傘
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梅雨時はジメジメしている。その日は雨降りだったので、あたしは傘を差し、街を急ぎ足で歩いていく。軽く降っていた香水が香った。歩きながら考え続けている。今日、彼氏の真と会ったとき、何を話そうかと。雨が幾分強くなってきたので、傘を差していても濡れてしまう。だけどこれから彼のマンションへと行くのだ。何も躊躇うことはない。やや歩を緩め、心を落ち着けてから歩き続ける。さすがに前日が寝苦しくて、その日の朝も午前五時過ぎに目が覚めてしまったので、正午になると眠たい。真のマンションは街の裏手にある。あたしもずっと彼と付き合っていたので詳しく知っていた。歩きながらも、いつの間にか小雨になっていることに気付く。傘を下ろし、折り畳んでしまってから、歩き続ける。そして午後零時半前にマンションに辿り着いた。呼び鈴を押すと出てくる。彼は普通のサラリーマンで普段は会社に勤めていて、休みになるとゆっくりしていた。あたしもそれは察していたので、休日は午後から会うのだ。午前中は大概寝ている。疲れているのだろう。ずっと仕事に忙殺されていて。
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「おう、媛香」
「ああ、真。……疲れてるんでしょう?」
「うん、まあな。会社が休みのときぐらいゆっくり寝てたいよ」
「確かインスタントコーヒー、戸棚にあったわよね?」
「多分そう思うけど」
真は普段自宅であまりコーヒーを飲まないようだった。おそらく朝起き出し、出社準備をしたら、急いで家を出るのだろう。あたしも察していた。彼が正直なところ、自宅の中をあまり詳しく知らないという事実を。何がどこにあるのか判別が付きにくいぐらい、真は狭い部屋に住んでいる。しかも寝に帰るだけのようだ。薬缶がキッチンに置いてあったのでお湯を沸かし、コーヒーを二杯ホットで淹れた。多分これで目が覚めるだろうと思って。あたしもいくら会社で女性社員という身分にいても、いつも室内を片付けていたのだし、疲れたと思ったら、コーヒーじゃなくてルイボスティーを一杯淹れ、飲んでから眠りに就く。気持ちを落ち着けて。
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「コーヒー淹れたわよ」
「ああ、ありがとう。もらうよ」
ホットで淹れた。夏場でも真がコーヒーは熱めで飲む癖があるのを知っていたからだ。三十代でも体のあちこちにガタが来る。それは分かっていた。彼もいつもは食生活が乱れているので、疲労が体に来ているのは知っている。あたしも別にそういったことには触れなかった。単に休日は二人きりでゆっくりと過ごせればそれでいい。ずっとそう思っていた。何も特別なことはないのだ。一緒にいて、空腹感を覚えれば真が買い込み、冷蔵庫に入れていた食材で食事を作る。食材がないときはないときで、外に食べに行ったりしていた。要は休みの日ぐらい、普段の憂さを忘れてゆっくりするのだ。あたしもそう思っていた。ずっとオフィスでキーを叩き続けるのは疲れる。何か単調さを感じているのだった。同じ調子で進むので変化らしい変化がない。真がコーヒーの入ったカップに口を付けながら、
「寝起きの一杯はいいね」
と言う。あたしも同じように飲んでいるのだった。ゆっくりと過ごす。疲れてはいたにしても、何も考えないわけじゃない。彼とは長い付き合いだ。ずっと一緒にいてお互いの思惑が手に取るように分かっていた。別にそういったことが悪いことでも何でもないのだし、逆に言えばいいことなのである。確かに気持ちが通じ合うことで、カップル間において何らかの問題が生じることもある。だけどツーカーで通るのはいい傾向だ。特に何も問題がない。単に一時的に居心地の悪さのようなものが出てくるというだけで。ずっとパソコンのキーを叩き続けるというのが仕事だから、疲れを覚えている。だから真と一緒に過ごせる休みの日の時間は何よりも大事だった。何気ない風なのだが、ちゃんとキープしておきたい時だ。あたしも彼もそう思っている。
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「媛香」
「何?」
「いつも単調だろ?仕事」
「ええ、まあね。だけど割り切って考えてるから。オフィスでフルタイムで仕事したら、ほとんど家には寝に帰るだけなんだし」
「俺と同じだな。……疲れてる?」
「まあ、そうね。でも別に構わないから。あたしもあなたと一緒にいられるときが一番楽しいの」
「俺とでも?」
「ええ、別に何も関係ないわ。あなたとはこれからもずっと一緒にいるつもりだし」
「そう……」
真が言葉尻に含みを残し、言った。彼は言葉遣いが幾分不器用でも、あたしのことを想ってくれている。忙しい仕事の合間でも。そしてその日もゆっくりと互いにベッドに寝転がった。コーヒーの入ったカップをサイドテーブルに置いてから。ずっときつかったことがまるでウソのように抜けてしまう。あたしも普段ずっとキーを叩き続けていて腱鞘炎になっていたし、倦怠感のようなものもあった。おそらくそういったことを考える年齢に来ているのだろう。確かに幾分抵抗はあったのだが……。だけど老化というほどじゃない。単にちょっと疲れているだけで問題らしい問題はなかった。互いにゆっくりと愛を育んでいくつもりでいる。少しずつかもしれないけれど……。あたしもずっと長いときを会社員生活に費やしている。三十代で、十代や二十代のような若さはなくて、いろんな面で変わってきつつあった。単純な作業をこなすのもアラサーのあたしにとってはしんどいのだ。疲れが出てきつつある。徐々に。そして気持ちも変わってきつつあった。さすがに三十代だとしんどさを感じることはある。だけど逆に言えば、多少の疲れは抱えられている。そう思っていた。真と会ったときぐらい、忘れようと感じている。普段の仕事の憂さやきつさなどを。
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どちらからともなくベッドに寝転がり、体を重ね合っていた。キスから入り、ゆっくりと抱き合う。誰も邪魔する人間はいない。いつものことを忘れ、幸福感を味わえていた。ゆっくりと抱き合い続ける。この行為が快楽に繋がっていることはあたしの付けていた香水の香りが香り出すことで十分分かるのだった。ずっと抱き合い続ける。ゆっくりと。雨は完全に降り止み、玄関に置きっぱなしにしていた傘からもわずかに雨の匂いが漏れ出る程度だった。そして雨空が晴模様へと変わる。ゆっくりと日差しが差してくるのが分かっていて。
(了)