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かっこいい悪役を探して  作者: 中山恵一
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演劇青年


上京して間もない大学一年の頃、

知り合ったばかりの女優志望の女友達に誘われ、

青山にあった劇場に行き、妖艶劇のパロディを観た。

演劇といえばそれまでは、学校の講堂で見た文部省推薦の良い子のための

日本昔話の学校演劇くらいしか知らなかった僕には強烈な衝撃だった。


数日後にもう一度、彼女から誘われた。

今度は不忍池の袂に設置されたテントの中で繰り広げられる前衛演劇だ

地方都市から出てきた客の少ないローカル線にしか乗った事の無い高校生を

突然、朝のラッシュ時の地下鉄に放り込むようなものだ。


カルチャーショックどころじゃない。

突然、今まで見た事も無い人数の人々に揉みくちゃにされ

洗濯機の中の洗濯物になったような状態になった。


帰り道、女友達から居酒屋に誘われ

同じ舞台を見ていた人々が集まる店へと出かけた


「ここにいる人間は田舎の高校とは違って

 集団縁、同じ集団に所属している同年代の人間と

 義務や義理で関わるという縁だけを

 抱えているワケでは無いんだよ な


 東京で同じ演劇に関わる人々が抱える集団縁?


 そんな感じのようなものを抱えたがっているみたいな・・


 というか、そういう縁を無理やり作りたがっているんだ な


 自然に作ろうとするものではなく

 無理やり誰かが思いつきで作ろうと思い込み

 それを他の誰かが何かの理由を付けて拒絶する

 たまたま、うまくいったら縁が作られる

 それが繰り返されて、できた群れなんだ な


 東京は好景気で、やる気を出せば、いくらでも仕事がある

 なんだかんだで、なんとかなっていて楽観的な空気だ

 悲観的になって東京ではやっていけないと挫けた奴は

 田舎に帰っていって群れから消えていく・・みたいな・・


 毎年、4月頃に新しく田舎から出てきた人々が加わり

 翌年の3月頃に田舎に帰る人々が消え、

 たまに結婚生活を抱えて家族との生活のために会社員になる人々

 などが内輪から消えていった人間関係


 そんな人々の中で俺は舞台役者として生き残れた

 そうだろ? 違うか? なぁ」


そんな自慢話を、さっきの舞台で脇役をしていた人が

同じ脇役さんに語っていた。近くの席なので

その人々の生き残るためにすべきだ演説が聴こえてた。


酔いも回って席にいる人々が各々に根拠の無い自信や

田舎にいた頃に憧れた千両役者への思い入れなどを

語る内に夜が深まっていった。


翌朝、眼が覚めると誰かのアパート

店が閉店になった後、一番広い部屋に住む人の所へ、

その場の空気でついてきた人が流れ込み

一晩中、酔っ払いながら語り明かしていたようだった

流石に全員が酔いつぶれて雑魚寝している


一緒に来た女友達を起こし、

通勤・通学ラッシュの満員電車に向かう人々と逆方向へ帰った。


・・・


映研サークルには後に映画監督となる人々がいた

内輪の飲み会には名作を作る事になる

他大学の映画監督志望な人々もいた。


当時から自主映画世代とは言われていたが、

一緒に8ミリを撮りながら、これだけ多くの映画監督が

後に輩出されることになるとは誰も予想していなかった。


それまでの16ミリに比べれば

圧倒的に廉価な8ミリフィルムが流通したことは一因だろう

ちょうど現在のデジタル技術が新たな若い才能を開拓しているように

でも、それだけじゃない、多分、僕らの世代には

共通する「喪失感」や「欠落感」があったのだと思う

それを埋めるために何かを作り上げたい

という願望があったような気がする。


高校時代にブームのピークを迎えたフォークソングは、

反体制メッセージ・ソングな歌詞が主流な

時代のBGMだったが、そろそろ時代遅れになり始め

四畳半フォークとかに入れ替わり始めていた。


「学生運動だけはしないでね」と

心配そうに念を押す母親に相槌を打ちながら、

東京に行ったら闘う運動家になるぞなどと

確固とした思想やイズムもないままに昂揚していた。

ところが受験が終わり大学に入学したときには、

学生運動はすっかり下火になっていた。

上の世代たちはあっさりと挫折して企業戦士になっていた。


こうして一番、基本的な諸々を刷り込まれる年代の頃

するべきだと刷り込まれた事を実行に移すことが不可能になり

やろうとして挫折する事すら、できないままに

何かに扇動されたかのように作られた青臭い情熱を

演劇とか映画というジャンルの磁場が引き寄せた。

そんな時代背景はあったと思う。


逆に言えば少なくとも僕については、十代後半に抱いていた

「我等が世の中を変える意識を持って政治活動をするべきだ」

というような情熱など、今となっては


”誰が何のために作り出して群衆の心に焼き付けたものだ?”


と疑問に思える程度のものだったとしか言い様が無い。


・・・・


芝居の洗礼を受けた後は演劇部にも所属した。

授業をサボっては自作シナリオを説明して

その通し稽古風景を撮っていた。


プロの俳優に出演を依頼できるような予算は無いから

サークルのメンバーたちでスタッフやキャストを兼任することになる。

役者としての自分は、自分で見ても

存在感があって見ていたくなるような役者ではなかった

そんな自覚から役者として出演するより

自分のシナリオにあった客を呼べる役者探しをしたり

シナリオを書いたりする時間が多くなった。


そんな研究会で持ち寄った演劇への思い入れが肥大化していき


 若かったからゆえの自意識過剰な自己主張が

 客観的に見れば喜劇的な事を利用した喜劇


 若かったからゆえの自意識過剰な自己肯定と

 客観的な否定との大きな落差を自覚させられる悲劇


そんな内容の同じようなシナリオを書いて

脇役や裏方をやりながら演じることの面白さを実感して

やる気を維持できていたことは幸運だったのだろう。


なぜ、映画や演劇のサークルに所属しようと思ったのか?

思い出せる最初の記憶は中学三年の春休み

映画好きのクラスメートに誘われて

当時有名だった名作を市内の映画館で観た

それまでは子供向け夏休み映画とかだったのだから衝撃を受けた


(なんだか衝撃を受けた記憶ばかりだ。

 あの頃は幸せな時代だったなと回顧趣味な感覚になってくる)


それから映画館通いが始まった。

当時僕が住んでいた地方都市には名画座が一軒だけあって、

料金は安く月に二回ほどなら高校生の小遣いでもまかなえた

スクリーンやキネマ旬報も愛読した。


同じ高校に通学している山村郡部の中学出身の同じ趣味の友人などは

映画館が一軒あるくらいで、後は何も娯楽のない地域の住人だったので

映画への入れ込み方や、嵌った映画の主演俳優とかへの入れ込み方は

今、思えば、色んな娯楽のある東京生まれの東京育ちの人には無い

唯一の娯楽へ入れ込んだ暑苦しいものだった。


有名監督の作品を手当たり次第に観たし影響もされた。

人生の大切なことのほとんどとは言わないが

美意識とか、情緒感情的な好みとかは、

おそらく誰かが作り上げた映画作品で学んだはずだ。


東京は、色んな刺激があるけれど

金が無いと何にも触れられずに宣伝を見るだけで終わるが

地方都市なので、その宣伝すら眼にする事が少なかったのだから


・・・・・


大学で、わざと必須単位を落とし

大学5年生になって就職から逃げていた頃、


住んでいたアパートがあった下北沢に

雨後の竹の子のように出現していたマイナーな小さい劇団で

端役というかエキストラのような役者と裏方をやっていた。


同じ大学の知り合いは就職先とかが決まったり、

新入社員としての日常を語ったりしているのに


なんとなく何にも、なっていない人間のままで

学生という立場に、しがみ付いて日々を過ごしていた


劇団には稽古をする稽古場を借りる金も無く


 役者をやろうなんて自己顕示欲や巨大な自意識の人間で

 自分勝手で自己中心的で共同作業なんて所詮は無理

 まとめ役として中心になる演出家もいないから

 大雑把なシナリオを書きたいと言う人が集まって書いて

 あとは各自がセリフを覚えて

 セリフが飛んだのとかも、役者のアドリブ掛け合いに任せよう


 ほぼ、ぶっつけ本番の不条理演劇になるけど

 どうせ、その日、その場、限りの空気での公演

 何度か、演じる内に完成度も上がるんじゃないのか


 場の空気を読んで、今日の客に一番うけるのは

 こんな感じのセリフや情動表現だろうと瞬時に理解する才能は

 どうせ教えられて、できるようなもんじゃない

 できる奴は最初からできるし、できない奴は努力してもできない


というデタラメなポリシーで運営していた劇団だったので


丁寧に作りこんでリハーサルも稽古も重ね

演出家による指導とかが入る劇団の人々には

”下手で邪道なデタラメ学芸会演劇”などと酷評されていた。


(そんなデタラメな劇団だから自分のような人間でも

 脚本を書かせて貰えたのだろう。内輪では


 前衛不条理劇を極めていくのも

 ウチラの表現できる”アジ”というものだ


 と言い張って他の劇団がやっている

 演出スタイルとか稽古スタイルを

 一切、参考にしようとすらしなかった座長だったから)


なぜ劇団などに通いだしたのか、

思い出しながら綴ろうと考えてみても動機すら思い出せない。

忘れたということではなく、思い出せるほどの動機などなくて


ただ、なんとなーく やってみたくなって


最初、有名な名門劇団の入団試験?のようなものを受け、

”華が無い”とか ”存在感が無い”とか 

”基本的な発声すら出来ていない”

とか罵倒されるだけで全く相手にされなかったが


この”パニック・シアター”という劇団に潜り込んだ知人と

仲良くなって関わりあいができて

たまたま、座長と人間的に相性が、あったという

ゆるーい理由だったような気がする。


”いつか役者や脚本家や演出家で食っていける”


という根拠の無い自信に溢れる若者が

100人中1人いたとしても、累計すれば膨大な数になる。

その ”演劇信者”の群集心理に飲み込まれたワケだ

この頃、下北沢界隈の小劇団は空前の盛況だった

と言っても可笑しくないような感じだったように思う。


この頃に影響は大きく受けたと確信できるのは、

飲み屋で知り合った、この劇団にいる先輩に見せられた

不条理演劇「ゴドーを待ちながら」のパロディ

「GODを待ちながら」などの不条理演劇だ。


不条理演劇というマイナーな演劇をやっている内輪では

内輪受けしている有名人が初代の劇団代表だった


映画に存在感のある悪役とかで出演していたが、

飲み会のたびに不本意だというような事をいっていた。

だが結局、とある映画で当たり役が発生して、

それがシリーズ化されたので大手事務所と契約して劇団代表を譲って

あっという間に下北沢小劇団ワールドからは卒業してしまった


交代した二代目の劇団代表は、

有名小説家の映画デビュー作の主役に抜擢されたけれども

舞台演劇は やめないと周囲の人に言っている人が代表になった。


他にも、バラエティ番組やテレビドラマなどで個性派脇役として

活躍するようになった先輩が副代表というか補佐役になった。

 

内輪で飲みに行くと必ず語られるのは、

昔、抱えていた初心についてだった

なぜ自分自身が演じることに興味を持ったのか、

その理由を語りあうのが酒宴のパターンだった。


熱く自分の初心を語る人が多い中、

自分の内面について考える事が無かった僕は何も語る事が無く

誰かが語る美しい初心を毎日、ただ聞いていた。

正直、美しい初心とか演劇への情熱とかいうものを

言葉で表現できなかったし、今でも、できない

語ろうとしても稚拙で説得力の無い

子供の戯言のような言葉しか浮かばない。


当時、書いた脚本の下書きノートが出てきて

読み返してみたが何がなんだか理解できない

わけのわからない叫びの羅列や酔っ払いの戯言が

ただ並んでいるだけなようにすら読めて

物語として成立していない雑文にしか見えない


今、思えば、座長が演出しながら脚本を

そこにいる役者と一緒に作り上げるための

大雑把な叩き台程度の脚本しか書けていなかったのだ。


・・・・・・


いろんな要素が錯綜しながら舞台演劇に深入りしていき

就職活動は一切しないままに大学8年生、26歳になった。


入学した頃に知り合った同年代の人が

大学院を卒業する年代になっていた頃だ

教授の助手として研究室に残るか

有名大企業に入社して大学内の世界から去るかを

選択しなければならなくて悩んでいるのを学生下宿で聞かされていた。


どちらにしろ、大学には来年の3月までしか在籍できない

一生を棒に振るかもしれない。という不安はあったが

今まで、やってきた事を全て捨てる決心もできなかった。


その頃の座長が、当時の下北沢で良く上演されていた定番劇の

安部公房「友達」現代版パロディを

ウチでもやろうと言い出し、やる事になった。


 ”見知らぬ家族”に突然一人暮らしの生活を侵食された男が

 今まで通り、いつも通りに自分一人で考える日常を壊されていく


 ”見知らぬ家族”は、違う価値観の男にとっては

 狂気に満ちた他人の心を破壊する凶器にも見えるような

 ”自分達の正しさ”を主張したいだけの存在となっていく


 ”見知らぬ家族”の ”自分達の正しさ”により

 男の自意識は破壊され

 心の中に抱えた”誇り”や”心の支え”なども失い


 自分の精神を自分で維持するために

 続けてきた事を全て、”間違っている”と言い張られ

 邪魔され、やめさせられる


 そして、”見知らぬ家族”の

 大きな声で叫ぶような意識の中に埋もれ

 今までの自分の心が壊れていくのを

 自分でも自覚しながらも、どうする事も出来なくなる男


そんな狂気に満ちた不条理劇のあらすじを聞かされ

僕は、当時の座長 兼 演出家から脚本を書けと指名された。


「ラストシーンは? どうするんですか?」


と質問すると


「いつものように、家族と主人公の男をやる役者の

 実際の個性が引き出された時点で決める」


とだけ座長というか

事実上、内輪の脚本家 兼 演出家は言葉を返してくる


狂気の世界を過激に刺激に満ちた言葉で

創作する事に熱中したと書きたいところだが


同じ劇団の女にすっかり夢中になっていたので

芝居より自分の色恋沙汰が優先になり

その女と一緒に過ごすための手段が演劇になっていた


脚本披露も朝は一緒のベットから出かけ

だいたいの舞台構成の意識会わせが終わったら

同じアパートに帰って同じベットで寝た。


 見知らぬ一族に侵食され

 今まで作られた心が、理想が、夢が壊されていき

 それを、どうにも出来ない男が狂気に陥る様を描きながら


僕自身は彼女とのことで頭がいっぱいだった。


そして翌年、8年間通った大学を卒業した僕は

昔なじみの映画監督作品に脇役として出演したり

舞台の共同脚本を書いたりしながら

舞台演劇の世界にしがみ付いている。


いまだに続けられているのは


脚本を書いた安部公房「友達」の現代版パロディが

下北沢の狭い世界の口コミでは

ほどほどに良かったからか


大学時代に知り合った人々の中から

映画監督や助監督が大量に排出したからか


有名人の仲間入りできた人とのコネがあったからか


いずれにしても自分の実力とか腕ではなく

あの頃に巻き込まれた ”下北群集心理”が作り上げた堂々巡りに

いまだに嵌っているからなのかもしれない。


今では、たまに訪れるだけになったが

下北沢の風景や行き交う人々を見るために出かけると

なんとも言えない不思議な感覚に陥る。


街を行き交う人は違うけれども

同じ景色を見て、同じような事を想う人はいるのだろう。


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