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小さな空

作者: いけさと

 建物と建物にかこまれた細やかな路地。宿屋の裏口におかれた樽の上に座り、地面に届かない足を空中で プランプラン と揺らしながら、客を待つ娼婦がいる。

 まだ幼さをのこしたその娘は、ほんの少し口を開き、屋根と屋根の隙間から見える、わずかな空を見上げている。


 父親は、(いくさ)に出かけたきり帰ってこなかった。母親は、隠れる彼女の目の前で、兵士たちに乱暴され、叫びながら死んでいった。

 やがて兵士は去り、母を見たときには、なかば焼けてしまっていたけれど、その亡骸が母なのだということは、すぐにわかった。

 涙は流れなかった。悲しくもなかった。みんな同じだったから。この街で生き残った者は皆、傷つき、愛する人や、仕事や財産、それまで積み上げてきたすべてのものを失っていた。自分一人だけが悲しいのなら、きっと彼女も泣いただろう。神を呪うこともできたろう。でも、みんな おんなじだった。街中が悲しくて、誰もが不幸を理解できなくて、炎のくすぶる瓦礫の中を、まるで泣くのが怖いみたいに、みんな亡霊みたいに歩き回っていた。泣けてきたのは、それから何日も過ぎてからのことだった。


 この仕事を始めて、もう三年になる。

 友達は、仕事中に客の前で泣いてしまい、切り殺された。自分の扱いが乱暴なのだと、客である男に口答えをしたのだという。気持ちはわかるけれど、バカな子だと思った。まだ仕事を始めて間がなく、同じ十四だったけど、うぶな子だった。だからそんなことになったのだろうと、自分を納得させた。

 お客をとりあってず いぶんケンカもしたけれど、お互い見下さないでいいあえる唯一の存在だったから、いけ好かないところもあったけど、いなくなってみると、あんがい退屈で寂しかった。

 その子の死は、べつに悲しくはなかった。ただ、自分は客の前ではあまり話さないでいようと思った。でも死んだことを母親に伝えに行ったときには、彼女もさすがにもらい泣きをしてしまった。泣き叫ぶってのは、こういうことなのだと、はじめて知った。目も見えない、両足もないその子の母親が、これからどう生きるのか、少し興味はあったけど、それ以上考えないようにしようと思った。


 彼女を目当てで泊まりに来る客もいるせいか、宿の主人はとてもよくしてくれる。食事も時々おごってくれるし、決して彼女に手を出そうとすることもなかった。本当に親切でやさしい人ではあったけれど、いつも哀れみをふくんだまなざしで自分を見ているので、本当は好きになれなかった。

 そういえばあの子もそんなことを言ってたっけ、そんなことを思い出し、彼女は少しだけ笑った。


 不幸を感じることはなかった。嫌な思いはたくさんしたけど、それでも彼女は、そうとは知らず、何となく幸せだった。

 たとえ売女(ばいた)といわれても、決して傷つくこともなかったし、そういった相手を罵る気持ちにもなれなかった。

 彼女は理解していた。漁師が魚を売るように、農家が野菜を売るように、自分は自分の身体を売っているにすぎないのだと。わたしは誰も殺していないし、何も傷つけていない。決して、自分さえも。

 生きることだけを考えている。どんな生き方でも、生きてさえいれば、戸棚の裏の隙間に隠れ、ただ震えるばかりの自分を守るため、わめきちらし、乱暴されても、罵声をあびせ、生きながら耳をそがれ、腕を切り落とされ、焼き殺された母の気持ちを思うとき、生きてさえいれば、一日でも長く生きること、それが母への恩返しなのだと思えて幸せだった。

 毎日を送りものなのだと感じていた。


「神様はみているから」


 母がよく話してくれたこと。

 そういえば、あの子もこの空を見上げては、いつだったか同じことを言っていた。

 どれほどもがきあがいたのか、部屋中を血に染めて、背中や腕にはいくつも切り傷があって、床には指が転がっていて、最後は自分を突き刺す剣を抜こうとするみたいに、冷たく固まっていた。

 あの子の死は、もうどうでもいいけど。

 だけどなんとなく、「わたしは忘れない」 と、言ってあげたい気がする。

 こんな小さな空から、何がわたしを見るだろう。彼女は静かに笑った。


 樽の上にすわり、空を見上げる彼女の前に、その日彼女を買おうとする男は現れなかったけれど、彼女は特に気にしなかった。昼間っから女を買う客など、いたとしてもたかが知れている。

 そうして大きく伸びをすると、暗くなるまで少し眠ろうと、樽から飛び降りて、わずか数段の階段を駆け上がり、宿の中へと消えていった。

 彼女の見上げた わずかな空からは、斜めに傾いた陽ざしがさしこんでいた。

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