第2話 夜の解放 —— 毒の女王
「ただいま」
玄関のドアを開けると、母が出迎えた。
「あら凪、おかえり。遅かったわね。生徒会?」
母——桜庭美和子の声は、いつも通り明るい。
けれど、その明るさの裏には、「遅い帰宅」に対する無言の非難が含まれている。
「うん、資料作成があって」
「そう。ご苦労様ね。……あなたのためを思って言うんだけど、あんまり遅くならないようにね。女の子
が夜遅く帰るのは、危ないから」
——出た。「あなたのため」。
母の口癖だ。
「あなたのため」と言いながら、本当は「世間体のため」でしかない。
「あ、そうそう、今日ね、お隣の佐藤さんに会ったのよ。『凪ちゃんはいつも礼儀正しくて素敵なお嬢さ
んですね』って褒められたわ」
母の声は弾んでいた。
娘が褒められたからではない。
「自分の教育が正しいと世間に認められた」からだ。
母にとって、私は「作品」だ。
彼女が17年かけて作り上げた、「完璧な娘」という作品。
「本当、あなたのおかげで鼻が高いわ。……あ、そういえば髪、もう少し短くした方が清潔感があるん
じゃない? 生徒会の役員なんだから、誰から見ても非の打ち所がないようにしないと。あなたのためよ」
——また「あなたのため」。
「……うん、今度美容院行くね」
従順な娘の仮面は、家の中でも外せない。
私は小さく頷き、階段へと向かった。
二階の自室のドアを閉める。
鍵をかける。
カチャリ。
その音が、世界との断絶を告げる合図だ。
私はベッドに倒れ込んだ。
制服のリボンを乱雑に引き抜く。
ブレザーを脱ぎ捨てる。
「……あー、クソ。マジで疲れた」
低い声。
それが私の地声だ。
誰にも聞かせたことのない、私だけの声。
ポケットからスマホを取り出す。
フォルダの奥深くに隠された、アイコンを偽装した『裏垢』専用のクライアントアプリ。
アプリを起動する。
パスワードを入力する。
画面が切り替わる。
アカウント名:@midnight_venom
フォロワー:79,843人
これが、私の本当の居場所。
これが、私が息をできる場所。
部屋の照明を消した。暗闘の中、スマホのブルーライトだけが私の顔を青白く照らす。
タイムラインをスクロールする。
「今日も一日頑張りました!」
「感謝の気持ちを忘れずに!」
「ポジティブシンキングで乗り越えよう!」
——うるせえ。
そんな綺麗事で、何が解決するんだ。
すると、目に留まるハッシュタグがあった。
『#感謝の連鎖』
タイムラインは「生きてるだけで感謝」「繋がりに感謝」という言葉で埋め尽くされている。
吐き気がした。
——感謝? 強制されてするもんじゃねーだろ。
私はフリック入力を高速で始めた。
「感謝」って言葉を免罪符にして、思考停止してる奴多すぎ。
本当に感謝してたらSNSでアピールなんてしない。わざわざハッシュタグ付けて投稿するのは、「感謝で
きる私って素敵でしょ?」っていう承認欲求の現れでしかないじゃん。
善意の押し売りは、ただの暴力だよ。
#感謝の連鎖 #偽善者 #本音
[送信]
投稿がタイムラインに吸い込まれる。
数秒の沈黙。そして——
《通知:1件のいいね》
始まった。
《通知:5件のいいね》
《通知:リツイートされました》
《通知:15件のいいね》
反応は即座だった。
数字が増えていく。
50、100、200……。
「それな。言いたかったこと全部言ってくれた」
「毒舌だけど真理ついてる」
私の吐き出した「毒」が、誰かの「解毒剤」になっている。
もっと。
もっと数字が欲しい。
もっと承認が欲しい。
「はは……」
暗い部屋で、私は口角を吊り上げた。
昼間の優等生の微笑みとは違う、歪で、けれど嘘のない笑顔。
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