プロローグ
凛とした髪を、風がなぜた。近付いているという台風の影響だろうか、普段よりも風が幾分と強い。木の葉が風に巻き上げられ、幹がまるでざわめくように揺れる。きつく唇を噛み締めて彼は、青木詩音は手にした木刀を真上に振り上げた。揺さぶり騒がせようと懸命に吹き荒む風をまるで感じていないように微動すらさせず、ぴたりと木刀を固定したまま、詩音は視る。刀の軌道を、切るべき存在を。確かに詩音の目の前には物質は存在してはいない。だが、それが何だというのだろう。ただ、心のままに。
斬る。
決意を込めて瞳を見開いたまま、詩音は半歩踏み込むと、ただ一文字、寸分も狂いなく自身の真正面へと木刀を振り下ろした。風を切る鋭い音が響き渡る。重力に任せて落ちる直前に力を引き絞った木刀は詩音の欲したとおり、自身の真正面、正眼の位置にぴたりと収まった。そこで漸く、詩音は一息を付く。斬る瞬間は呼吸を忘れる。緊張に萎縮した肺は詩音の一息で役目を思い出したのだろう。懸命に不足している酸素を補充し、全身へと流してゆく。その感覚をもう一度、呼吸を整えながら感じた詩音は、背後から見つめる視線に気付いてゆっくりと振り返った。
「わ、なんで気付いたの!」
詩音の視界に入った同年代の少女は、詩音が振り返った直後にほんの少し、楽しむようにその表情を緩めさせた。詩音の幼馴染、北村真理である。手に巾着袋を掴んでいるところを見ると、詩音同様稽古の帰りなのだろう。
「気配でばればれ」
拍子抜けしたように詩音はそういうと、木刀を右手に持ち、そのまま右肩にとん、と乗せた。
「隠したつもりなんだけどな」
悔しげに真理はそう言いうと、遠慮せず気楽な足取りで詩音へと近付いた。ふわり、とポニーテルが風に揺れる。自然に制服の裾を押さえたのは、幼馴染とはいえ下着を簡単には見せないぞ、という意思表示だろう。
「付き合いが長いから。すぐに分かるよ」
「流石、日本一の腕前のお方は違うね」
にこやかに微笑みながら真理は詩音の隣にしゃがみこんだ。
「運が良かっただけだよ」
わざとらしくそっぽを向きながら、詩音はそう言った。自身の実力を必要以上に誇示する性格を彼は持ち合わせてはいない。
「いつの間にか、随分差が付いちゃったね」
惜しむように、上目遣いに詩音を見上げながら真理はそう言った。大きめの、形の良い瞳が真っ直ぐに詩音を見つめる。ぽつぽつと点灯し始めた街並と、悠々と流れる多摩川の流れに視線を逸らしながら詩音は参ったな、とう様子で軽く頭をかいた。
「昔は同じくらいだったのにね」
がたん、ごとん、と少し離れた鉄橋を列車が走る。帰宅途中のサラリーマンで埋められた車内が、急かされるような勢いで走り去ってゆく。
「真理も、十分に強いよ」
列車が走り去り、無回答の時間が終わりを迎えたことを意識した詩音は、それでもどう答えたらよいか分からずに、それだけを口にした。
「ありがと、詩音」
に、と満足するように真理は笑い、そして柔らかく立ち上がった。汗の匂いを隠すためだろう、心地の良いコロンの香りが詩音の鼻腔をくすぐる。前はこんなものは付けていなかったのに、と詩音は思った。
「そろそろ、帰ろうか」
立ち上がると真理は詩音を促すようにそう言った。日はもう暮れかかっている。風は先程よりも更に強くなっている様子だった。台風が確実に近付いているのだろう。
青木詩音。
今年十七歳になる、高校二年生の少年である。先述の通り、彼の得意分野は剣道、或いは剣術である。さて、何事にも手を出すきっかけが存在しているだろうが、彼の場合は自らの意思ではなく、生まれ育った家庭が丁度剣道を始めるのに都合がよいという原因が存在していた。母方の父親、即ち詩音の祖父は詩音の家の近くで代々剣道の道場を生業としている一族であったのだから。その系譜を更に辿れば、幕末の剣豪にたどり着くと言われている詩音の家庭において、剣の道へと歩むことは寧ろ当然のことであった。そこでは競技用の剣道指南は勿論行われているが、もう一つ、詩音を初めとした僅かな人間にだけ伝授されているものがあった。
それが剣術である。
精神的な向上を主目的とする剣道とは異なり、剣術とはそのまま、剣の使い方を鍛錬する武術である。即ち、如何に効率よく人を殺傷するかという技術。その技術を詩音と、そして真理は師範である祖父と、師範代である叔父から何度も叩き込まれていた。無論、実際に真剣を握ったことは居合いの訓練を除けばこれまで一度足りとして無いものの、その代わりに詩音は常に木刀を持ち歩いていた。むやみに人を傷つける精神を詩音は微塵も持ち合わせてはいなかったが、常に武器を携帯すると言うことで精神的な緊迫感を忘れないようにしているのである。
その詩音の興味は決して剣術だけに止まらなかった。戦に関すること、即ち戦史や戦術、戦略論にまで詩音の興味は広がっていた。それに加えて、叔父が自衛隊や警察官の剣道指導に定期的に赴いていることにも関連して、現代兵器にまで詩音の興味は尽きない。将来は自衛官か、警察官か。そんなことを考えながら詩音は日々の生活を過ごしていたのである。
そして北村真理。
彼女は詩音とは異なり、ごく一般的な庶民の家に生まれた、詩音とは同い年になる少女である。元々内気で人前に出ることすら恥ずかしがっていた性格を直したいと言う両親の希望で詩音と同じ道場に半ば無理やりに放り込まれた彼女であったが、天性の才能が優れていたものか、彼女は剣を手にしたとたんみるみる内にその実力を向上させていった。今は道場に通う女性陣の中では間違いなく一番の実力を誇っている。練習を欠かさない、元来の生真面目な性格が上手く鍛錬に生かされたのかもしれなかった。
その真理を自宅まで送ったとき、彼女は嬉しそうに頬を緩めながら、詩音に向かってこう言った。
「ありがと、詩音」
「うん」
特段、他意があった訳ではない。ただ、時折詩音は不安を覚えるのだ。確かに真理は、詩音が一目以上置くほどに強い。だが、それでも詩音は未だに忘れられない。練習が辛いと泣いていた、かつての幼い頃の真理の姿を。だからこうして、少し過保護とも思える態度で真理に対して接しているのである。
「また、明日ね」
真理はそう言って、自宅の玄関へと入っていった。何処にでもある、木造二階建ての一軒屋の扉に彼女の姿を見送ってから、詩音はもう一度歩き出した。
再び、風が荒ぶ。空を見上げると、すっかりと暗闇に包まれた上空にびっしりとした重たい雲が覆い被さっていた。街灯の光に照らされて淡く浮かぶ暗雲を見上げて、詩音は家路への歩みを少し早めた。
それから数分後、ぽつり、と大粒の雨が詩音の額を強く打った。降って来たと詩音が考えた直後、もう一度、先程よりも強い風が詩音の身体を襲った。それと共に強烈な雨が周囲を飲み込んでゆく。激しい音。まるで人を殺しにかかるような強い雨が詩音の身体を痛めつけ始めた。しまった、と詩音は考え、歩みを走りに変えて家路を急ぐ。髪が、服が、鞄が、巾着袋が瞬時に水ばかりに染まる。まるでプールの中に飛び込んだかのような水が滝の如く天空から降り注いでくる。真理の家から詩音の家はそれなりに離れていた。普通に歩けば二十分は優にかかるだろう。残念なことに、近くに雨宿りが出来そうな場所もない。せめてコンビニでもあれば、ビニール傘程度は調達できるだろうけれど。
詩音がそう考えた時、妙な光が詩音の視界を刺した。
明らかに街灯の光ではない。不思議な光に雨を忘れて詩音は見た。その場所は神社の奥。昔からある、小規模ではあるが古びた神社である。光は神社の奥から漏れてきている様子であった。その光に興味を抱いたということと、神社であれば雨宿り程度は可能だろうという判断から詩音は方向を変え、境内へと向かって駆け出した。
光を、より強く感じる。場所は境内の裏か。雨宿りの目的を果たすには自分はもう濡れすぎている。詩音はそう判断すると、思い切って境内の裏へと向かうことにした。駆けていた脚は止め、慎重に、用心しながら。
それは表現に困惑する物体であった。淡く輝く、光の渦。光源も無く、それ自体が輝いているように見える。霧がもし自身で発光する能力を身に付けたとしたら、このような輝きを見せるのだろうか。詩音はそう考えながら、軽く、その光に向かって指を伸ばした。ぽん、と、まるで柔らかなクッションにでも触れたかのような反発が指先に伝わる。質量があるのか、と詩音は驚き、もう少し観察をしようと興味のままに身体を近付けた。
そして。
飲み込まれた。
言葉を発する間もなく詩音は光の霧に飲み込まれた。それまで見ていた境内の風景は消え去り、残るのは光の回廊とも言うべきぼんやりとした輝きばかり。足元の感覚は既に無くなっているにも関わらず、落下している感覚もない。ただ、浮かぶような、強い力に流されるような、そんな感覚ばかりが詩音を包み込んだ。
「これは、一体……」
滅多に恐怖を覚えない詩音ですらも、得体の知れぬ物体に対して恐怖を覚えた。戻らなければならない、と残された理性で考えて、後ろを振り向く。しかし。
後ろを見ても、見えるものは光の霧で覆われた、何もない空間だけであった。
「な……」
言葉を失い、詩音はただ恐怖に身体を震わせた。何かの感覚を欲して掴んだ先には、硬質な感覚を間接的に伝える木刀袋があった。大丈夫、剣さえあれば、どうにでもなる。
詩音は不安を無理に引き剥がすようにそう考えると、一度深く、呼吸を整えた。根拠の無い安堵感ではあったが、それだけでも詩音の理性を冷静に留めるには十分であったのである。
直後、詩音の身体が反転した。身体が引き裂かれるような、押しつぶされるような、転がされるような、得も知れぬ強烈な不快感が詩音を包み込み、彼の身体を弄ぶように揺さぶり始めた。強烈な重力と強い吐き気を感じたことを最後に、詩音はその意識を一度、途切れさせた。