう。一つ目はそのまま、10歳まで現世で生きること。二つ目は5歳までしか生きることができないが、かつての夫の魂の近くに生きること。三つ目は…滅多にない選択肢だが、猫として生まれること。子供を持つことができる唯一の道だ。」
女はぽかんと口を開くと、緊張が抜けたように呟いた。彼女の瞳に初めて希望の光が灯るのを見た気がした。
「またあの人に、夫に出逢えるのですか…?」
天帝は静かに頷くと、はかない笑みを浮かべた。憐憫の瞳は彼女を捉える。
罪の行いのほとんどは、天界にいるうちに悔い改められるのだと聞いた。彼女は自分の死から約60年間後悔を重ね、やっと5年間の生を得ることができたのだ。
短い、けれどかつて裏切ってしまった夫の側で生きられるというのは、彼女にとって時間では計ることのできない価値があるのだろう。
「よろしく…お願いします。」
泣き崩れた体勢のままだった彼女は、そのまま天帝に首を垂れたのだった。
侍女に連れられ退出していく彼女は、入って来たときよりも心なしか穏やかな顔をしているように思えた。
リヒトさんは振り向くと、再び私とケータの頭上で手を振った。
私とケータは思わず自分の身体に不審なところが無いかを確認してしまい、リヒトさんからの苦い視線を浴びた。
天帝はその様子にひとしきりくすくす笑うと、一転真面目な表情で私に話しかけた。
「自殺した魂は、次の人生からペナルティを払ってもらう。分かったろう。」
私は先ほど見た女性を思い出して、何ともいえない切なさを味わった。