青川海斗とあの日の夕暮れ②
家から出て来た少女は、両手で支えていないと落ちてしまいそうなほどに大きいパンダのぬいぐるみを抱いていた。俺に気付いた少女は、ぱっと顔を明るくして俺にトコトコ、近づいて来た。俺は思わず逃げ出そうとしたが、何故だろう、彼女から目が離せなくて、その場でじっと、彼女が近づいてくるのを待った。
「こんにちは」
何の変哲もない挨拶を、俺も返そうとした。だが、上手く言葉が出てこなかった。口ごもって、だが、何か喋らないとと思って、更にもごもご口の中で言葉がぶつかり跳ね返った。彼女は、そんな当惑し切った俺を見て、くすくすと笑っていた。
「笑うな!」
あろうことか、やっと出て来た言葉がそれだった。我ながら、最悪だと思った。馬鹿にされているとか、そういうことを思ったわけでもない。ただなんとなく不愉快で、初対面の彼女もきっと、俺のことが嫌いなんだと、そう思い込んだ。嫌いなくせに話しかけるな、と反発心から飛び出した言葉だった。
「でも、面白いから」
彼女は俺の言葉に怯むこともなく、笑い続けた。ケラケラ、コロコロ。彼女は色んな表情で、俺の前で笑って見せた。
俺はむきになって、「笑うな!」と連呼した。言えば言うほど、彼女は笑って、挙句の果てには腹を抱えてその場にうずくまった。
「わ、はあはあ、笑う、な、はあはあ」
息を切らしてなお、言い続けた。彼女もまた、笑い疲れたようで、息を切らしていた。
彼女は立ち上がり、息を切らしながら俺をじっと見据えた。もう笑ってはいなかった。俺ももう、声が上手く出なかった。
「私は、桃音鈴。貴方は?」
枯れた声で彼女は自分の名前を言った。俺も枯れた声で「青川海斗」と言った。
「ありがとう、海斗。久しぶりに、ううん、産まれて初めて、こんなにも笑った。たった一瞬の時間だったけれど、私は幸福に包まれていたわ。貴方のおかげよ」
そう言って、桃音鈴は俺にパンダのぬいぐるみを差し出した。
「あげる。私だと思って、大事にしてね」
俺が無言のまま受け取ると、桃音鈴は、トコトコとお城のような家に戻って行った。その家の中から何やら怒声のような声が聞こえて、俺は抱いていたパンダのぬいぐるみを強く抱きしめた。
彼女がいなくなった空間を眺めていると、胸の奥辺りがふつふつと温かくなるのを感じた。彼女は、俺のおかげで幸福に包まれたと言った。その言葉を聞いた時、妙に身体がふわりと軽くなって、知らずの内に顔の筋肉が緩んだ。口角が自動で上向きになって、抵抗しようとしても無駄だった。
俺は、彼女に嫌われている。俺は、両親に嫌われている。俺は――世界中から嫌われている。
もしも、それが事実だとしても、それを自覚する必要はない。俺がいることで、俺がこの世に存在していることで幸福を感じてくれる人がいた。俺の存在を認め、許してくれる人がいた。彼女が幸福だと――俺も不思議と、幸福になっている気がした。




