白崎直人と黄金井圭⑥
翌朝、直人が教室に入ると、そいつは既に登校していた。珍しく自分の席でじっと座っていて、何事かと、周囲には若干の警戒の色が見える。普段なら、おちゃらけはしゃぎ回っているはずの男が、腕を組み口を閉ざしているとなると、誰でも異様な雰囲気を感じ取るだろう。
直人はその男を一瞥して自分の席に腰を下ろした。昨日、子猫を預けた後どうなったのか気になるが、身内以外の人間に自分から声をかけるのは少し勇気がいる。昨日のような切羽詰まった状況ならば別だが、通常、他人とのコミュニケーションをまともに取って来なかった直人には、声をかけるのは難しい話である。
席に座って、そわそわと。横目でちらちら、隣の席を見ていると――
「ぶはっ――!」
突然、隣の席の男が吹き出した。ケラケラと笑い、目からは涙が零れている。相当、我慢した末の決壊らしい。
「面白過ぎるだろ! 普通に話しかけたらいいのにさ」
圭はひとしきり笑い終えると、直人の方へと身体を向けた。
「安心しろ。子猫は病院に届けて、医者から大丈夫だって言われた。体力が回復するまでは入院って形になるらしいけどな」
「……そうか」
直人の口から安堵の息が漏れる。今夜は、ぐっすりと眠ることが出来そうだ。
「あ、そうだ金――」
財布を取り出す直人。その動作を見た圭は、右の掌を広げて直人に向けた。
「半額! 半額でいい!」
「え、なんで? あの子猫を助けたのは俺の勝手だし」
「いやぁ、まぁ、そうかもしんないんだけどさぁ……昨日、病院までタクシーで行ったはいいけど、俺、タクシー代も病院代も、おまけに家に帰る足もなくてさ。だから母ちゃんに事情説明して迎えに来てもらったんだけど、そん時さ、金は後で返してもらえるって話したら、怒られちゃって」
怪訝な顔を見せる直人。金をもらわない、ということで怒るのは分かるが、金をもらう、ことで怒るとは一体どういうことなのか。
「怒られた、というか、一言だけ言われたって感じなんだけど」
「なんて?」
「『ダサい男だね』って」
「何がダサいんだ?」
「うーん、まぁ、お前一人に全部背負わせる気なのかってことなんだろうな。俺も、確かにそれはダサい、って感じちゃったから、だから半額! 俺にも、あいつの命の責任背負わせてくれよ」
命の責任。
その言葉は、勢いで一つの命を救おうとした直人の心を強く殴打した。そうだ。助けたかったから助けて、自己満足で終了、というわけにはいかない。あいつの命は、これからもまだ続いていくのだ。
「……ありがとう。俺……」
「? おう、なんだ?」
「あいつ飼っていいか、母さんに聞いてみる」
「いいじゃん! もし無理なら、一緒に考えようぜ。先に言っとくが、俺ん家は無理だった! 母ちゃん、猫アレルギーだから。まぁ、金はくれたけど」
「それ、半額払うって言いながら、お前の金じゃないじゃん」
「しょうがねぇだろ! 俺の小遣いは既に娯楽の渦に飲み込まれちまってんだから!」
二人の間に笑声混じりの言葉が飛び交う。クラスメイト達は、不思議な組み合わせを訝し気な目で眺めていた。
周りの目が、気にならなかった。何時もなら、女子の熱い視線や男子の鋭い嫉妬の視線が気になって仕方なかったのに、今、目の前の男子と話しているこの時間は、何も気にならない。
ただただ。二人で冗談を言いあったり、これからのことを話していることが楽しくて、自分を苦しめる荊がどこにも見えないのだ。
目の前のこいつの目を見ていても。何も痛みを感じない。
むしろ――。
「あ、そうだ直人」
「――え?」
直人は目を丸くした。身内以外に名字で呼ばれるのは、何年振りだろう。いや、聞き間違え、か?
「あれ? 名前、直人だよな?」
「あ、ああ、うん」
聞き間違いじゃないようだ。
「俺の名前、黄金井圭、よろしく。多分、覚えてないだろうから」
「……確かに。知らなかった」
圭はわざと声を荒げてツッコむ。直人は小さく微笑み、小馬鹿にするように圭をからかった。
「とにかく、俺のことは圭って呼んでくれよ」
「分かった、圭」
にっ、と圭は口角を目一杯上げた。直人の背後から、涼し気な風が通り抜けていく。窓の隙間から春風が吹き込んでいるようだった。
「――おっ。見ろよ直人」
圭は掌を上に向けて直人に差し出した。
「ん? ああ、桜の花びらか」
「さっきの風に飛ばされてきたんかな」
「枯れてたのに、まだ花びらはどこかに残ってるんだな」
また風が吹く。今度は強く、女子はスカートを抑え、男子はセットした髪を懸命に抑えた。直人と圭は、風に乗って舞い始めた桜の花びらを目で追いかける。花びらはまた窓の外へと流れて行って、優雅に、そして緩やかに空中を散歩していた。
ゆっくりだが、確実に。前へ前へと、花びらは進んで行く。
時折、どこかに立ち寄ったりすることもあるけれど、また風の道へと戻り、歩いて行く。
自我を持った花びらは。歩行者のようにゆっくりで。でも、だからこそ、何よりも優先される。
日常の中で。歩き続ける自分は。優先されるべき自分。
直人と圭は、風に吹かれてぐしゃぐしゃになった髪を互いに見合って笑った。圭は大口を開けて。直人は微笑するように。
「あいつの名前、【ブラックスーパーサンダー】なんてのはどうだ?」
「却下」
担任が教室へとやって来て、クラスメイト達が各々自分の席へと着席した。そして、朝のHRが始まる。直人は、学校生活で初めて穏やかな気分で教壇の方へ顔を向けることが出来た。