白崎直人と黄金井圭⑤
校門まで辿り着いてタクシーに乗ろうとしたが、汚れた状態では乗せられないと乗車拒否をされた。料金は必ず支払うからどうにか子猫だけでも病院に連れて行ってもらえないだろうか、と頼み込んだ。だが、向かう途中で息がなくなった場合、責任を問われかねないと、子猫単体の乗車も拒否された。それに、単体だとしても、やはり車内が汚れてしまう。
直人は何とか出来ないかと辺りを見回した。頭に着いた地面の土が、濡れた髪の水分と混ざり合って泥水となり、顔中に垂れ落ちてくる。素肌の出た腕で拭って、なんとか視界を確保する。不明瞭な視界の中に、見知った顔が飛び込んできた。
「――え? 白崎君?」
驚いた様子で問いかけたのは、教室で話しかけてきた女子の内の一人だった。眼を強く擦って視力を回復させ、彼女の背後に朝と同じ二人がいるのが分かった。
確か名前は……忘れた。でも、今はそんなことはどうでもいい。
「なあ、お願いがあるんだけど」
言いながら、直人は身体を彼女に近づけた。彼女は身体をびくっと振るわせ、半ば飛び跳ねるようにして後ろへ下がった。
「――ちょっ、来ないでよ。ありえないでしょ、汚すぎだって」
嫌悪感を隠そうとしない表情。眉間に皺が寄り眉は八の字になって、口は四角形に近い形で開いている。朝に見せていた顔とは、別人のようだ。
視線をずらして、背後の二人を見た。背後の二人も、正面の女子同様、別人のような顔を見せていた。
表情に気圧されたのか、直人は思わず後ずさり、足が縺れてその場に膝を着いた。子猫をしっかりと抱えて衝撃がいかないように配慮したが、そのせいで膝を強く地面に打ち付けた。
腕の中で小さくなっていく命の鼓動を感じる。直人は、そこにプライドがあったのかどうか分からないが、とにかく、自分のトラウマを顧みず、目の前の三人の女子に向けて言った。
「あの、さ――こいつ、病院まで連れて行ってくれたら、その、一緒に、どこか遊びに行ってもいいんだけど……だ、だから! だから頼む! こいつを!」
この見た目を、有効活用する。直人にとっては忌避すべき行動だが、命と天秤にはかけられない。こいつが助かるのなら、時間制限のある苦痛ぐらい耐えてやる。
だが――。直人のそんな決意は、女子三人が向ける視線の先と同じく、地に付した。
「私たちの誘い断っといて、今更? しかもさ、白崎君ってクールキャラだと思ってたのに、そんな汚くなって声荒げるとか、マジ蛙化。ミステリアスでクールなイケメンだったから良かったのに」
「周りにも大分見られてるしねぇ。白崎君の時代、終了ーって感じかな」
「動画アップしたらバズるかな? 必死に子猫を助けるイケメン! 字面はいいけど、頭から泥だらけにはなりたくないよねぇ。おまけに、臭いし」
三人の笑声が木霊する。
直人は、全身を濡らしていながらなお、乾いた唇を微動させて震えていた。
汚くて、臭い? イメージと違う?
子猫が救われない理由は、あまりにも陳腐でしかない。
愕然としながら、目前の三人の女子とタクシーを交互に見た。三人は笑い、タクシーの運転手は口をへの字に曲げて時計を見ている。
なんでだれも、こいつを助けようとしてくれないんだ?
直人は地面に膝を着けたまま、腕の中で震える子猫を強く抱きしめた。今から全速力で病院に向かっても、子猫の命はもたない。自分には、最早為す術がない。ならばせめて、自分の体温をなんとか子猫に伝えて、いずれ訪れる事態の好転を待つほかない。
……本当に……待っていれば……こいつは救われるのか?
「俺に寄越せ!」
頭上から降り落ちて来た声は、直人の後頭部を直撃した。強い衝撃を受けたかのように、直人はよろめきながら顔を上げる。視線の先に映ったのは、金髪の男子。今日、隣の席になった男子だった。
「俺が絶対に病院まで届ける! 安心しろ!」
突然の事態に硬直してしまっている直人から、半ば奪い取るようににして圭は子猫を抱きかかえた。予め脱いでおいたカッターシャツで子猫をくるんで、タクシーの扉を勢いよく開ける。車内に乗り込みながら、運転手に向けて圭は言い放った。
「こんだけ巻いてたら、シートも汚れないだろ! もしちょっとでも汚れたら言ってこい! あんたの気が済むまで、謝罪なり金なりくれてやる!」
タクシーの扉が閉まると同時に、圭の声は途切れた。車内を見る限り、まだ何か怒鳴り散らしているように見えたが、直人には聞こえなかった。
タクシーが発進して、三人の女子たちはつまらなそうな顔で歩き出した。一人の足が直人の顔面に当たりそうになって、直人は慌てて身体をのけぞらせる。勢いあまって後ろに倒れ、仰向けの状態でコンクリートに寝ころんだ。
陽が落ちかけている赤い空が、全面に広がる。真っ赤な空に向かって、一羽の鳥が羽ばたいて行った。その白い鳥は、鳩のように見えたが、正確な種類は良く分からない。
「へぇ、頑張ったわね」
赤い空を遮って、一人の女性が直人の顔を覗き込んだ。直人は視線を逸らして、小さく「うす」とだけ言った。
赤塚はその一言だけを聞くと満足した表情で視界から消えた。去って行く足音の中に「自分で変えられたわね」と、言葉が混じっていたのが聞こえた。
ああ、そうか。
時間にしてみれば、たかだか数十分。
だけど。明日からはきっと――何かが変わっている。