黄金井圭と恋の芽生え③
夕方になって、俺と海斗はそろそろお暇することにした。海斗は終始、黒助が俺に懐いているのが気に入らなかったみたいだった。異常な懐き具合を見るに、どうやら俺が瀕死の黒助を病院に連れて行ったことを、黒助自身覚えているみたいだ。
恩を忘れない、いい漢だ。
直人は黒助を抱えながら見送りに来て、俺たちは黒助に手でちょっかいをかけながら靴を履いて出る準備をしていた。そんな時、廊下の奥の部屋から、見目麗しい美女が、艶めかしい足をすらっと前に出し現れた。まあ、ジーンズを履いているので生足ではないのだが。それでも、十分魅力的なのだ。
「恵さん、お邪魔しました!」
「なんで敬礼なんだよ。俺の姉ちゃんは軍人か何かか」
「せっかくのお休みに尋ねてしまい、すいません」
「いえいえー。あ、そうだそうだ。えーと、黄金井、圭君だっけ?」
「――!?」
ドキリ、とした。授業中、先生にあてられるよりも、何倍も胸が、ひゅっ、となった。
「な、なんでしょうか!? な、何か粗相でもありましたでしょうか!?」
「まさか圭が、粗相、なんて言葉を知っているとはな。その昔、くるぶし、をお菓子と思っていた男とは思えん」
「なにそれ、おもろ」
「何時の頃の話してんだ! ああー、もう。お前らの相手してる場合じゃないんだよ。恵さん、なんでございましょう!?」
恵さんの右手が、おでこに当てられる。俺の真似をして、敬礼をしてくれたみたいだ。
「黒助を助けてくれて、ありがとうね。圭君のおかげで、この子、元気に暴れ回れてる」
そう言って、恵さんは少し恥ずかしそうにしながら手を下ろした。下りた手は黒助の頭を一度撫でて、黒助が鬱陶しそうに「にゃあ」と鳴いた。
俺は、そんな二人と一匹を眺めながら、恵さんの言葉を否定した。
「俺のおかげなんかじゃないですよ。直人が川に飛び込んでこいつを救ったから、だからこいつは生きてるんです。俺はただ、病院に連れて行っただけで、誰でも出来ることなんで――」
「圭君以外、やろうとはしなかったんでしょ? 直人から聞いてるよ」
「あ、いや、それは……皆、忙しかったんじゃないんすかね。俺ってば、何時も暇だから」
大層なことじゃない。懸命に命を救おうとしていた直人に影響されて、俺の身体は勝手に動き出した。直人の熱が、俺に伝播したんだ。それだけだ。きっと、俺が行かなくたって、他の誰かが助けに行っていた。だから、俺は褒められるような、お礼を言われるようなことは、何もしていない。直人があそこで叫んでいたから、俺は動いただけなんだ。
「まあ、どうであれ、結果としては圭君が病院に連れて行ってくれたわけじゃん。それで、黒助は生きられた。私も直人も、当の本人も感謝してるよ。ね、黒助?」
「にゃあ!」
元気な声が、身体の内側を駆け巡った。俺はそっと、黒助の頭を撫でる。小さな頭が掌に納まって、同じ命なのに、こんなにも小さくて、でも、同じように暖かいことを感じた。
小さな温もりを感じる俺の手の甲に、別の暖かさが触れる。柔らかなその感触は、俺を当惑させた。恵さんの、掌だった。恵さんは俺の手の上に自分の手を乗せて、口角を上げる。目が合って、まともに呼吸が出来ないくらいに、胸がバクバクと、騒ぎ出す。
「圭君は、いい漢だね」
あ。もう、駄目だ。完全にやられた。
にこりと笑うその顔が、俺の胸の奥底深くを猛打した。
口を堅く閉じて意識していないと、無意識に想いを吐き出してしまいそうになる。
これまで、可愛いと思った女の子はたくさんいたし、好きだな、って思った女の子もたくさんいた。胸がどきどきして、変に挙動不審になって上手く喋れなかったり、甘酸っぱい、なんか、そんなのものを感じたりもしていた。
けれど、これは違う。どきどきとか、甘酸っぱいとか。そんな、爽やかなものじゃない。
どくどくと、熱い血液が身体中を巡るのが分かる。内側から込み上げる熱は制御なんか出来なくて、身体の表面でなんとか噴き出すのを抑えるしかない。
俺は、恵さんの手と重なっていた手を、慌てて離した。突然の行動に黒助も恵さんも驚いていたようで、小さい声で謝る。ああ、上手く声が出せない。喉が詰まって、熱に乗せて別の言葉が出てきそうだ。
「さあ、そろそろ帰ろうか圭」
海斗の助け船に乗って、俺は白崎家を後にした。恵さんの姿と声が、脳と鼓膜にぴったりとくっついていて、離れてくれない。手の甲に残る感触も、思わず頬ずりしたくなってしまうほどに、鮮明だ。
「大丈夫か、圭?」
覗き込んでくる幼馴染。見慣れたそいつの顔が、俺を少しばかり平常に戻してくれた。もし、目前にある顔が恵さんだったら、俺はこの場で倒れていたかもしれない。
「お前の面のおかげで、大丈夫になった」
「そうか。大分失礼だが、まあ、許してやる」
「おお? えらく寛容だな。何時もの海斗らしくないじゃんか」
「いや、まあ、なんだ。その、頑張れよ」
「…………なんの話?」
「…………さあな」
海斗の肩の辺りを殴った。がり勉のくせに、妙に聡くて朴念仁ではないのが、なんとなく腹が立つ。
「痛いじゃないか」
「分かったような風で喋るのが悪い」
「…………分かるから、仕方ないだろ」
一瞬当惑したが、思い出した。ああ、そうか。そうだった。こいつも、似たようなものだった。
俺は、海斗と並びながら歩き、傾いた夕日に向かって行った。




