1話 奴隷貴族エリオット
震える吐息が白く溶ける。月光が、肩まで伸びる金髪を銀色に染め、汗と血が俺の白い肌を汚していく。薄紫の瞳には、恐怖と決意が揺らめく。目の前にそびえるのは、苔むした巨大な石門――「魂蝕の傀儡窟」と呼ばれる、死と欲望が蠢くダンジョンだ。だが、背後から響く松明の明かりと怒号が、俺に立ち止まる暇を与えない。奴隷商の犬どもが、俺を再び鎖に繋ぐつもりだ。
俺はエリオット。かつてはエリオット・ヴァン・クローヴェル、貴族の名を冠した少年だった。金髪は溶けた金の糸のように輝き、薄紫の瞳は夜空の星を閉じ込めたと讃えられた。華奢な体型と、男とも女ともつかぬ繊細な顔立ち――細い指、薄い唇、わずかに上気した頬は、舞踏会で貴婦人たちの羨望を誘った。だが、その美貌が災いとなり、俺を地獄に突き落とした。家は裏切りで滅び、家族は奪われた。母の最後の叫び声、父の血に濡れた剣、姉の消えた影――あの夜、誰が俺達を裏切ったのか、今もわからない。俺は何もわからぬまま奴隷商の檻に放り込まれ、頭目のゴルドに「商品」として値踏みされた。鎖に繋がれ、汚れた手で弄ばれる日々――それでも、隙を見て逃げ出した。傷だらけの身体を引きずり、たどり着いたのがこのダンジョンの入り口だ。
「エリオット! 逃げても無駄だ!」
ガラガラ声が闇を切り裂く。ゴルドだ。脂ぎった顔に、欲望に濡れた薄笑いを浮かべ、ムチを握っている。後ろには剣や棍棒を持った手下が三人。ゴルドの目は、俺の金髪を、露わな鎖骨を、華奢な肩を、まるで舐めるように視線が這う。
「くそ……ここで終わるなんて、冗談だろ」
ダンジョンの入口で拾った錆びた短剣を握りしめるが、細い指が震えて握力が頼りない。貴族の剣術なんて、こんな場面じゃ絵空事だ。それでも、俺は膝が笑うのを堪えて立ち上がった。ゴルドのその笑みを、この手で消してやる。
ゴルドがムチを振り上げる。俺は咄嗟に横に飛び、ムチの先が石畳を叩く。だが、手下の一人が棍棒を振り下ろし、俺の肩に鈍い痛みが走る。よろめいた瞬間、ゴルドが獣のような唸りを上げて飛びかかってきた。巨体に押し倒され、華奢な身体が石畳に叩きつけられる。金髪が乱れ、月光に白い肌が晒される。
「いい子にしてりゃ、たっぷり可愛がってやったのに」
ゴルドの息が耳元で臭う。汚れた手が俺の服を引き裂き、鎖骨から胸元までを露わにする。薄紫の瞳に、ゴルドの欲望に歪んだ顔が映る。恐怖と屈辱が心を締め付ける。手下たちが下卑た笑い声を上げる中、ゴルドの手が金髪を乱暴に掴み、俺の顔を無理やり引き寄せた。「お前の家族も、こうやって泣いたかな?」と奴が嗤う。その言葉に、母の叫びが脳裏に蘇る。家族は死んだのか? それとも――まだ生きている?
――いやだ。こんなやつに、俺の全てを穢されるなんて。クローヴェル家の真実を、知らずに終わるなんて。
その瞬間、ゴルドの動きが緩んだ。欲望に溺れた、ほんの一瞬の隙――俺は全身の力を振り絞り、握っていた短剣をゴルドの胸元に突き立てた。奴の目が見開かれ、驚愕の叫びが上がる。俺はさらに力を込め、短剣を捻った。血が噴き出し、金髪に赤い筋を残す。ゴルドの巨体が石畳に崩れ落ちた。
「てめえ……!」
手下の一人が剣を振り上げるが、俺は別の手下の足に短剣を突き刺した。悲鳴が響き、そいつが膝をつく。残る二人はゴルドの死体を見て怯え、松明を投げ捨てて闇に逃げ去った。その二人を追って、俺に足を突き刺された男も目の前から消えた。
息を切らし、血に濡れた短剣を握ったまま俺は立ち尽くす。引き裂かれた服から覗く白い肌が、冷たい夜気に震える。ゴルドの死体は、まるで迷宮に吸い込まれるように、石門の奥へとゆっくりと転がっていった。肩の傷が疼き、ゴルドへの怒りが薄紫の瞳の奥でまだ燃え残っている。――奴の言葉が、頭の中で反響する。ゴルド、お前は何を知っていた? 裏切り者は誰だ? 家族はまだ生きているのか? 吐き気を堪え、俺は震える手で金髪を掴んだ。
その時、頭の中に、古の呪文をとなえるように厳かな声が響いた。
『汝、試練のダンジョンに足を踏み入れる者よ。血と覚悟をもって、スキルシステムを賦与された。汝の最初の力を刻む。』
目の前に、半透明の光の幕が広がる。古びた羊皮紙のような文字が浮かんでいた。
=== ===
【禁忌スキル獲得:【魂の刻印 Lv.1】 ―― 倒した敵の魂を吸収し、力を増幅する。ゴルドの魂より【短剣の扱い】【格闘の基礎】を奪取。ただし、魂の記憶は精神を蝕む。この力は、さらなる魂を飲み込むことで進化する。】
【禁忌スキル獲得:【亡魂の視界 Lv.1】 ―― 隠された通路や罠を視認、離れた場所からそれらに影響を与えることが出来る。この視界は、奈落の奥に進むほど研ぎ澄まされる。】
【禁忌スキル獲得:【闇の囁き Lv.1】 ―― 闇の中で敵の気配を捉え、ダンジョンの大いなる存在からの助言を耳にすることが出来る。聴覚は、闇が濃くなるほど研ぎ澄まされる。】
=== ===
ステータス欄には、俺の名が刻まれている。
【エリオット・ヴァン・クローヴェル 状態:軽傷 クラス:逃亡者】
逃亡者だと? ふざけるな。貴族の血を継ぐ俺が、ただ逃げ続けるだけの存在のはずがない。
短剣を握り直すと、刃に青白い炎のような光が宿り、ゴルドの戦闘の記憶が手に流れ込む。構えた瞬間、身体が自然に動く――細い腕が、短剣を何年も使い込んだ戦士のごとくしなる。だが、短剣を振るうたびにゴルドの憎悪に満ちた笑い声が頭の中でこだまする気がする。
『……進め、エリオット。真実は奈落の先にある。』
ダンジョンの闇が、まるで俺の心に応えるように脈打った。スキルはまだ芽生えたばかりだが、ダンジョンの奥に鎮座しているであろう、人知を超えた存在の声がいまはっきりと聞こえた。
「エリオット……お前は、ここで終わる男じゃないだろう」
自分に言い聞かせるように呟き、俺は引き裂かれた服の裾を握り締めた。ゴルドの汚らわしい手で、愛玩動物のように触れられたこの金髪――あるいは貴族の栄光を象徴した長い髪は、もう過去のものだ。俺は短剣を手に、肩まで伸びる金髪を一思いに切り落とした。月光に輝く髪が石畳に散り、まるで古い自分を切り捨てるように、軽い風がそれを運び去った。
「これでいい……俺は、もう逃げない!」
短くなった金髪を指で梳き、俺は迷宮の石門を見据えた。裏切り者の顔も、家族の行方も、この奈落が隠しているなら、俺が全て暴いてやる。門が軋みを上げ、ゆっくりと口を開く。奈落の息吹が、俺の頬を冷たく撫でた。
奈落の底で這いずっていた俺が、スキルを手に、復讐を遂げる物語がはじまる――もしくは、血と恐怖に飲み込まれる愚か者の物語かもしれない。わかっているのは、この一歩から、何かが始まるということだけだ。
評価(下の★★★★★)やブックマーク等で
応援していただけると大変嬉しいです。
なにとぞよろしくお願いいたします。