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ハズさを忘れて

「ちょっと冗談っぽ過ぎたかな。僕としては割と本気だったんだけどね。」

 そう言って小男は背後にあった電話ボックスに寄りかかった。タバコのフィルターを手の甲に打ちつけながら、瞬きを繰り返し、爬虫類なみの敏捷さで上唇を舐めつづけている。


 文章を追っていくままに神経がつられ、ワタシは何の気なしに上唇を一舐めしていた。読書の没入感はいつも、こんな細かいことであっても、自分の挙動にハッとさせられた瞬間に途切れてしまうものだった。ワタシは大人しくページを閉じるしかなかった。こんなときムリに読書に戻ろうとしても、経験上うまくいかないことの方が多い。その原因として、きっと没入ってハズいことなのだと思った。

 体温の移ったソファから身を起こし、いない周囲に気を遣うようそっと文庫本を机に置いた。だんだん意識が明瞭になってくると、ほとんど長すぎた昼寝の心地のようで、あらためて本の世界から現実の自分へとゴム紐のような反動が返ってくる。ワタシは部屋にワタシ一人だというのに何だかいたたまれなくなり、嘘をやり過ごすみたいな動きで時計に目をやった。時間は、約束の時間の五分過ぎを示していた。

 ばたばた急いでしたくを済ませ、家を出るころになってやっと友人に遅刻の連絡を送ると、結局約束はさらに30分後ということに変更された。というのも、ワタシの遅刻のメッセージで相手も目が覚めたらしいのだ。30分後なら、今から出発してちょうど到着するくらいだろうか。玄関を開けるとちょうど日が山に隠れるところだった。まだ花粉の春なのに空は夏至のような赤で、セミも鳴いて蒸し暑いし、今日は素人目にみても異常気象なのがわかった。

 今となっては慣れてしまったが、このあたりでは人の姿をまったく見かけない。もちろんそれが目当てでここに移ったのはあるが、人はおろか建物もほとんどなく、植物や地形の起伏ばかりが映る。人工物としてはワタシの家とむかし無人駅だった廃駅が残っているていどで、あとは資料本によればここから少し山を歩いたところに、かつて栄えていた銀鉱山の入り口が放置されているらしい。実際、以前散歩ついでに山の近くを歩いてみたとき、本にあった入り口には出くわさなかったものの、そこへ続いていたと思われる途切れたレールと半壊したトロッコを見つけることができた。トロッコを覗くと底版を突き破って雑草が顔を出し、古い木製スプーンと何かの骨が数本残っていて、あの見てしまったという記憶が未だに頭から離れてくれないでいる。

 廃駅のホームにさしかった。

ここは当然静まり返っている。ワタシの足音だけが響いているが、駅舎の柱のところに、体育座りで背を預け、元々売店だったガラス戸ごしに差した日を浴びて、悩ましいような眠いような目を留めて、置物みたいに微動だにせず、なぜかナースの恰好をして、おそらくワタシを待ちくたびれた様子の女性が一人。あれは約束の相手とは違うが、このまえ空気を読んでしまった挙句に約束っぽくなったのだから余計に始末が悪く、ワタシはあまり気が進まないがナースの肩を叩いた。

「あのー、こんばんは。」

「待ってたよ、やっぱり来てくれたんだ座敷童さん。こんばんは。」

 もう数回は会っているのに、いまだに誤解を解けていないワタシにも落ち度はあるけれど、ワタシからすればナース姿で廃駅に佇んでいるあなたの方が怪異に違いなかった。それとワタシはそんなに子供っぽいのだろうか。服もそれなりに気にしているつもりだった。

 ワタシが側に腰を下ろすとナースはお化けらしくすり寄ってくる。

「はー、もうお姉さんダメなんだ。いつも失敗ばっかでね……。」

「へえ、大変ですねえ。」

「昨日だってね、立駐で20分も迷ってね、途中から泣いちゃったんだ。情けないよね。」

 そう語る口調は涙を堪えきれていなかった。

「そんなことないですよ。お姉さん、疲れてるんですよ。」

「うん、疲れてる……疲れたよ……。」

「大丈夫。ここには誰もいませんよ。だからいいところなんです。」

「……疲れた。」

「うんうん。いいんだよ。いいよ。」

「疲れた……もうやだ! やだやだやだやだ!」

 ここからは筆舌に尽くしがたい幼児退行だった。おかげで約束の時間にはさらなる遅刻が確定したが、しかし考えてみて欲しい。電車のダイヤの遅延や不慮の交通事故、おばあちゃんの荷物持ちが遅刻の名分になるのに、どうして廃駅でナースを癒してあげることが許されないのだろう。そうだ。世の中おかしいよ。ワタシが遅刻したからって遅刻の烙印で責められるのはおかしいし、ナースのお姉さんがあんなになるまで放っておかれているのもおかしい。おかしくないか。絶対におかしい。

「絶対におかしいよね!?」

「え、ああ……うん! おかしい!」

 友達は遅刻したワタシよりも遅刻したけれど、やっぱり理解を示してくれた。遅刻魔の友達は、ワタシよりもずっと都会に住んでいた。だからほとんど事情を知らないでも、一緒に連れてきたナースを受け入れてくれたのだろう。夜であっても暗がりを許さない光の洪水が、ワタシたち三人の姿をはっきり浮かびあがらせている。お姉さんのナース服は、コスプレ用の安いナース服だった。

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