もちろん、今夜の贄の話だよ
「越後に戻る」
早朝から始めた軍議の場、鵺部のその一言で上杉勢の北近江撤退が決定した。それは、参謀である鵺部の策に総大将の景勝が同意しても、同意しなくても撤退となるからだ。
兼続は鵺部にその理由を尋ねた。
「謙信殿が墜ち、姫様が撤退せよと」
鵺部の返答は場を凍りつかせ、撤退やむなしとの空気を作り上げた。そして、上杉諸将は早々に軍議を切り上げると北近江からの撤退を開始した。しかし、誰も知らない。鵺部が口下手のために正確には言ってなかったことを。
前夜、鵺部と深狐による定例の念話。
『実は、越後諸白という澄んだ旨い酒を手に入れることができましたね。きっと鵺部も気にいると思いますね』
『澄んだ酒か、それはよさそうだな』
『その旨い酒で、謙信殿と飲み比べをしましたね。深狐が考えるに、謙信殿は大した人間ですね。この深狐との飲み比べであれほど善戦するとは思いもしなかったですね』
『全く、何をやっているんだか』
『まあ、結局、謙信殿が先に堕ちたので、勝負は終わりましたね。姫様も喜んでくれて結構楽しめましたね』
『姫様が楽しんでいるのであればよい。こっちはちまちまとつまらない事だけだし。よし、深狐、こっちはもう終わらせていいか』
『それは、駄目ですね。あっという間に終わらせては姫様が悲しみますね。観光するための時間を確保するためには、ほどほどにしないと、ですね』
『分かっているさ。だから、私が直接手を下さずに、あいつらを使っている。時間がかかって面倒で仕方ないがな』
『でも深狐は知ってますね。城や砦では落とし易いよう密かに鵺部が露払いをしているですね』
『仕方ないだろ、時間ばかり掛かってイラッとするんだ。たまには発散しないとな。我を忘れて皆殺しにするよりはマシだろ』
『皆殺しは、駄目ですね。いろいろ問題になるですね。特に年寄り方がですね』
『全て峰打ちだ、安心しろ。しかし、この状況何とかならないものか。すぱっと終わらせるか、誰かに替わるか。あっ、そうか、その手があった。深狐、今から私と替われ』
『それは、とても魅力的な誘いですね。結構、悩ましいですね』
『何だよ、その気があるのなら替われよ』
『でも、今からは無理ですね』
『何でだよ』
『姫様が、鵺部にも諸白を飲ませたいから戻って来いと伝えろって言ってましたね』
『おいっ、先にそれを言え』
長浜に戻った羽柴秀吉は恐怖した。
焼け落ちた長浜城に、焼け野原となった長浜の町を見た。だが、それだけではない。
主人である信長にどのように報告したら怒りの矛先が自分に向かないかと熟慮しなければならないほどのことが北近江で起こっていた。長浜の城下町、近隣の村々に人の姿がなかったのだ。
秀吉は、上杉勢の乱取りを恐れて山に逃げたのかと思い、人を派遣して呼び戻そうとした。だが、山で応える者はいなかった。そして、秀吉は調べていくうちに真相にたどり着いた。
上杉勢が、人拐いをしていた。
その数は、百人や二百人で済む話ではない。数万の農民が北近江から消えていた。
まるで、三年前の天正三年(1575年)八月に織田勢が越前に侵攻し一向衆を殲滅した後、数万の農民を尾張や美濃に移したことの仕返しのようだった。さらに、問題だったのは国友村の鉄砲鍛冶衆が、人も道具も何から何まで全て消えていたことだ。
農民は、他国から移せば良い。しかし、鉄砲鍛冶衆は、おいそれと移せる者たちではない。
それゆえに、織田家の損失は計り知れない。信長が激怒して折った采配を投げつけてくる姿が容易に想像できた。
この原因は、兼続が行軍中の馬上で鵺部に相談していた話。上杉領となる越前の国力回復と鉄砲量産のために景勝と兼続が考え出した策だった。だが、今の秀吉に誰が考えた策かなど関係ない話。今、秀吉が己の額に拳を打ちつけながら悩んでいる難題は、どうやったら信長の怒りを回避できるかだ。
直接の報告は無理。であれば、信長宛てに文を書くしかない。文の書き出しをどのようにしたら信長が怒らずに済むか、どのようにしたら信長の怒りを最小限にできるかと秀吉は悩んでいた。
鵺部が意気揚々と越後に引き上げ、秀吉が信長への手紙で悩んでいた時、一人の男が竹姫のもとを訪れていた。
魚沼の豪農の客間には、竹姫、卯野、真田昌幸がお互いの小姓や護衛たちを遠ざけて対面している。竹姫が畳一段高い上座、昌幸が板間の下座、卯野が同じく板間の側面に座っていた。
「真田昌幸、三十歳、二年前の長篠の戦いで兄二人が討死したため真田家に復姓し家督を相続。真田庄を本拠地として西上野の防衛が役目。ただ、最近では武田君主勝頼への諫言が多いので遠ざけられていますわ。ですが、勝頼もその交渉能力は認めている。だから、今回の名代に選ばれた、と言うところですわね」
「へえ、その真田昌幸が、妾に何の用?」
「我が主武田勝頼に代わりまして、竹姫様の上杉家の家督継承祝いと九頭竜川での戦勝祝いに伺いました。この度は、誠にめでたき事が重なり祝い申し上げます」
卯野の解説を素知らぬ顔で聞いていた昌幸が頭を下げる。
「そりゃ、どうも、ありがとさん」
気だるげに返す竹姫。
「昌幸殿は、耳がよろしいですわね。姫様が上杉家を継いだことも、織田との合戦も喧伝もしていませんのに」
「いえ、乱世のたしなみ程度でございます」
「うちの卯野も耳がいいぞ。卯野、武田の様子は?」
「はい、姫様。北信濃の海津城を守る高坂昌信は病に倒れ、すでに虫の息。天正三年(1575年)の長篠の戦いで、同じ四天王である内藤昌豊、山県昌景、馬場信春の三人は討死していますから、武勇を馳せた武田四天王の者たちも、これで終わりですわ」
「へえ、四天王か。カッコいいな、もう一人呼ぼうかな」の竹姫の独り言に、卯野は困った顔を見せたが言葉を続けた。
「長篠の戦いが起きた同じ年の秋、東美濃の岩村城では、秋山虎繁が奮闘虚しく討ち取られました。まあ、これは織田信長が降伏した虎繁との約束を反古にして、将兵ともども騙し討ちしたのが真相ですわね」
「ほう、やるな信長。卑怯な手段も取れるとは、あっぱれな奴」
「二度の負け戦で、信濃木曽を守る木曾義昌は、武田一門衆であるにも関わらず、武田を見限り織田方に寝返ろうと画策しているようでございますわ。もっとも、これからどうなさるつもりかは分かりませんけど」
「武田も大敗、織田も大敗、だったら上杉にすり寄ってくるかな。話が来たら面白くなりそう」
「さあ、どうでございましょうね。おそらく当面は様子見と思いますわ」
「残念。で、他は?」
残念と思ってもいない竹姫が次を催促する。
「はい、武田方である遠江の高天神城では、徳川方と周囲にある支城を巡って取り合いになってますわ。高天神城は堅城とはいえ城を守るのは人。人は糧なくしては生きられませんもの。支城はその糧を運ぶ道ですから」
「戦うにも腹がへっては気も失せるか」
「はい。あと、気になるのは新府城普請でございましょうか」
「新府城?」
「ええ、武田では新しく甲斐韮崎に城を構えるつもりとか。甲斐、信濃、東美濃、西上野、駿河、遠江の統治を行うには甲斐府中城下では手狭になり広い地に本拠を移すとの考えが先代の頃にもあったらしいですわ」
「ふーん、だから新府ね」
「ですが、長篠では大敗、東美濃を失い、遠江では実りのない戦を徳川と繰り返していますわ。それでは、いくら戦費があっても足りませんわ。そして、この時節での城普請。民に重税をかけるようですわね」
「愚策だな。勝頼の周りには内通している者でもいるんじゃないのか」
「そうですわね。平時ならばともかく、今、重税を選ぶのは一揆や離間の策を敵に献上するようなものですわ。ですから目の前の昌幸殿は、主人の勝頼から遠ざけられたのでしょう」
卯野の言葉は、昌幸が勝頼の愚策に諫言したのでしょうとの意味だ。そして、昌幸の顔色がどう変わるかを観察している。だが、昌幸は竹姫と卯野が話す武田家の内情に顔色一つ変えない。
「で、そなたは上杉に鞍替えか?」
「なるほど、それも良い考えかと」
昌幸は、竹姫の誘いにも動じず「その手もありますな」と顎に手を当てて呟いた。
「冗談だ。どうせ、上杉を継いだ妾と養父上の具合でも探りに来たのだろ」
「ご明察でございます」
「ふん、誰にでも分かることだろ」
「次代の上杉家当主が聡明な方で安心いたしました。これで、武田も安泰でございます」
「へえ、なんで」
「はい、上杉の主敵は、織田に北条。さらに武田と争うのは益とはなりませぬ。過去の遺恨があったとしても武田との暗黙の和睦は続くと」
「妾は、戦いでも良いぞ」
「いえ、武田と上杉が争うは、織田が利するのみ。ご容赦を」
「つまんないな」
「昌幸殿、織田方は上杉と本願寺に対するため武田との和議を望んできますわ。武田はどうされるつもりかしら」
「勝頼様は、常陸の佐竹を通じて織田とは和議を望んでおりました。信長は応じようとはしませんでしたが。ですが、今は、武田も織田も和睦に利があります。謙信公が倒れた今、上杉は動けないと考える織田信長は東を徳川に任せ、全力で西の本願寺を叩くことでございましょう」
「養父上が倒れた?」
「そのように耳に入りました」
「ふん、探りだな」
「武田の命運がかかっておりますれば」
「正直じゃないか。もっと腹芸とか、謀とかしてくれるかと期待したのに」
「まさか、聡明な竹姫様、武田の内情に詳しい卯野殿を前にそのようなことをして何の利がありましょう。それに、竹姫様は正直な者を好むと」
「いいね、その目。人を計る目だぞ、真田昌幸」
「恐れ入ります」
「いいだろ。上杉は武田とは暗黙の和睦ってのを続けるよ。武田は武田で好きにしろ」
「はは」
昌幸は、竹姫に頭を下げた。
「ところで昌幸、そなた酒はいける口か?」
竹姫が、親指と人差指で輪を作り、口もとで動かす。
「はい。ほどほどには」
「では、踊りは?」
竹姫が両手を上げ、ひらひらと手のひらを舞わせる。
「踊り、でございますか」
「そう、踊りだ。何でもいいぞ」
「幸若舞であれば少々」
「養父上と同じやつだな。それは好都合。それから、もちろん、信濃の名物や景勝地は詳しいよな」
「ええ、まあ…」
昌幸は、身構えた顔つきになった。
「そう来なくっちゃ。知らないと言ったら武田との和睦はなかったことにするところだったぞ」
「…」
昌幸の額に汗が浮かぶ。
「よし、よし。昌幸、そなたには、色々聞きたい事がある。今日はここに泊まっていけ。ついでに養父上にも会わせてやる。しっかりと養父上の様子を見ていけ」
「よろしいのですか。謙信公の御加減の方は?」
「養父上は、ぴんぴんしているよ。あと十年は生きるぞ」
「であれば、是非にも」
「ふふふ、養父上も、深狐も、夕方にはいつも出来上がっているからな」
「出来上がっている?」
「全く困ったものですわ。あれほど、二人には説教をしたのに。こっそりと毎日忍び込んでいるんですもの」
「困る…説教…」
昌幸の額から汗が流れた。
「今日は、昌幸がいるから護衛の者たちは気が楽になるな。まさか、養父上があれほど舞にうるさいとは意外だったし」
「深狐も、深狐ですわ。美しい小姓たちに女物の長袖を着させて唐舞踊をさせるなんて。なんて気のきいたことを。もう、キラッキラッでしたわね」
「おし、今夜は、護衛の者たちは見逃してやるか」
「そうですわね。連日では役目にも支障がでますし」
「だがしかし、小姓たちには女物で踊ってもらう」
「ふふふ、それがよいですわ」
「あの、竹姫様、卯野殿、一体何の話でございましょうか?」
「ふっ、ふっ、ふっ」
「ふふふ」
【不定期な観光案内】
近江国(滋賀県)国友村
戦国時代は、鉄砲の登場による軍事の転換期でした。そして、封建領主たちは、その鉄砲という新しい軍事に対応せねば生き残れなかったのです。
さて、鉄砲の二大生産拠点といえば泉州堺と近江の国友村。国友村は昔から鍛冶が盛んだったそうで、そこに目をつけた足利将軍家が入手した鉄砲を持ち込んで複製させたと伝わっています。
複製のカギは「ネジ」。
当時の最先端技術のネジを複製できた日本は、戦国時代という背景も手伝って瞬く間に世界一の鉄砲保有国となってしまいます。
鉄砲の歴史や実物に興味ある方は、国友鉄砲ミュージアムまで。火縄銃専門のミュージアムとのことです。
それでは、次回は「果たして、そうかな」をお送りします。