タイムスリップ軍人さん (昭和60年頃)
その軍人は、広島にある大日本帝国海軍基地に所属していた。
日清戦争の頃に一時的に明治天皇が陣頭指揮をした跡地だったので
誰もが、この場所にいられる事を誇りに感じていた。
頃は昭和20年7月、もはや敗戦の色も濃く年齢は21になったばかり
非国民として見せしめに上官に殴り殺された同期の兵隊を見たり
憲兵に非国民と判定され強制連行されるのを見たりしていた事もあり
18の時からの3年にわたる軍隊生活に嫌気が指してはいたが
同じ部隊の同格の兵隊に、誰もが言う合言葉を言って
自分に言い聞かせていた。
"国の為に死ぬのが美しい"
"欲しがりません勝つ迄は"
等々の合言葉で無理やり自己暗示をかけていたが
その暗示が外れて、軍人として生きるのをやめたくなる時もあったが
毎日、同じ部隊で一緒に過ごす人々の中の常識に埋もれ
”前線に行って国のために戦って死にたい”
というような言葉を語っていたし、視界に入る人間が全員
それが当たり前に思うように教育されていたので
違う常識で物を申す事は不可能だった。
7月中旬の朝、目がさめると、毎朝聞こえるはずの
"起きろよ 起きろ みんな起きろ-"
というフシ回しで鳴るはずの起床ラッパの音が聞こえない。
営所の寝床にいたはずが、見慣れない建物が目に入る場所。
時間が早朝なのはわかるが全く見た事も無いような建物が並ぶ
今まで通り、いつも通りでは無い日常に
突然、放り込まれパニック状態になって混乱する兵隊さん
”ここにいる人間と同じ恰好をしよう
どこだかは理解できないが、目立つのは危険だ
幸いここは東洋人しかいないようだ”
早朝の人通り少ない道路で
自転車にのって通りかかった自分と同年代で同体格の人間を見つけ
殴って気絶させて着ていた服をはぎ取って軍服から着替えた軍人さん。
しばらく、そこらを歩き回る。
”ここはどこなのだ?”
という疑問だけが頭の中で鳴り響く。
通りすがる人々の言ってる言葉を聞くと日本語に似ているが、
よくわからない単語が混ざっている。
うかつに話かけてはいけないと、そこらへんに落ちていた新聞を拾い
見てみると、"昭和60年7月15日 (1985年7月15日)"と書いてある。
そして軍人さんは気づいた、ここが40年が経過した広島な事に
最初は不思議に思ったが、神隠しとは、こういう事なのだと
迷信と結びつけて時をかけた事に納得した。
どこへ行くべきなのか? 軍人さんは考えた
最初、思いつくままに市立図書館へと行って
歴史の本を読んで、この40年間に何があったのかを調べた
最初に、皆の誇りだった広島大本営について調べる
明治27(1894)年9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し
2日後の9月15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。
このため、行宮(あんぐう=臨時の皇居)の役割も果たした。
この時期、明治27(1894)年10月に招集された第7回帝国議会は
広島の広島臨時仮議事堂で開会され、議事堂は西練兵場内に建設された。
国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、
広島市は臨時の首都の機能を担った。
これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。
明治天皇は日清講和条約、つまり下関条約を調印後、
明治28(1895)年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。
大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、
明治29(1896)年4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。
大本営解散後は文化財として保護され「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として
昭和元年(1926)に国の史跡に指定されていたが
昭和20年8月6日の原爆投下により建物は全壊
広島城内に建物基礎および礎石と一部文字が消された碑石が残っているのみである
これだけを見ても、全ては過ぎ去り忘れ去られた事になった事が理解できた
最初、”明治天皇陛下に対して不敬な表現が書かれているのは、どういう事だ”
と憤ったが、他の資料を探しても同じような表現。
時代が変わり、常識自体が変わり違うものなのを理解した。
そして誰と会えば、誰を頼れば自分が生きているかを考え
とりあえずは親戚を探そうと考えた
歴史資料に書いたあった8月6日の原爆を生き残っていたら
もし、いまだに同じ場所で生活していたら
そんな事を考えながら住所を頼りに親兄弟と過ごした家を訪ねる
到着した住所の表札には長兄の名前が書かれていた
玄関も見た事もないような造りになっていて
どうやって家の中に入るのかすら、わからない
なので、しばらく家の前で待っていると
40年を経過して60歳過ぎの年寄りになった長兄が
朝の散歩から帰ってきた
家の中に入ろうとしている所に話しかけると
お化けか幽霊を見るような眼で見てくる
そして錯乱して、ワケのわからない事を叫ぶ
「うわあ なんじゃ 何故じゃ 迷わず成仏せえよ」
「いや、不思議かもしれんけえ、あんたの弟じゃ」
と言って兄弟しか知らない事を話して認識してもらい
お化けでも幽霊でもない事を理解してもらった。
「で? これから、どうするんじゃ?
すでに死亡届けが出ているから戸籍上、死んだ事になっている
尋常小学校した卒業してないから
もう一度、学校へ行くとしても、どうするんじゃ?
働くにしても、普通の会社じゃあ働けんけえの。」
「昔の御武家様がやっていたように
兄貴の養子って事にできないもんじゃろか?」
「今まで、どこかの国にいて出生時に届出してないんじゃとか
御前が終戦後に中国に送られていて
中国残留孤児の子供じゃとか?
それか亡命外国人という事にでもするいうんか?」
「え? ワシは日本人には成れんのか?」
「どうじゃろな、役所の人に、どう言うかじゃろな
日本で無戸籍状態になって
両親が消えたという事にするとかなら
日本人って事には、なるんか?
今まで、そんな戸籍が無い人間に
戸籍があるようにするなんて考えた事も無いけえ
どうすれば、御前が普通の日本人という事で
生きていけるようになれるのかが今は、わからん
本当の事を言ったら
”頭のオカシイ人間が馬鹿な戯言を言っている”
と誰もが思うじゃろうし
そのタイムトリップ話を信じる人間もいないけえのぉ
今まで無戸籍だった理由を、どう言うかじゃろ
でも、どう言っても差別される可能性は高い
21歳まで無戸籍だった事を働く会社に表明するんじゃから
当然、日本の学校に通っていなかった事になるけぇの」
「学校って尋常小学校卒じゃ駄目なんか?」
「戦争が終わってから、義務教育っていうものが出来ての
6歳から小学校6年間、中学校3年間の9年間は
全国民が勉強する事になっているけえ
その後3年間、高校に通う人間が多数
御前が、もし義務教育、高校卒業までをした
という事にするなら、高校卒業資格試験を受けて
合格しないと駄目なんじゃ
じゃないと普通の会社じゃ働けんけぇの
働いたとしても、しようもない会社での仕事しかないじゃろ
もしくは自分で、親方とか職人とか呼ばれる世界で
仕事するかじゃろうな。」
「じゃあ 働くんは その親方職人世界で ええけん。
どうせ、今の会社とか仕事場の普通な常識なんぞ
ワシには理解できないじゃろうからのぉ」
役所で、親が出生届けを出さずに放置されていた虐待児童が
無戸籍だったのを戸籍登録できた前例に
どういうものがあったかを聞き出し
その中で一番、多くて戸籍取得がスムーズにできた事例を参考に
前例通りという事で戸籍が作れる可能性が高い物語を
兄貴と作り上げて役所に申請
なんとか養子縁組をして戸籍を取得
地元にある錦鯉養殖職人の世界に入って働く事になった。
・・・・・
あっという間に3年が過ぎ昭和63年になった
昭和20年7月に一緒に過ごした同期の桜の生き残りが
24歳の自分より40年上の64歳
広島の錦鯉養殖業界で重鎮になって
講演会をするというので出かけてみた。
その会場で人の顔を見るなり奴が話しかけてくる
「いやあ あんた そっくりだ
原爆が落ちる1ヶ月前に部隊から消えた奴に」
「そうですかあ、その兄の子、甥っ子なんですけどね」
「声まで、そっくりだ。」
「よくある顔だし、よくある声ですからね。」
そして講演会が始まった。
戦時中までの話の内容を聞いていると
奴の体験じゃなくて、周囲にいた人間の体験も混ざっている
所属していた群れの記憶が語る言葉・・というシロモノなのか
あの時代に生きていた人々が、もし生きて居たら
たぶん、こんな事を言うだろうという言い方で語っている。
当時は一兵士にしか過ぎず。
何も考えずに上官命令に従っていただけだった奴が
軍を離れ、大日本帝国から離れ
戦後焼け跡、高度成長期、オイルショック
昭和61年の円高不況、そこからの好景気の中を
会社経営者として生き残る内
客観的に大日本帝国の歴史や世界に蔓延したの帝国主義などを
客観的な視点で考えるようになったのだろう。
もし、帝国のために戦う帝国主義しか知らない兵隊だったのが、
会社のために働く社内常識しか知らない会社員になっただけなら
決して言うはずは無かったであろう言葉が奴の口から出てくる。
戦時中までの事や国への想いなどを語った内容は
最初は何故、そんな事を言っているのかと感じ不思議だったが
講演終了後に会場にいた孫らしき子供と
楽しそうに過ごす姿を見て思った
奴は自分の孫や、孫世代の子供に語りかけていたのだ
”自分や、自分達と同じ失敗をしないで欲しい”と。
”あの当時、大日本帝国海軍という群れの意識に埋もれ
帝国主義による軍需産業中心の世界で若い頃を生きざるを得なかったが
自分の子孫には、そんな世界とは関わらずに平和に生きて欲しい。”
そんな想いで子供でも理解できるような言葉で語っていたのだろう
昭和21年に戦後の焼け跡で抱えた初心から
昭和31年。昭和41年。昭和51年。昭和61年と
10年区切りで何を想うようになっていたかを。