偽名は鏡に映らない
第一章 存在しない十九歳
その女の名は、どの名簿にも存在しなかった。
白沢みずき、十九歳。都内の服飾専門学校に通い、休日にはカメラを持って街を歩く。甘いものが好きで、人見知りだが、打ち解けるとよく笑う――。
プロフィールだけを読めば、どこにでもいそうな若い女性だった。
だが、鏡の前に立っていたのは、二十七歳の男だった。
志月浩人は、ホテルの洗面台に両手をつき、鏡の中の自分を眺めた。元の顔は細長く、頬骨がやや高い。眉を消し、影を置き、まぶたの幅を作り、輪郭を柔らかく見せる。そこへ肩甲骨まで届く暗い栗色のウィッグを載せると、鏡の中の人物は一気に別人へ近づいた。
声も同じだった。
「初めまして。白沢みずきです」
高すぎず、幼すぎず、喉に引っ掛かりのない声。浩人は一音ずつ確かめ、口元を少しだけ上げた。
衣装の下にはコルセットがあり、胸元と腰回りには体型補正用のパッドが収まっていた。もともと肩幅の狭い浩人にとって、外見を整えること自体は難しくない。問題は、動きだった。歩幅、座り方、バッグの扱い、笑うときの肩の揺れ。彼は数年間、それらを研究してきた。
研究の目的は、表現でも趣味でもなかった。
相手の警戒を解き、連絡先を聞き出し、自分に都合のいい関係へ持ち込むこと。そのために、彼は女性の姿を使った。
この日、湾岸の国際展示場では、成人限定の大型交流イベント「ミラージュ・リンク」が開かれていた。コスプレ、写真、創作展示、交流企画を組み合わせた催しで、入場者は全員十八歳以上。浩人は事前審査に偽造した身分情報を送り、十九歳の女性参加者として登録していた。
狙いは、女性参加者だった。
男性として近づけば警戒される相手でも、同年代の女性を装えば距離は縮まる。写真を褒め、衣装を褒め、相談に乗るふりをして、閉会後の予定を聞く。浩人はそれを「会話術」と呼んでいた。
テーブルの上には、二つ目の化粧ポーチと、短い黒髪のウィッグ、小さめの補正パッド、幅の違うコルセットが並んでいた。
追われたときのための、別人一式だった。
「今日は、長く遊べそうだ」
浩人はそう言い、清楚な少女の微笑みを完成させた。
会場へ向かう廊下の鏡に映った彼は、少なくとも外見だけなら、誰よりも自信に満ちていた。
しかし、鏡は表面しか映さない。
その笑顔の裏にある悪意までは、隠してくれなかった。
第二章 桃色の入場証
会場の入口は、朝から人であふれていた。
高い天井から吊られた照明が白い床に反射し、衣装の布地やアクセサリーがきらめく。受付では本人確認が行われていたが、浩人は事前発行の電子証と偽造データを用意していた。係員が端末を確認し、桃色のリストバンドを渡す。
「白沢みずきさんですね。成人限定エリアを利用する際も、このバンドを見せてください」
「はい。ありがとうございます」
声は自然だった。係員の視線は一秒も長く留まらない。
浩人は人波へ紛れた。
清楚な印象を作るため、白いブラウスに紺色のロングスカート、淡い灰色のカーディガンを選んでいた。体型補正具が作る輪郭は目立つが、露出は少ない。派手さよりも、近づきやすさを優先した装いだった。
最初に声をかけたのは、青い軍服風の衣装を着た二十三歳の会社員だった。
「その刺繍、全部ご自分で?」
相手の目が輝いた。
「そうなんです。三週間かかって」
「すごい。縫い目、すごくきれいですね」
浩人は相手の話を遮らず、必要なところで感心し、少しだけ自分のことを話した。白沢みずきという架空の人物には、会話を続けるための設定が細かく用意されている。出身地、好きな店、苦手な食べ物、使っているカメラ。質問されても迷わない。
十分ほどでSNSの連絡先を得た。
二人目、三人目も同じだった。
浩人は笑いながら、胸の内で相手を分類した。押しに弱い。警戒心が強い。褒め言葉を疑わない。閉会後も残りそうだ。
その視線を、少し離れた柱の陰から見ている人物がいた。
金色に近い明るい茶髪。強い目元を作るメイク。黒い短丈ジャケットに、紫のラインが入ったワイドパンツ。大ぶりのイヤリングが揺れるたび、周囲の視線を集める。
名札には「黒瀬ルナ 二十歳」と書かれていた。
外見は、華やかなギャル系の女性コスプレイヤーだった。
けれど、その正体は二十四歳の男性、黒瀬玲央である。
玲央は女装コスプレを始めて六年になる。撮影技術と衣装制作で知られ、イベント運営の安全協力スタッフも務めていた。今日は一般参加者として入場しているが、迷惑行為を見つけた場合は運営へ報告する立場でもある。
玲央は、浩人の顔ではなく、会話の終わり方を見ていた。
相手が連絡先を渡した直後、浩人の興味が急に薄れる。次の標的を探す視線へ切り替わる。褒め言葉が具体的なようでいて、相手の反応に合わせているだけ。質問には答えるが、自分からは決して確かめられにくい話題しか出さない。
そして何より、三人続けて女性にだけ声をかけていた。
「なるほどね」
玲央は小さくつぶやいた。
隣にいた友人の真帆が首をかしげる。二十六歳の女性で、赤いマントの撮影衣装を着ていた。
「何が?」
「あの白い子。会話がうますぎる」
「褒めてる?」
「半分はね。残り半分は、嫌な予感」
真帆は浩人を見た。
「普通にかわいい子じゃない?」
「かわいいかどうかと、安全かどうかは別」
玲央は笑った。
「ちょっと話してくる」
第三章 最初の鏡合わせ
浩人が四人目の参加者に近づこうとしたとき、横から明るい声が飛んだ。
「ねえ、みずきちゃん。写真、一枚いい?」
振り向くと、黒瀬ルナが立っていた。
浩人は一瞬だけ警戒した。相手の派手な外見ではなく、立ち位置が気になった。逃げ道を塞いでいるわけではない。だが、自然に人の流れを外れた場所へ誘導している。
「もちろんです」
二人は撮影用の壁面へ移動した。
玲央はスマートフォンを構え、何枚か撮る。浩人は顎の角度を調整し、肩を落とし、柔らかく笑った。
「慣れてるね」
「そんなことないですよ」
「初参加?」
「はい。こういう大きいイベントは初めてで」
「へえ。なのに、会場の回り方がすごく効率的」
玲央の口調は軽い。けれど、目は笑っていなかった。
「緊張してるから、早めにいろんな人と話そうと思って」
「それで、女の子にだけ?」
浩人は、驚いた顔を作った。
「たまたまです」
「たまたまが四人続いたんだ」
「男性の方とは、ちょっと話しづらくて」
「そうなんだ。じゃあ、私とは平気?」
「ルナさんは、話しやすそうだから」
玲央は笑った。今度は声だけでなく、目元も笑っていた。
「上手だね。そういう返し」
浩人は、会話を切り上げるべきだと判断した。
「友達を待たせているので、そろそろ」
「友達、どこ?」
「西ホールです」
「西ホール、今は入場規制中だよ。友達が中にいるなら、連絡つかないかもね」
浩人は一拍だけ遅れた。
玲央は、その遅れを見逃さなかった。
「連絡してみます」
「うん。あと、名札の年齢表示、十九歳なのに、成人確認バンドが桃色なんだね」
「それが何か?」
「何でもない。桃色は一般成人。二十歳未満は黄色だから」
浩人の背中に冷たいものが走った。
受付の係員は桃色を渡した。偽造情報のどこかが正しく反映されていない。玲央が運営に詳しいなら、この矛盾を報告する可能性がある。
「受付のミスだと思います」
「そうかもね。確認してもらおうか」
玲央がスタッフ用の連絡アプリを開こうとした。
浩人は即座に笑顔を崩した。
「すみません、気分が悪くて」
片手で口元を押さえ、体をふらつかせる。周囲の視線が集まり、玲央の注意が一瞬だけ外れた。その隙に、浩人は人混みへ滑り込んだ。
「待って!」
玲央の声が背後で響く。
浩人は走らない。走れば目立つ。歩幅だけを少し広げ、展示ブースの陰を選び、方向を二度変えた。
胸の内では、もう次の顔を組み立てていた。
白沢みずきは、ここで消える。
だが、イベントから出るつもりはなかった。
まだ、何も手に入れていない。
第四章 更衣室の別人
浩人は臨時更衣室の個室へ入ると、鍵をかけた。
鏡の前で呼吸を整える。
焦ってはいけない。変装は、急ぐほど粗が出る。
まず暗い栗色のウィッグを外し、ネットを整える。白いブラウスとカーディガンを脱ぎ、バッグから灰色のパーカーと細身のパンツを取り出した。大きめの胸元用パッドを外し、薄いものへ交換する。腰回りの補正具も形の違うものに替え、コルセットを一段緩めた。
清楚な曲線から、活動的で細身の輪郭へ。
メイクは全部落とさない。目尻の線を短くし、眉をやや太く描き直し、頬の影を変える。口紅は淡い桃色からくすんだ赤へ。最後に、顎までの黒いボブウィッグをつけた。
鏡の中には、先ほどより年上に見える女性がいた。
名前は相沢ユナ、二十四歳。
浩人は声も少し低くした。
「すみません。通してもらえますか」
白沢みずきの柔らかな声ではない。早口で、少しぶっきらぼうな話し方。
十五分後、相沢ユナは更衣室を出た。
入口付近にはスタッフが二人いたが、浩人を止めなかった。白沢みずきの特徴は、長い栗色の髪、白いブラウス、紺色のスカート。いまの姿とは一致しない。
浩人は内心で玲央を嘲笑した。
外見を見抜く人間は多い。だが、人間は外見に頼りすぎる。髪型と服装、輪郭の重心を変えるだけで、記憶は簡単に揺らぐ。
会場の北側にある創作展示エリアへ移動すると、浩人は再び女性参加者へ声をかけた。
「その写真集、これ自分で撮ったんですか?」
今度は清楚さではなく、同じ趣味を持つ気さくな女性として近づく。
相手は真帆だった。
「そう。友達と二人で作ったの」
「構図、すごく好きです。特にこの逆光のやつ」
「ありがとう。撮ったのはルナだけどね」
浩人の指が止まった。
「ルナ?」
「黒瀬ルナ。さっき一緒にいた、派手な子」
「ああ、見かけたかも」
「有名だよ。女装コスプレイヤーで、運営の安全協力もしてる」
浩人は、表情を変えなかった。
女装コスプレイヤー。
つまり、玲央もまた男性だった。
先ほどの細かな観察力に説明がついた。同じ技術を使う者だからこそ、違和感を拾える。
真帆は写真集を閉じた。
「ところで、前にも会ったことある?」
「ないと思います」
「声が、誰かに似てる気がして」
浩人は笑った。
「よくある声なんじゃないですか」
「そうかな」
「閉会後、近くで撮影できる場所を探してるんですけど。よかったら一緒に――」
「真帆」
背後から声がした。
玲央だった。
浩人は振り向かずに、机上の写真集へ視線を落とした。
「その人から離れて」
玲央の声は、先ほどより低かった。
真帆が戸惑う。
「知り合い?」
「たぶんね」
浩人はゆっくり振り返った。
「初対面ですけど」
「そういうことにしたいなら、それでもいいよ」
玲央は浩人の足元を見た。
「でも、靴までは替えなかったんだね」
清楚な服装にも、今のパーカーにも合わせられるよう選んだ、黒いローヒールの靴。
玲央は白沢みずきの顔ではなく、歩き方と靴を覚えていた。
第五章 二度目の対決
真帆は二人を見比べた。
「どういうこと?」
「この人、さっき十九歳の白沢みずきって名乗ってた」
「人違いです」
浩人は即答した。
「髪も服も違いますし、私、二十四です」
「顔を変えられる人は、髪も服も変える」
玲央は距離を詰めすぎない。周囲の人に聞こえる声量を保ち、逃げ道は塞がない。浩人が暴れたとき、責任を問われないための立ち位置だった。
「証拠は?」
「あるよ。白沢みずきが消えた直後、更衣室へ入った人の時間記録。あなたが今つけている名札は、別の参加者が落としたもの」
浩人の胸元には「相沢ユナ」と印刷された名札がある。更衣室へ向かう途中、床から拾ったものだった。
「拾ったから、受付に届けようとしてただけです」
「じゃあ、どうして自分の名札を外してるの?」
「なくしました」
「白沢みずきも、名札をなくしたらしいね」
真帆の顔から笑みが消えた。
「ルナ、本当にこの人なの?」
「まだ断定はしない。でも、運営に確認してもらう」
玲央が連絡端末を取り出す。
浩人は周囲を見た。右手に展示机、左手に通路。前方には人だかり。背後は壁。
ここで走れば、玲央は追う。スタッフも動く。
ならば、玲央を悪者にすればいい。
浩人は突然、怯えた表情を作った。
「やめてください」
声を高くし、両肩を縮める。
「さっきから、私のことを男みたいに言って、追いかけてきて。怖いです」
周囲の視線が玲央へ集まった。
玲央は眉を上げる。
「なるほど。その手で来るんだ」
「知らない人に身体のことを言われるの、嫌です」
「私は、あなたの身体について何も言ってない」
「男だって疑ってるじゃないですか」
「性別の話じゃない。登録情報と行動の話をしてる」
玲央の返答は冷静だった。
だが、周囲には事情を知らない人もいる。ざわめきが広がる。
浩人は真帆の腕へ手を伸ばした。
「この人、怖い。少し一緒に来てもらえませんか」
真帆は一歩下がった。
「触らないで」
その拒絶に、浩人の動きが止まる。
「さっき、閉会後に二人で行こうって言ったよね。初対面なのに」
「撮影の話です」
「場所も決めずに?」
玲央は真帆の前へ出た。
「三人目。白沢みずきが連絡先を聞いた人のうち、三人が同じことを言ってる。閉会後に二人で会おうと誘われたって」
浩人は舌打ちしたくなるのをこらえた。
玲央はすでに聞き取りを始めていた。
会場の奥で、スタッフ二人がこちらへ向かってくるのが見えた。
浩人は展示机の端に置かれていた段ボール箱を押した。箱が倒れ、中の冊子が床へ散る。周囲が悲鳴を上げ、通路が一瞬だけ乱れた。
その隙に、浩人は人垣を抜けた。
「また逃げた!」
玲央の声が飛ぶ。
今度は浩人も走った。
パーカーの裾が揺れ、ボブウィッグの毛先が頬を打つ。人にぶつからないよう進みながら、非常口ではなく搬入口側へ向かう。
展示場の構造は事前に調べてある。
搬入口の近くには、スタッフと出展者だけが使うサービス通路がある。そこへ入れれば、別棟へ移動できる。
問題は、扉を開けるための認証だった。
浩人の手には、先ほどの混乱で展示机から抜き取った一枚のカードがあった。
出展者用の入退場証。
ナンパだけで終わるはずだった計画は、もう明確な犯罪へ踏み込んでいた。
だが浩人は、引き返すより、逃げ切ることを選んだ。
第六章 サービス通路
認証カードをかざすと、扉のランプが緑に変わった。
浩人はサービス通路へ滑り込み、扉を閉めた。
会場の華やかな音が遠ざかる。灰色の壁、むき出しの配管、台車の車輪が残した黒い跡。一般参加者の姿はない。
ボブウィッグを外し、パーカーのフードをかぶる。メイクを完全に落とす時間はない。頬と口元だけをウェットシートで拭き、マスクをつけた。
補正具を減らしたことで輪郭はすでに変わっている。さらに腰回りのパッドをバッグへ押し込み、上着の前を閉めた。コルセットの留め具を緩めると、呼吸が少し楽になる。
女性参加者から、中性的なスタッフ風の人物へ。
浩人は搬入口側の階段を下りた。
外へ出れば終わる。タクシーへ乗り、ホテルへ戻り、荷物を処分する。偽名のアカウントは消せばいい。
だが、一階の扉は施錠されていた。
認証カードをかざしても赤いランプが点る。
「出展者カードじゃ、搬入口の外には出られないよ」
背後から玲央の声がした。
浩人は振り返った。
階段の踊り場に、黒瀬ルナが立っていた。息は乱れているが、足取りは落ち着いている。派手な金髪とメイクはそのまま。手にはスタッフ用端末が握られていた。
「どうやって入った」
浩人は、もう女性の声を使わなかった。
「協力スタッフだから。権限がある」
「だったら、先に言えよ」
「言ったら、もっと早く逃げたでしょ」
「ここで俺を止める権利があるのか」
「ある。あなたが盗んだカードを返してもらう権利もね」
浩人はカードを握りしめた。
「同じだろ」
「何が?」
「お前も男なのに女の格好をして、人を騙してる」
玲央の表情は変わらなかった。
「私はプロフィールに書いてる。撮影相手にも、交流相手にも隠してない。女装は表現であって、相手の警戒を下げるための道具じゃない」
「見た目だけなら同じだ」
「見た目が同じでも、目的が違う」
「きれいごとだな」
「きれいごとで人を守れるなら、言うよ」
玲央は一段ずつ階段を下りた。
「白沢みずきのアカウント、去年の別イベントでも使ってたね。年齢と学校名だけ変えてる。連絡先を渡した人が、後から男性のアカウントに誘導されたって相談してる」
浩人の目が細くなった。
「証拠はない」
「画像の背景が同じ。使ってる言い回しも同じ。何より、今日あなたが同じ誘い方をした」
「だから何だ」
「今日で終わりにする」
遠くで扉が開く音がした。スタッフが来る。
浩人は階段の横に積まれた台車へ手をかけた。
玲央が身構える。
「やめな。怪我人が出たら、言い逃れできなくなる」
「もう言い逃れなんて考えてない」
浩人は台車を強く押した。
金属音が通路へ響く。玲央は横へ避けた。浩人はその脇を抜け、上階へ駆け戻る。
搬入口から出られないなら、会場へ戻るしかない。
人混みの中で、もう一度消える。
そのための最後の顔が、まだバッグに残っていた。
第七章 消せない履歴
浩人が清掃用具室を探して走る一方で、玲央は追跡をいったん止めていた。
無理に追えば、相手はさらに危険な行動を取る。サービス通路には段差や重量物があり、参加者のいない場所で揉み合いになれば、助けを呼ぶまでに時間がかかる。
玲央は端末で運営本部へ連絡した。
「対象は上階へ戻りました。出入口を封鎖するんじゃなくて、有人確認に切り替えてください。追い詰めすぎると、また物を倒します」
『了解。特徴は?』
「今の外見は当てにしないで。靴は黒のローヒール。右足の外側が少し減っていて、歩くとつま先が外へ流れます。バッグは濃い緑。持ち手の片方に銀色のテープ」
『そこまで見てたの?』
「最初の撮影で」
玲央は階段の踊り場に落ちていた小さな透明ケースを拾った。中には使い捨てのつけまつげが一組入っている。浩人のバッグから落ちたものらしい。
ケースの裏には、油性ペンで「M2」と書かれていた。
「変装道具を番号で管理してる」
『計画的ということ?』
「たぶん。荷物預かり所かロッカーに、ほかの道具があるかもしれない」
玲央は本部へ戻った。
そこでは運営責任者の葛城さつきが、参加者からの聞き取りをまとめていた。三十二歳の女性で、普段は展示会運営会社に勤めている。机の上には、白沢みずきから連絡先を聞かれた参加者の証言が並んでいた。
「五人まで増えた」
さつきは言った。
「全員女性。四人が閉会後の誘いを受け、一人はホテルの場所を聞かれてる」
玲央の表情が硬くなる。
「本人は、ただ話したかっただけと言うでしょうね」
「だから、評価じゃなくて事実を並べる。何を名乗り、何を聞き、どこへ誘ったか」
さつきは証言用紙を指でそろえた。
「性別表現の問題にすり替えさせない。今回の中心は、登録偽造と接触方法、それからカードの持ち出し」
「お願いします」
「あなたも当事者。無理に追わなくていい」
「分かってます」
「分かってない顔だな」
さつきは玲央を正面から見た。
「正しい側にいる人ほど、相手を止めるためなら多少無茶をしていいと思いがち。怪我をしたら、こちらも参加者も困る」
玲央は返事をしなかった。
さつきの指摘は正しい。最初の対話で、玲央は浩人の矛盾を面白がっていた部分がある。同じ技術を使う者として、どこまで作り込んでいるか確かめたかった。だが、相手は競技の対戦者ではない。追い詰めて勝てば終わる話でもない。
「次に見つけても、一人では近づきません」
「約束して」
「約束します」
そこへ真帆がやって来た。手には、浩人が相沢ユナとして触れていた写真集がある。
「これ、見て」
開かれたページの端に、小さな付箋が貼られていた。真帆がつけたものではない。
付箋には、細い字で数字が書かれている。
「26、単独、閉会後可」
玲央は息を止めた。
「いつ貼られた?」
「たぶん、話してる途中。気づかなかった」
さつきは写真を撮り、付箋を透明袋へ入れた。
「年齢、単独参加かどうか、閉会後に予定があるか。相手を分類してる」
真帆は腕を抱いた。
「私、品物みたいに見られてたんだ」
「そう感じるのは当然。でも、あの人の分類は真帆の価値じゃない」
玲央が言うと、真帆は苦笑した。
「分かってる。分かってるけど、気持ち悪い」
「うん。それは否定しなくていい」
運営は、浩人が使用していた一時預かりロッカーを特定した。偽名の登録番号に紐づいていたため、本人確認の不備がなければ見つからないはずの場所だった。
警備員立ち会いのもとで開錠すると、中には小型のキャリーケースが入っていた。
予備の衣装、未使用の名札ケース、化粧品、ウィッグ用のブラシ。そして、薄い黒色のノート。
さつきが手袋を着け、ノートを開く。
ページごとにイベント名と日付があり、人物の特徴が短い言葉で記録されていた。
『単独。褒めに弱い。仕事の愚痴が多い』
『警戒強。女性同士なら連絡可』
『写真を送らせる。別アカウントへ移行』
玲央は途中で目をそらした。
「これ、今日だけじゃない」
「少なくとも一年以上」
さつきはページを閉じた。
「このノートは警察へ渡す。こちらで勝手に中身を広めない。被害に関係する人へは個別に確認する」
真帆は小さくうなずいた。
「本人、これをなくしたことに気づいてるかな」
玲央はロッカーの中を見た。
キャリーケースの一番上には、細い銀色のウィッグが入るはずの空き袋がある。浩人は最後の変装用具だけを持ち出し、残りを置いていったのだろう。
「気づいてないと思う。まだ逃げ切れると思ってる」
そのとき、玲央の端末に通知が入った。
運営スタッフ用の共有チャットに、見覚えのないアカウントからメッセージが送られている。
『対象を北側倉庫で確保。応援不要』
さつきが画面を見て、すぐ首を振った。
「北側担当から報告はない」
「盗んだカードの裏に、共有チャットのQRが印刷されてたのかも」
「偽情報で人を遠ざけるつもりね」
玲央は会場図を開いた。
北側倉庫から最も離れ、閉会前でも人が減る場所。東ホールの撮影ブースと、創作展示エリア。
「彼は出口へ向かわない」
真帆が驚く。
「どうして?」
「外は警備されてる。それに、あの人は自分を拒絶した相手を放っておけない」
「私のところへ来るってこと?」
「可能性がある」
真帆は一瞬黙り、それから写真集を抱え直した。
「じゃあ、展示を片づける」
「帰った方がいい」
「帰る途中で待たれる方が怖い。人とスタッフがいる場所にいる」
さつきがうなずく。
「それがいい。真帆さんの周囲に私服警備を置く。玲央さんは単独で動かない」
「はい」
玲央は返事をした。
しかし胸の奥では、違う感情が動いていた。
浩人が自分と同じ女装の技術を使ったことへの怒りではない。
その技術によって、相手の善意や安心を道具に変えたことへの怒りだった。
玲央にとって、メイクや衣装は、普段の自分では表現できない色や形を外へ出すためのものだ。誰かに見てもらう以上、誤解されない説明をし、撮影や交流の範囲を確認する。面倒でも、それが他人と同じ場所に立つための条件だった。
浩人は、その条件をすべて省いた。
相手が知るべき情報を隠し、相手の選択を先回りして奪った。
同じ道具を使っていても、やっていることは反対だった。
玲央は金色のウィッグの留め具を確かめ、真帆の展示スペースが見える位置へ移動した。
今度は追い立てない。
逃げ道を塞ぐのではなく、事実を逃がさない。
そう決めた。
第八章 最後の化粧
浩人はサービス通路の奥にある清掃用具室へ飛び込んだ。
狭い室内には洗剤の匂いがこもり、壁際にモップと折りたたみバケツが並んでいる。扉には鍵がない。時間は数分しかない。
バッグを床へ置き、残った道具を広げた。
短い銀色のウィッグ。濃い色のファンデーション。太いフレームの眼鏡。大きめのジャケット。小さな肩パッド。
今度は女性らしさを強調しない。三十歳前後のイベントスタッフ風に見せる。
浩人はマスクを外し、残っていたメイクを拭った。完全には落ちず、目元の黒が薄くにじむ。それを隠すようにファンデーションを重ね、眉の形を変えた。銀色のウィッグをつけ、眼鏡をかける。
体型補正用の胸元パッドはすべて外し、バッグへ入れた。腰回りの補正具も外す。代わりにジャケットの肩へ薄いパッドを入れ、上半身の重心を変えた。コルセットは外せない。服の内側で留め具を緩め、輪郭が目立たないようジャケットを羽織った。
鏡はない。
スマートフォンの黒い画面へ顔を映す。粗い。だが、遠目なら通る。
浩人はバッグから出展者用のエプロンを取り出した。以前のイベントで盗んだものだ。胸元に「運営補助」と印刷されている。
廊下へ出たところで、二人のスタッフとすれ違った。
「不審者を捜しています。短い黒髪の女性を見ませんでしたか」
浩人は低い声で答えた。
「反対側へ走っていきました。階段の方です」
「ありがとうございます」
二人は走り去った。
浩人は口元だけで笑う。
玲央は外見だけを見ない。だからこそ、今度は役割まで変えた。追う側と同じ制服を着れば、視線は通り過ぎる。
会場へ戻る扉を開けると、音と光が一気に押し寄せた。
アナウンスが流れている。
「参加者の皆さまにお知らせします。ただいま、出展者用カードの紛失が確認されています。該当カードは無効化されています。不審な人物を見かけた場合は、近くのスタッフまで――」
浩人はエプロンの胸元を押さえ、人混みへ入った。
出口は警戒されているだろう。ならば、閉会まで隠れる。衣装展示の裏、倉庫、トイレ、どこでもいい。
その前に、一つだけ確かめたいことがあった。
真帆が運営へ何を話したのか。
浩人は、彼女の展示スペースへ向かった。
危険な判断だと分かっていた。
それでも、自分を拒絶した相手をそのままにして逃げることが、彼には耐えられなかった。
自分の計画が失敗した理由を、相手のせいにしたかった。
悪意は、追い詰められるほど論理を失う。
第九章 声が残すもの
真帆の展示机には、散らばった冊子が積み直されていた。
本人は椅子に座り、スタッフから事情を聞かれている。玲央の姿はない。
浩人は運営補助を装い、机へ近づいた。
「先ほどの件で、追加確認があります」
真帆が顔を上げる。
「はい」
「白沢みずきと名乗った参加者から、具体的にどんな誘いを受けましたか」
声を低くし、語尾を固くする。
真帆は少し考えた。
「私は別の名前で声をかけられました。相沢ユナって名札をつけていて、閉会後に撮影へ行こうと言われました」
「そのとき、相手に触られましたか」
「腕に触れようとはされました。でも避けました」
「それだけですか」
「それだけ、って?」
真帆の目が鋭くなる。
浩人は言葉を選び直した。
「失礼。ほかに被害がないか確認したくて」
「あなた、どこの担当ですか」
「安全管理です」
「名札は?」
浩人はエプロンの胸元を示した。
「これが――」
「個人名の名札」
真帆の声が低くなった。
浩人は一歩下がった。
真帆は立ち上がる。
「さっきの人と、言い方が同じ」
「何のことですか」
「『それだけですか』って。相手の話を小さく見せようとするとき、同じ間を置く」
浩人の喉が動いた。
外見は変えられる。声も変えられる。
だが、言葉を選ぶ癖までは、短時間で変えられない。
「人違いです」
「ルナ!」
真帆が大声で呼んだ。
人混みの向こうで、金色のウィッグが揺れた。
玲央がこちらを向く。
浩人は逃げた。
今度は誰もためらわなかった。真帆が近くのスタッフへ指をさし、玲央が追う。周囲の参加者は通路を空けた。
浩人は東ホールの撮影ブースへ飛び込んだ。
大型の背景パネル、照明スタンド、布製の幕。閉会間際で利用者は少ない。奥には鏡張りの演出スペースがある。
逃げ道は二つ。
一つは正面の通路。もう一つは、幕の裏から続く搬送扉。
浩人は搬送扉へ向かったが、鍵がかかっていた。
振り返ると、入口に玲央が立っていた。
「三回目だね」
玲央は息を整えながら言った。
「最初は、白沢みずき。次は、相沢ユナ。今度は、偽スタッフ」
「よく追ってきたな」
「顔を追ってないから」
「じゃあ、何を追った」
「人を見下すときの声」
鏡張りの壁に、二人の姿が何重にも映る。
一人は銀髪のスタッフ風。もう一人は金髪のギャル。
どちらも作られた外見だった。
だが、鏡の中でより追い詰められているのがどちらかは、明らかだった。
第十章 剥がれる役
「そこをどけ」
浩人が言った。
「無理」
「お前に関係ない」
「ある。私の友達と、参加者を狙った」
「誘っただけだ」
「偽名と偽造情報でね」
「誰も傷つけてない」
「相手が怖いと思った時点で、あなたが決めることじゃない」
玲央の背後に、二人のスタッフが見えた。まだ距離がある。
浩人は鏡の横に立てかけられた背景ボードを倒した。玲央が避ける。その横を抜けようとしたが、玲央は浩人のジャケットの袖をつかんだ。
「離せ!」
浩人が腕を振る。
袖が引かれ、エプロンの紐が切れた。銀色のウィッグがずれ、片側の留め具が外れる。
浩人は頭を押さえた。
玲央は追いすがったが、殴ろうとはしない。逃走を止めるため、ジャケットの背をつかむ。
「スタッフが来るまで動くな!」
「命令するな!」
浩人が体をひねった拍子に、銀色のウィッグが床へ落ちた。
その下から、押さえつけられた短い地毛とウィッグネットが現れる。
周囲にいた数人が息をのんだ。
浩人はなおも逃げようとし、玲央の肩を押した。二人の間で揉み合いになり、浩人の眼鏡が飛ぶ。頬に重ねたファンデーションが玲央の手袋へ移り、目元のにじんだ黒が露わになる。
「触るな!」
「逃げるな!」
玲央は、撮影台に置かれていた未使用のクレンジングシートを一枚取った。浩人が顔を背けるが、玲央は顎ではなく額の端を押さえ、本人確認のために頬の一部を素早く拭った。
濃いファンデーションの下から、白沢みずきとも相沢ユナとも違う肌色と輪郭が現れる。
「やめろ!」
浩人は玲央の手を払い、扉へ走ろうとした。
しかし、ジャケットの前が開き、内側で緩んでいたコルセットの端が引っ掛かった。留め具が一つ外れ、布が衣装の下から覗く。バッグの口も開き、床へ体型補正用のパッド、長い栗色のウィッグ、黒いボブウィッグ、二種類の化粧ポーチが落ちた。
作られた三人分の外見が、床へばらばらに散らばる。
浩人はそれを拾おうとしゃがんだ。
玲央が先にバッグを足元から遠ざけた。
「返せ!」
「証拠品になる。触らないで」
「お前だって同じものを使ってるだろ!」
浩人は玲央の金色のウィッグへ手を伸ばした。
玲央は手首を避けたが、ウィッグの毛先がつかまれる。留め具がきしみ、片側が浮いた。
玲央は一瞬だけ目を見開いた。
次の瞬間、自分で留め具を外し、金色のウィッグを頭から取った。
短い黒髪が現れる。
会場の空気が止まった。
「ほら、男だ!」
浩人は勝ち誇ったように叫んだ。
玲央はウィッグを片手に持ち、もう片方の手でイヤリングを外した。
「そうだよ。私は男」
声も、少し低い地声へ戻る。
「でも、私は最初から公表してる。名札にも登録にも、女装コスプレイヤーって書いてある。撮影相手を騙してない。連絡先を聞くときも、本名と活動名を伝える」
浩人の顔から勝ち誇った色が消える。
「見た目を作ることと、身分を偽って相手を操ることは同じじゃない」
玲央は床のウィッグを見下ろした。
「化粧も、ウィッグも、補正具も悪くない。悪いのは、それを相手の警戒を奪うために使ったあなたの目的だ」
スタッフ二人が到着し、浩人の両側へ立った。
「志月浩人さんですね」
その名を呼ばれ、浩人の肩が動いた。
玲央は端末の画面を見せる。
「ホテル予約に使った決済情報と、過去のアカウントが照合された。運営が警察へ連絡してる」
「ふざけるな」
「盗んだカード、偽造登録、迷惑行為。もう、女装がどうこうの話じゃない」
浩人は周囲を見た。
鏡の壁には、ウィッグを外した玲央と、化粧が半分落ち、衣装の内側から補正具が覗いた自分が映っている。
どちらも男だった。
だが、同じには見えなかった。
玲央は自分で姿を明かし、それでも立っていた。
浩人は、隠していた役を一枚ずつ剥がされ、立つ場所を失っていた。
第十一章 名前を返す場所
浩人は会場内の警備室へ連れて行かれた。
本人確認は、他の参加者から見えない場所で行われた。スタッフの指示に従い、残っていたウィッグネットとメイクを外し、衣装の下のコルセットや補正具も自分の手で取り外して袋へ収める。玲央は同席せず、女性スタッフと男性警備員が対応した。
鏡の前に残ったのは、二十七歳の志月浩人だった。
頬の一部にはファンデーションが残り、眉は消えかけ、目元の線は乱れている。どの役にもなりきれない顔だった。
「登録時に提出された身分情報は偽造ですか」
警備員が尋ねる。
浩人は答えなかった。
「出展者カードを持ち出したことは認めますか」
沈黙。
「参加者へ偽名で接触した目的は?」
「話したかっただけだ」
「なぜ本名ではなく、十九歳の女性を名乗ったんですか」
「本名じゃ相手にされないからだよ」
言ってから、浩人は口を閉じた。
それが、初めての本音だった。
警備員は記録用紙へ書き込む。
「相手にされないから、相手が断りにくい姿と立場を作った、と」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
浩人は答えられなかった。
白沢みずきは人見知りで、甘いものが好きだった。相沢ユナは気さくで、写真に詳しかった。偽スタッフは冷静で、頼りになる人物だった。
どれも、相手に好かれるために作った性格だ。
では、志月浩人は何者なのか。
鏡の中の男は、他人を評価し、分類し、利用することばかり考えていた。好かれる努力ではなく、警戒を避ける工夫だけを積み重ねた。その結果、彼は何人もの人物を作れるようになったが、自分の名前で誰かに近づく方法を失った。
扉の外では、運営スタッフが参加者へ説明していた。
取得された連絡先については、該当者へ個別に注意喚起を行う。偽アカウントからの連絡には応じない。写真や個人情報が送られている場合は、保存した上で相談窓口へ連絡する。
イベントは一時中断したが、全面中止にはならなかった。
浩人が望んだように、会場全体が彼一人のために止まることはなかった。
警察官が到着し、事情聴取が始まった。
浩人は何度も「女装しただけだ」と言った。
そのたびに、話は訂正された。
問題は女装ではない。
偽造情報を使ったこと。
他人の名札を拾って利用したこと。
出展者カードを持ち出したこと。
複数の参加者へ偽名で接触し、警戒を避けるために年齢と性別を偽ったこと。
逃走中に備品を倒し、通路で危険な行為をしたこと。
事実が一つずつ並べられるたび、浩人が自分を守るために使っていた曖昧な言葉は効力を失った。
鏡では隠せた。
記録からは、隠せなかった。
第十二章 素顔で立つ
撮影ブースでは、玲央が床へ落ちた小物をスタッフと一緒に片づけていた。
金色のウィッグは外したままだった。強いメイクと短い黒髪の組み合わせは、先ほどまでとは違う印象を与える。それでも、玲央は隠そうとしなかった。
真帆が近づいてくる。
「大丈夫?」
「腕、ちょっと引っ張られたけど平気」
「ウィッグ、壊れてない?」
「留め具が一個曲がった。直せる」
玲央は金色のウィッグを持ち上げた。
「今日のためにセットしたのに、最後は自分で外すことになるとはね」
「ごめん。私が呼んだから」
「真帆が謝ることじゃない」
玲央は真帆の顔を見た。
「怖かった?」
「少し。でも、途中まで普通に話してたから、自分の見る目がないのかなって」
「それも違う。あの人は、信じてもらうために練習してた。見抜けなかった側の責任じゃない」
真帆は息を吐いた。
「ルナは、最初から分かってたの?」
「性別は分からなかった。怪しいとは思ったけど」
「どこで?」
「褒め方かな。衣装じゃなくて、相手が喜ぶ言葉を選んでた。普通は似てるようで違う」
「それ、私もやってるかも」
「好かれたくて言うのと、警戒を解くために言うのは違うよ。前者は自分も傷つく可能性を受け入れてる。後者は相手だけを動かそうとする」
真帆は玲央の横顔を見た。
「さっき、ウィッグ取られそうになったとき、怖くなかった?」
「怖かったよ」
「でも、自分で外した」
「取られる形で秘密にされるくらいなら、自分で言った方がいいと思った」
玲央は少し笑った。
「まあ、秘密でもないけどね」
真帆も笑う。
周囲では撮影が再開され始めていた。事情を知らない参加者もいれば、遠巻きに見ていた人もいる。運営は過度な噂が広がらないよう、必要な情報だけを伝えていた。
玲央は更衣室へ行き、曲がった留め具を予備と交換した。メイクを整え、金色のウィッグをつけ直す。
鏡の中に、黒瀬ルナが戻ってくる。
だが、先ほどまでと少し違った。
玲央はイヤリングをつけながら、鏡の中の自分へ言った。
「隠すためじゃない」
これは、誰かを欺くための姿ではない。
自分が選び、自分で説明し、自分の名前で引き受ける姿だ。
更衣室を出ると、真帆が待っていた。
「撮影、続ける?」
「続ける。今日の写真、まだ一枚も納得してない」
「さすが」
「ただし、終わったら甘いもの奢って」
「なんで私が?」
「追跡でカロリー使ったから」
二人は笑いながら撮影ブースへ戻った。
会場の照明が、金色の髪へ再び光を落とす。
今度の笑顔には、演技ではない疲れと安堵が混じっていた。
第十三章 返された選択
イベントの翌日、運営から対象者へ個別の連絡が送られた。
文面は短く、必要な事実だけが記されていた。白沢みずき、相沢ユナ、運営補助を名乗った人物は同一人物であり、登録情報に虚偽があったこと。受け取った連絡先やメッセージへ応答しないこと。写真や個人情報を送っている場合は、削除を求める前に記録を保存し、相談窓口へ連絡すること。
浩人から連絡先を聞かれた会社員の佐伯菜月は、その通知を通勤電車の中で読んだ。
青い軍服風衣装の刺繍を褒められた、最初の参加者だった。
菜月のスマートフォンには、白沢みずきから届いたメッセージが残っている。
『今日はありがとうございました。菜月さんの衣装、本当に素敵でした。もっとゆっくり話したいです。』
送信時刻は、二人が別れてから三分後。
昨日までは、丁寧な人だと思っていた。
今読むと、文章の印象が変わる。だが、文字そのものが突然邪悪になったわけではない。相手について知らされていた前提が、意図的に偽られていたのだ。
菜月は、自分が褒められて喜んだことまで偽物にされたような気がした。
刺繍に三週間かけたのは本当だ。褒め言葉を嬉しいと思ったのも本当だった。それなのに、相手の目的が違ったと知ると、自分の感情まで利用されたように思える。
相談窓口の担当者は、電話でこう言った。
「喜んだことは、間違いではありません。虚偽を用いたのは相手です。佐伯さんの反応に責任はありません」
菜月は何度もその言葉を聞き返した。
「でも、私、簡単に連絡先を渡して」
「交流イベントで、同じ趣味の参加者と連絡先を交換すること自体は通常の行動です。今回の人物は、その通常の信頼を利用しました」
「見抜けなかった私が悪いわけじゃない?」
「はい。見抜く義務を相手へ負わせれば、偽る側が有利になるだけです」
通話を終えたあと、菜月は白沢みずきのアカウントを通報し、ブロックした。
最後まで返信はしなかった。
それは逃げではない。
相手に説明の機会を与えないという、自分で選んだ対応だった。
別の参加者は、すでに写真を送っていた。顔が写ったものではなく、完成した衣装の写真だったが、無断で別の場所に使われる不安がある。運営は画像の特徴を確認し、関連アカウントの監視と削除申請を行った。
真帆のもとにも、事情確認の連絡が来た。
彼女は付箋の写真と、会話の内容を提出した。担当者から「詳しく思い出せる範囲で」と言われたが、無理にすべてを話す必要はないとも説明された。
真帆は、何度も記憶をたどった。
浩人は、写真集の逆光表現を褒めた。
そこだけは具体的だった。
だが、玲央が撮影したと伝えた直後、関心は作品から閉会後の予定へ移った。真帆が作品について話し続けようとしても、質問は帰宅時間や一人参加かどうかへ戻ってきた。
会話の途中では気づかなかった流れが、書き出すと見えた。
「作品を見ていたんじゃなくて、私がいつ一人になるかを見ていた」
真帆が言うと、担当者は否定も断定もしなかった。
「そのように感じた、という内容で記録します」
感情と事実を分けながら、感情そのものは切り捨てない。
運営の対応は慎重だった。
事件後、インターネット上ではさまざまな憶測が流れた。犯人は女装者だった、いやコスプレイヤー全体が危険だ、運営が性別確認を厳しくすべきだ。実際の報告を読まず、刺激の強い部分だけを切り取る投稿もあった。
玲央は、自分の写真が無断で転載されているのを見つけた。
ウィッグを外し、短い黒髪で立っている場面。誰かが遠くから撮ったものらしい。
『正義のギャル、実は男』
そんな見出しがついていた。
玲央は投稿を保存し、運営へ報告した。反論を書きかけたが、消した。
怒りに任せて説明すれば、事件の中心がまた性別の話へ移る。
代わりに、運営の正式な注意文を共有した。
『無断撮影・無断掲載は、被害防止を理由としても認められません。対象者を追及するために、他の参加者の肖像や個人情報を拡散しないでください。』
玲央はその一文へ、自分の言葉を一行だけ加えた。
『誰かを守るために、別の誰かの選択を奪わないでください。』
投稿後、真帆から電話がかかってきた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、生活はできる」
「それ、大丈夫って言わない」
「じゃあ、少し腹が立ってる」
「少し?」
「かなり」
玲央は椅子の背にもたれた。机の上には、曲がったウィッグの留め具が置いてある。交換すれば使えるが、まだ手をつけていなかった。
「写真を出されるの、嫌だった?」
「嫌だった。自分で外すのと、勝手に撮られて見出しをつけられるのは違う」
「そうだよね」
「あのとき自分でウィッグを外したのは、浩人に主導権を渡したくなかったから。でも、だからって誰にでも見せていいわけじゃない」
「選ぶのは玲央だもんね」
真帆が活動名ではなく本名を呼んだ。
玲央は少し黙った。
「うん。選ぶのは私」
その言葉は、今回の事件全体に通じていた。
女装するかどうか。
本名を伝えるか、活動名を使うか。
連絡先を交換するか。
閉会後に会うか。
写真を撮らせるか、公開を認めるか。
人と関わる場面には、小さな選択がいくつもある。
浩人が奪ったのは、単なる情報ではない。相手が判断するための前提を隠し、自分に都合のいい答えを引き出した。
だから問題だった。
「次のイベント、出るのやめる?」
真帆が尋ねる。
玲央は机の上の留め具を指で転がした。
「一日だけ迷った」
「今は?」
「出る。やめたら、あの人のしたことが私の活動を決めるみたいで嫌だから」
「手伝うよ。ウィッグ直すの」
「真帆、裁縫苦手じゃん」
「応援を担当する」
「一番楽な役」
「重要な役です」
二人はしばらく、事件と関係のない話をした。次の衣装の色、撮影場所、天気、食べたいもの。
玲央は電話を切ったあと、工具箱を開いた。
曲がった留め具を外し、新しい部品を縫いつける。
針を通すたび、金色の毛束が指先で揺れた。
壊れたものを直すことは、起きたことを消す作業ではない。
傷んだ部分を確かめ、使える形へ戻し、次にどう扱うかを自分で決める作業だった。
最後の糸を結び、玲央はウィッグをスタンドへ載せた。
それは事件の証拠ではなく、再び彼自身の衣装へ戻った。
第十四章 偽名の終わり
三週間後、イベント運営は調査結果を公表した。
志月浩人は、偽造した登録情報を使って入場し、複数の参加者へ異なる偽名で接触していた。拾得した名札の不正使用、出展者用カードの持ち出し、備品を倒した行為も確認された。運営は浩人を今後の関連イベントから無期限で参加禁止とし、被害相談を専門窓口へ引き継いだ。
公表文には、女装という言葉はほとんど使われなかった。
問題の中心ではないからだ。
同時に運営は、参加者の外見、性別表現、衣装を理由に憶測や中傷を行わないよう求めた。安全対策として、本人確認手順の見直し、名札の再発行管理、サービス通路の権限設定、相談窓口の拡充も発表された。
玲央はその文面を読み、ようやく肩の力を抜いた。
事件の後、彼のもとには多くの連絡が届いた。
勇気がある。
見抜いてすごい。
女装を続けてほしい。
中には、心ない言葉もあった。男同士の喧嘩だろう。どちらも人を騙している。大げさだ。
玲央はすべてへ返事をしなかった。
ただ、一つだけ短い文章を投稿した。
『外見を作ることは、相手の同意を奪うことではありません。誰かの姿を笑うのではなく、誰が何をしたのかを見てください。』
投稿は静かに広がった。
真帆からメッセージが来る。
『次のイベント、申し込んだ?』
『申し込んだ。今度は青髪』
『また派手だね』
『清楚系にすると、事件を思い出すから』
『それは清楚系に失礼』
玲央は声を出して笑った。
一方、浩人の部屋からは、複数のウィッグ、衣装、補正具、偽名で作られたアカウントの記録が見つかった。道具そのものは罪ではない。だが、記録には、相手の反応、断り方、弱点、連絡のつきやすい時間まで書かれていた。
人を人としてではなく、攻略対象として見ていた証拠だった。
事情聴取の中で、浩人は何度も同じ質問を受けた。
「なぜ、自分の名前では駄目だったのか」
最初は、見た目のせいだと答えた。
次は、世の中が不公平だからだと答えた。
さらに、相手も楽しんでいたと言った。
しかし、記録を読み返すほど、その言い訳は崩れた。
彼は自分の名前で拒絶されるのが怖かった。
だから、拒絶されにくい人物を作った。
優しい十九歳。
気さくな二十四歳。
頼れるスタッフ。
相手が好みそうな人格を着替え、自分だけは傷つかない位置から近づいた。
その方法では、たとえ連絡先を得ても、誰も志月浩人を選んだことにはならない。
選ばれていたのは、存在しない人物だけだった。
処分手続きの後、浩人のもとへ私物の一部が返された。
透明な袋の中には、栗色、黒、銀色の三つのウィッグが入っていた。化粧品は液漏れを防ぐため別の袋に分けられ、補正具とコルセットには管理番号の札がついている。
ホテルの鏡の前では、どれも新しい人物へ変わるための道具だった。
今は、誰を名乗ったときに何をしたかを示す記録に見えた。
浩人は栗色のウィッグを持ち上げた。毛先には、会場で使った整髪料がまだ残っている。白沢みずきとして撮った写真では、その髪が肩から滑らかに流れていた。
彼は一度、ウィッグを頭へ載せようとした。
だが、途中で手を止めた。
鏡の前に立っても、もう白沢みずきには戻れない。顔を同じように作り、声を同じ高さへ戻すことはできる。それでも、あの名で近づかれた人々は、何が隠されていたかを知っている。
外見の再現と、信用の回復は別だった。
浩人は道具を箱へ戻した。
捨てれば過去が消えるわけではない。持ち続ければ反省になるわけでもない。問題は、これから同じ方法を選ばないかどうかだった。
だが、その答えを誰かが代わりに決めることはできない。
相手の選択を奪ってきた浩人は、最後に、自分の選択だけは自分で引き受けなければならなかった。
イベント運営は、事件を理由に衣装や化粧の持ち込みを制限しなかった。代わりに、登録確認と相談対応を強化した。
道具を禁止しても、悪意は別の道具を探す。必要なのは、外見から危険を決めつけることではなく、行為を確認し、困った人が声を上げられる仕組みを作ることだった。
玲央はその方針を支持した。
安全のために自由を奪うのではなく、自由を続けるために責任の線を明確にする。その判断こそ、浩人が最後まで理解しなかったものでもある。
参加者向けの案内には、新しい一文も加えられた。
『違和感を覚えたとき、確かな証拠を一人で集める必要はありません。相手と対決せず、近くのスタッフへ相談してください。』
玲央は、それを自分への注意でもあると思った。正しさを証明するために危険を引き受ける必要はない。誰かを守る仕組みは、一人の勇気だけに依存してはならない。
その案内は、誰かを疑うためではなく、誰も一人で抱え込まないためのものだった。
それは、信頼を取り戻すための、小さいが具体的な変更でもあった。
記録は、次の判断へ生かされた。
数か月後、玲央は別のイベントでステージへ立った。
青いウィッグ、白いジャケット、銀色の装飾。以前とはまったく違う衣装だった。司会者が活動名を呼ぶ。
「黒瀬ルナさん、お願いします」
玲央は客席へ手を振った。
その名は戸籍の名前ではない。
けれど、偽名ではなかった。
活動の履歴があり、責任があり、関わった人々の記憶がある。自分で選び、自分で名乗り、その名で受け取った言葉に答えてきた。
名前を本物にするのは、文字列ではない。
その名で何をし、誰にどう向き合ったかだ。
ステージ脇には真帆がいて、カメラを構えている。
玲央は光の中央へ歩いた。
客席から見える姿は、作り上げたものだった。
それでも、その一歩は誰のものでもない。
黒瀬玲央自身のものだった。
鏡は、今日も表面しか映さない。
だからこそ、人は鏡の外で、自分が何者かを示し続けなければならない。
志月浩人が最後まで理解できなかったのは、化粧の技術でも、声の作り方でも、変装の巧さでもなかった。
姿を変える自由には、その姿で他人と向き合う責任が伴う。
その単純な事実だった。
白沢みずきは、もうどこにもいない。
最初から、存在していなかった。
だが、黒瀬ルナはステージの上で笑っている。
作られた姿のまま、偽りのない名前で。




