七日間だけ泣くと決めました〜婚約破棄された伯爵令嬢、古代語が読めたら第一王子に生涯を捧げると言われた件〜
七日間だけ泣いてもいい、とソフィアは決めた。
二十歳の誕生日の夜、婚約者に別の女性を紹介されたその帰り道、馬車の中でそう決めた。泣くなら七日間。七日が過ぎたら、前を向く。それ以上引きずるには、レジナルド・クロッツ公爵子息はあまりにも——正直に言えば——釣り合わない相手だった。
最初の夜は、確かに泣いた。
自室の窓から見える夜空が滲んで、枕が湿って、侍女のマルタが心配して扉を叩いたのを「大丈夫」と追い返した。大丈夫ではなかった。十五歳から五年間、ソフィアはレジナルドの婚約者として生きてきた。それなりに大切にしてきたつもりだった。笑顔を磨いて、作法を整えて、相手が好む話題を調べて。
でも彼は誕生日の席で、薄桃色のドレスの少女を連れてきた。「彼女のことが好きになってしまった。ソフィア、わかってくれ」と言った。わかってくれ、というのは、最も残酷な言葉だとソフィアは思った。わかるかどうかではなく、もう決めているのだから。
二日目も少し泣いた。三日目は朝だけ泣いた。四日目、ソフィアは泣くのに飽きた。
飽きた、というのは正確ではないかもしれない。ただ、泣きながら部屋の天井を見ていたとき、ふと、本棚の奥に押し込んだままの本のことを思い出した。
古代語の文法書だった。
十二歳の頃に、行商人から買った本だ。古代文字がびっしりと刻まれた表紙は煤けていて、中身は難解で、家庭教師に「令嬢に必要ない学問です」と取り上げられかけたのを必死に隠した一冊。婚約が決まってからは「侯爵夫人の勉強をしなさい」という父の言葉に押されて、本棚の奥深くに眠らせたままだった。
ソフィアは布団を抜け出して、本棚を漁った。
古い紙の匂いがした。表紙を開くと、十二歳のソフィアが鉛筆で引いた傍線がそこにあった。熱心だったんだな、と思った。続きを読みたかったんだな、と思った。
五日目、六日目、七日目——ソフィアは泣かなかった。ただ、古代語の文法書を読んでいた。
七日目の夜、本を閉じてソフィアは思った。
(私はこれが好きだったんだ)
その発見は、婚約破棄の痛みよりずっと大きかった。
八日目の朝、ソフィアは父のところへ行った。
ベルグ伯爵家の当主であるソフィアの父は、書斎で書類に埋もれていた。婚約破棄の件については、すでに双方の家で話し合いが終わり、表向きは「双方合意のうえでの解消」とされることが決まっていた。
「父上、一つお願いがあります」
「何だ」
「王立図書館の禁書庫への入館許可を取っていただけませんか」
父が顔を上げた。「禁書庫?」
「古代語の文書が保管されていると聞きました。専門の学者も読めないものが複数あると。私に読ませていただけるなら」
父はしばらくソフィアを見た。婚約が壊れたことで落ち込んでいるとばかり思っていた娘が、目を輝かせて禁書庫の話をしている。父には意味がわからなかったと思うが、それでも「わかった、伝手を使ってみる」と言ってくれた。
入館許可が下りたのは、それから十日後のことだった。
禁書庫は図書館の地下にあった。石造りの階段を降りると、温度が下がり、古い紙と羊皮紙の匂いが濃くなった。奥まった棚に、黒ずんだ封印のついた文書が並んでいた。管理をしていた老司書は「先生方が何年挑んでも読めないものばかりです」と言ってから、「まあ、試してみてください」と付け加えた。
ソフィアは一番古そうな文書を手に取り、広げた。
文字が、見えた。
読める、というより、見えた、という感覚だった。ほかの言語を読むときとは違う。頭で解読するのではなく、目に入った瞬間に意味が浮かぶ。まるで知っていたことを思い出しているような、奇妙な自然さがあった。
一ページ、二ページ——ソフィアの手が止まらなかった。気づけば三時間が経っていた。
「貴女が、ベルグ伯爵家のソフィア嬢ですか」
声をかけられたのは、禁書庫に通い始めて五日目のことだった。
振り返ると、長身の青年が立っていた。年は二十四、五ほど。整った顔立ちに、深い碧色の瞳。着ているものは一見地味だったが、仕立てとそれを着こなす所作が、只者ではないことを示していた。護衛らしき男が二名、棚の陰に控えているのもソフィアは気づいていた。
「そうですが……どなたですか」
「クロード・フォーゼル」
名前だけを告げた。しかしそれだけで、ソフィアにはわかった。クロード第一王子。国王陛下の第一子で、現在の政務の多くを担っていると噂される人物。
「殿下が、なぜここに」
「貴女の話を聞いたので」
ソフィアは文書から目を上げて、王子を正面から見た。「誰から聞いたのですか」
「老司書のジィルから。読めないはずの古代語文書を、一人で読んでいる令嬢がいると」クロードは棚の文書に視線を流した。「正直に聞きますが、本当に読めるのですか」
「読めます」
「全部?」
「今のところ、全部」
クロードはしばらくソフィアを見てから、ゆっくりと頷いた。
「一つ、見せてもらえますか」
ソフィアは手元の文書を差し出した。クロードはそれを受け取り、目を走らせ、眉をひそめた。「やはり私には一文字も読めない」とつぶやいた。
「なんと書いてありますか」
「古代の水魔法の術式です。現代の魔法体系の原型と思われる記述があります。特にここの部分」ソフィアは迷わず一箇所を指した。「現在失われていると言われる循環魔法の構造式が書いてあります」
クロードの表情が、わずかに変わった。
「循環魔法。それは……本当に?」
「読んだままを申し上げています」
「ソフィア嬢」クロードは文書をそっと卓上に置いた。「貴女に頼みたいことがあります」
「なんでしょうか」
「王宮文書顧問として、禁書庫の古代語文書の解読を担っていただきたい。他言無用の、王族直轄の仕事です」
ソフィアは驚いたが、驚いた顔を見せなかった。八日目の朝に前を向くと決めてから、ソフィアは自分の感情を急いで見せることをやめていた。
「条件をお聞きしてもよいですか」
クロードが、少し意外そうな顔をした。即答しなかったことが予想外だったのかもしれない。
「もちろん」
「解読した内容は、私も記録として残せますか。個人の研究として」
「構いません」
「文書の扱いについて、私の意見を聞いていただけますか。処分や公開の判断に関して」
「——聞きましょう」
「では、お受けします」
クロードはまた少し間を置いてから、「ありがとうございます」と言った。その声に、安堵の色があった。
王宮文書顧問の仕事が始まってから、ソフィアの毎日は一変した。
午前中は禁書庫で文書の解読。午後は王宮の執務棟で報告書の作成と、クロードへの定期説明。週に一度、古代魔法研究所の魔法師たちと勉強会。そのどれもが、これまでのソフィアの生活にはなかったものだった。
侯爵夫人になるための勉強をしていた五年間とは、まるで違う時間の流れがあった。
最初の報告会でクロードに解読結果を説明したとき、彼は一度も話を遮らなかった。ソフィアが言葉を選んでいる間も、次を急かさなかった。終わると「よくわかりました」と言い、三つだけ質問をした。どれも的確で、ソフィアが考えていなかった角度からの問いだった。
「殿下は古代語をご存じなのですか」
「読めはしません。ただ、魔法理論は学んでいます」
「それにしても、的確なご質問でした」
「貴女の説明が良かったからです」
さらりと言われて、ソフィアは少し面食らった。褒められることに慣れていないわけではなかったが、それは容姿や作法を褒める言葉が多く、仕事の説明を評価されたのは初めてだった。
「……ありがとうございます」
「次回も同じ形式でお願いします」
それだけ言って、クロードは書類に戻った。
仕事上の関係は明快だった。必要なことを話し、余分なことは言わない。王子と顧問という役割を双方が理解していた。ソフィアはその明快さが、意外と心地よかった。
一ヶ月が経った頃、事態が動いた。
レジナルドの婚約者になった男爵令嬢アデリナの家が、王国の公共資産を長年横領していたことが発覚した。発端は税務調査の書類の不一致で、調べが進むにつれ、アデリナの父である男爵が過去十年にわたって資産を私物化していた事実が次々と明るみに出た。
レジナルドは巻き込まれる形で騒動の中心に立つことになった。国王の甥という立場が、疑惑を余計に大きくした。「知っていたのか知らなかったのか」という問いが王都中を飛び交い、レジナルドは謹慎処分を受けた。
ソフィアはその話を、侍女のマルタから聞いた。
「可哀想だと思いませんか、お嬢様」
「……正直に言えば、あまり」
「えっ」
「よく知らない方の不運を悲しむほど、まだ人間ができていません」ソフィアは文書から目を上げた。「それより、昨日の解読の続きをしてもいいですか。循環魔法の第三章に差し掛かっているので」
マルタは何かを言おうとして、やめて、「お夕食の時間には降りてきてくださいね」と言って出ていった。
その夜の報告会でクロードにその話題が出たのは、ソフィアが予想していなかった。
「レジナルド・クロッツの件は聞いていますか」
「はい。侍女から」
「貴女の元婚約者です。何か思うことは」
ソフィアは少し考えた。クロードが聞く理由がわからなかった。政務上の確認なのか、個人的な問いなのか。
「この件は私には関係ありません。私との婚約はすでに解消されていましたし、あの方の選択はあの方のものです」
「後悔はないのですか」
「殿下は今、顧問として私に聞いていますか。それとも」
「——個人として聞いています」
ソフィアは驚いた。クロードがそんな言い方をするとは思っていなかった。
「後悔は、ありません」少し間を置いてから続けた。「あの七日間がなければ、私は禁書庫へ来なかったと思います。そういう意味では、感謝すらしています」
「七日間というのは」
「婚約が解消されてから七日間、と決めて泣きました。七日が過ぎたら前を向くと決めていたので」
クロードはしばらく無言だった。
「七日で、切り替えられたのですか」
「切り替えたというより——本当にやりたいことを思い出したら、自然と泣き止んでいました」
「本当にやりたいこと」クロードが繰り返した。その声に、何かが混じっているような気がしたが、ソフィアには読み取れなかった。
「今日の報告はここまでです。何かご質問は」
「いいえ」クロードは静かに言った。「——ありがとうございました」
それはいつもの締めの言葉だったが、その日は少し、違う響きに聞こえた。
転機は古代語文書の解読が第五章に差し掛かった頃に訪れた。
その文書は、これまでのものとは別の性質を持っていた。魔法の術式ではなく、古代の「盟約」に関する記述だった。二国間で交わされた不戦の誓い。そしてその誓いには、一つの条件が付記されていた。
「殿下、ご確認いただきたいものがあります」
その日の報告会でソフィアは文書を広げた。「この盟約の条文を読むと、現在アルヴァン王国との係争になっている東部の国境線について、古代の取り決めでは我が国に有利な解釈ができます」
クロードが前のめりになった。
「読んでもらえますか」
ソフィアは丁寧に一節を読み上げた。クロードは目を閉じてそれを聞き、終わると静かに目を開けた。
「これが本物であれば、外交交渉の根拠になります」
「はい。ただし文書の真贋確認が必要です。私は古代語を読めますが、羊皮紙の年代鑑定は専門家でないとわかりません」
「手配します。——ソフィア嬢」
「はい」
「この仕事を受けてくれてよかった」
ソフィアは顔を上げた。クロードはいつもと変わらない静かな表情をしていたが、その目が、少し違った。言葉の重さが違った。
「殿下がそのようにおっしゃると、こちらも報われます」
「貴女でなければ読めなかった文書です。貴女の力があったからです」
「体質のようなものです。私が特別優れているわけではなく——」
「ソフィア嬢」クロードが穏やかに遮った。「自分を小さく見せる必要はありません」
ソフィアは言葉を止めた。
気づいていなかったが、自分はいつも力を相対化して話していた。婚約者と過ごした五年間、「出しゃばらないこと」を覚えた癖だと、その瞬間に思った。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。ただ、本当のことを言っただけです」
その言葉が、ソフィアの胸の奥でじわりと広がった。
文書の真贋鑑定に三週間かかった。
その結果は本物だった。古代羊皮紙と判定され、文書に押された封印は古代王朝のものと一致した。外交資料として正式に登録されることになり、ソフィアは解読者として王宮の公式記録に名を残すことになった。
その報告が終わった後、クロードはめずらしく書類を脇に置いた。
「今夜、少し時間がありますか」
「……はい」
「食事をしながら話したいことがあります。仕事の話ではありません」
執務棟の一室で、二人きりの食事になった。給仕が料理を並べて退くと、しばらく静かな時間が続いた。クロードはワインをゆっくりと傾け、ソフィアはそれを待った。
「私は王宮で生まれた頃から、人を信用することが難しかった」
唐突な言葉だったが、ソフィアは驚かなかった。いつかこういう話が来るような気がしていた。
「殿下の立場では、当然かと思います」
「当然だとわかっていても、孤独は孤独です」クロードは窓の外を見た。夜の庭に、魔法灯が灯っている。「政務を担うようになってから、周りはみな利害で動いた。それが悪いとは言わない。私も利害で動く。ただ——」
「ただ?」
「本音を言える相手が、いなかった」
ソフィアは黙って聞いた。
「貴女と仕事をして、初めて、対等に話せていると感じます」クロードが視線を戻した。「貴女は条件を聞いた。私の立場を前に畏縮せず、自分の必要なものを明確に言った。仕事では自分の見解を述べ、わからないことはわからないと言う」
「それは普通のことではないでしょうか」
「私の周りでは普通ではありません」
ソフィアはクロードを見た。整った横顔に、疲れが滲んでいた。王子という役割を担い続けてきた人間の疲れが。
「殿下は、何がしたいのですか」
「何が、とは」
「王子でも顧問への雇用主でもなく、クロード・フォーゼルという個人として。何が好きで、何をしているとき幸せですか」
クロードは少し目を丸くした。そういう問いをされたことがないのだと、ソフィアにはわかった。
「……本を読むことは好きです。魔法理論の本が特に」
「それは知っています。報告のご質問が毎回的確なので」
「気づいていたのですか」
「最初の日から」
クロードが小さく笑った。それは初めて見る表情だった。これまでの彼は微笑むことはあっても、声を立てて笑うことはなかった。
「他には」ソフィアが続けた。
「他には——貴女と話しているとき、です」
静かな告白だった。ソフィアはすぐに答えなかった。窓の外の魔法灯が一つ、ゆらりと揺れた。
「私も」ソフィアは静かに言った。「ここ二ヶ月で、一番本音で話せていると感じています」
「それは」
「婚約者といた五年間より、はるかに」
クロードは何かを言おうとして、ためらって、結局こう言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人の間にまた静かな時間が流れた。それは沈黙ではなく、満ちた静けさだった。
事態が公になったのは、国境線の盟約文書が外交資料として正式公開された直後のことだった。
ソフィアの名が解読者として記録に残り、王宮の公式記録に「文書顧問ソフィア・ベルグ」として掲載された。それは小さな記述だったが、王都の社交界には十分すぎるほどの話題になった。
「ベルグ伯爵家のソフィア嬢が、王宮の顧問に」
「古代語が読めるとか。千年分の文書を解読したとか」
「第一王子殿下が直々に招いたらしい」
噂はあっという間に広がり、ソフィアの名を知らなかった人間が次々と「存じておりました」と言い始めた。
そして必然的に、レジナルドの耳にも届いた。
謹慎処分が解けて間もないレジナルドがベルグ家を訪ねてきたのは、公開から四日後のことだった。ソフィアは図書館で作業中だったが、マルタから連絡を受けて戻った。
応接間でレジナルドは立っていた。半年前に見たときより、ひどく疲れた顔をしていた。
「ソフィア、会ってくれてありがとう」
「ご用件を聞かせてください」
「……その、王宮顧問の件は本当なのか」
「はい」
「すごいな」彼は目を逸らした。「知らなかった。君がそんなことを」
「フォルスト様が知る必要のないことでしたから」
「そうじゃなくて」レジナルドは低い声になった。「俺が、間違っていたと思っている。君のことを、ちゃんと見ていなかった」
ソフィアは静かにレジナルドを見た。謝罪を受け取るつもりがなかったわけではない。ただ、今の自分にはどれほど受け取るべき言葉なのかが、もうわからなかった。
「フォルスト様」ソフィアは言った。「私はもう、あのことを引きずっていません」
「……そうか」
「七日間だけ泣いて、八日目から前を向くと決めていたので」
レジナルドは何かを言おうとしたが、言葉が見つからない様子だった。ソフィアにはその沈黙が痛々しかったが、それ以上かける言葉も持っていなかった。
「お元気で」
立ち上がったとき、レジナルドが小さく言った。「幸せになれよ」
ソフィアは振り返らずに「ありがとうございます」と答えた。
廊下に出ると、窓から午後の光が差し込んでいた。それはただの光だったが、ソフィアにはどこか、一つの扉が静かに閉まった音に聞こえた。
その夜の報告会は、いつもより早く終わった。
「今日は早いですね」ソフィアが言うと、クロードは「次の文書の予習をしてもらえますか」と言って一冊の古書を差し出した。
「これは」
「禁書庫の外にある資料です。解読の補助になるかと思って」
ソフィアは受け取り、表紙を見た。古代史の研究書だった。巻末に、前の持ち主の書き込みがあった。細かい字で、余白を埋めるように。
「殿下の書き込みですか」
「学生の頃のものです。恥ずかしいですが、参考になるかと」
ソフィアはページをめくった。びっしりと書かれた注釈が、ところどころ、熱を帯びた文章で埋まっていた。知的好奇心が抑えられなくなった十代の少年が、夢中になって書いたのが伝わるような字だった。
「……殿下、本当に本が好きなのですね」
「笑いますか」
「なぜ笑うのですか。私は、この書き込みが好きです」
クロードが少し目を細めた。
「ソフィア嬢」
「はい」
「一つ、聞かせてください」
「なんでしょうか」
「これからも——この仕事を続けていただけますか。禁書庫が全部終わっても、新しい文書が見つかったとしても。ずっと」
「ずっと、とは随分と長い約束ですね」ソフィアは古書を胸に抱えながら言った。
「長い約束をしたいと思っています」クロードは真っ直ぐにソフィアを見た。「仕事の話だけではありません」
ソフィアは動かなかった。
窓の外に夜の庭が広がっている。魔法灯が石畳を照らし、風が木々を揺らしている。婚約破棄の夜、馬車の中で「七日間だけ泣く」と決めた自分が、今ここにいる。
「殿下は」ソフィアはゆっくりと言った。「私が古代語を読めなかったとしても、同じことを言いましたか」
「言いました」即答だった。
「根拠は」
「初めて話したとき、貴女は私の立場に臆せずに条件を提示した。それだけで十分でした」
ソフィアは息を吐いた。それは溜めていた息ではなく、五年分の緊張が、少しだけ解けたような音だった。
「長い約束というのは」ソフィアは言った。「どのくらい長いつもりですか」
「生涯、と考えています」
「……それは、随分と大きな話になりましたね」
「いきなりすぎましたか」
「いいえ」ソフィアは、七日目の夜に本を閉じたときのような、静かな確かさで言った。「——受け取ります」
クロードの顔が、初めて、完全に緩んだ。あの食事の夜に一瞬見た笑顔より、もっと柔らかい、少年のような顔だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ソフィアは胸の古書をそっとテーブルに置いた。窓の外で魔法灯がゆらり、と揺れた。遠くで夜鳥が一声鳴いて、また静かになった。
七日間で泣き止んで、八日目に本棚を漁って、九日目に図書館へ行って——気づけばここまで来ていた。どこへ向かうかなどわからないまま、ただ好きなことに正直に進んでいたら、思いもよらない場所に立っていた。
(悪くない)
ソフィアはそう思った。
怒らなくてよかった。騒がなくてよかった。七日間だけ泣いて、前を向いてよかった。
後日談を少しだけ。
レジナルドは翌年、遠縁の貴族令嬢と正式に婚約した。男爵家の一件は本人には関係なかったことが証明され、謹慎も解けて、社交界に戻った。ソフィアとはその後一度だけ夜会で顔を合わせたが、互いに軽く会釈をしてそれで終わりだった。
ソフィアの解読した古代文書はその後も増え続け、三年で五十本を超えた。国境問題の外交資料として使われたものもあれば、失われた魔法技術の再発見に繋がったものもあった。研究所の魔法師たちはソフィアを「先生」と呼び、禁書庫の老司書ジィルは「あの子が来てから、この部屋が生き返った気がする」と言った。
クロードは多忙な日々が続いたが、週に二度の報告会は何があっても欠かさなかった。仕事の話が終わった後の、わずかな時間——二人がただ本の話をするだけの時間が、互いの一番の時間になっていた。
ある夜、ソフィアは禁書庫で見つけた一文のことをクロードに話した。古代語で書かれた、研究書のどこにも出てこない短い一節。意味を訳せば——「時間をかけて積み上げたものは、嵐の後もそこにある」というような言葉だった。
「きれいな言葉ですね」クロードが言った。
「解読しながら、少し泣きました」
「なぜ」
「七日間で泣き止んで、その先でこんなところに来るとは思っていなかったので」
クロードは答えなかった。ただ、テーブルの上のソフィアの手に、静かに自分の手を重ねた。
それだけで、十分だった。




