くしゃみをしていた
竹姫が、鼻を鳴らして眉をしかめた。
「カビ臭いな」
「そうですか。私には、甘い香りに感じられますわ」
「これ、甘い香りか?」
「あら、私の鼻がおかしいのでしょうか」
薄暗い通路を、案内人に連れられて進むお馴染みの一行。小姓や護衛の者たちを逗留地に置き去りにして遊び歩いている者たち。竹姫、卯野、深狐、そして、謙信の四人。
その四人は、竹姫と卯野、深狐と謙信の組で二列に並んで暗い場所を進んでいた。四人を先導するのは、頭を丸めた坊主であり、がっしりとした体格の男。卯野よりも背は低くいが、横幅は二人分もあり着物の上からでも鍛えた筋肉の盛り上がりが伺えるほど。
その案内人の男が、後ろを歩く四人に振り向いた。
「さ、さ、こちらや」
男は、作った笑い顔を向けて進む先を手のひらで示した。目下は黒く窪んでいるが瞳だけ燦々とさせ、三日月のように口角を上げて男は笑う。この場に竹姫たちの小姓や護衛がいたならば、即刻取り押さえられ、「何を企んでおる」と詰問されるぐらいの黒い笑顔だ。
そんな男の様子を四人は一切気にもせず、通路に並ぶ胸丈まである大きな瓶を触ったり、叩いたり、中を覗き込んだりと忙しい。
男に案内されたのは、大きな瓶がいくつも置いてある蔵の中。また、同じような蔵が数棟建っていて中で往来ができるため、全体はまるで闇の迷路のようだ。
鼻を摘まみながら大瓶の縁に掴まり、中を覗き込んでいる竹姫。
「暗くて良く分からんが、瓶の中は泡だらけだ」
「姫様、先程の香りはこの泡からしてくるような気がしますわ」
「ですやろ。よーく育っておりますよって」
「育つ、ですか?」
「せや、よーく見てや。あんたさんの肌と同じで、絹のように細こうてちーさな泡ですやろ。これがいいんや。この泡こそが、よーく育ってる証拠や。これが、これから毒になるんやで」
ニヤリと笑う男は、上目遣いで卯野を見る。
「ふーん、毒ねえ。ふっ」
竹姫が、瓶の中に息を吹き掛けて泡を飛ばした。
「へっへっへっ、姫さんのような子供だったら、ひとなめでコロリですわ」
「ほう、妾を毒で倒すだと。面白い。毒ごときで妾を倒せたら大したものだ、その時は褒美をやろう」
「さすが上杉の姫さんや、この毒を怖がらへんとは。上杉様は、よい跡継ぎさんを養女にされましたな。へっへっへっ。って、ところで上杉様は?」
「あれっ、さっきまでその辺にいたのに。養父上は、どこに行っちゃったんだよ。まさか、迷子じゃないよな」
「まさか、ですわね。あらあら、深狐もいませんわね」
「深狐もかよ」
竹姫、卯野、案内人の坊主と辺りを見回すが、大量にある大瓶の影に埋もれたのか謙信と深狐の二人の姿を見つけることができない。
「まっ、いいか」
「そうですわね。謙信殿と深狐がいっしょであれば、問題なしですわね」
「そそ、じゃあ、先を案内してくれ」
「よろしいのでっか」
「いいの、いいの。居なくなるほうが悪い。迷子になるのが悪い」
竹姫が、顔の前で手のひらを左右に振った。
「違いまんな。やはり、上杉の姫さんは他所とは違いまんな。わては、気に入りましたで。ほな、先に行きましょか。こちらや、この奥に、今日一番の新しい毒を用意してますよって。へっへっへっ」
坊主の男は、「こちらや、こちらや」と度々振り向きながら手で招いて、竹姫と卯野をさらに暗い先へと案内する。
竹姫たちが、瓶が並ぶ通路の先を曲がると一筋の眩しいほどの光が射す場所についた。光は蔵の高い位置にある小窓から射し込んでおり、光が照らす位置には大瓶が一つ輝きを放っている。しかし、光が強すぎるためか大瓶だけがよく見え、反対に周りにあるものが暗くて見えない。だが、通路の終わりであることから、ここが男の案内したかった場所だと知れた。
「さあ、姫さん。こちらや。へっへっへっ。これや、これ。覗きまっか?」
坊主は、輝く瓶に手を添えて竹姫を手招きする。
竹姫は、坊主の手招きに応じて瓶の中を覗き込む。
「どれ、どれ」
「へっへっへっ、よーく、見てくなはれ」
「うーん」と竹姫は目を細めて泡を観察した。
「さっきのと同じ泡?」
「何でやねん。えろう違いまんがな。もっと、良く見てくれなはれ。遠慮はいりまへん、ほれ、もっと近こうで。どや、泡が違うで、艶が違うで、香しいで、そして、ほれ、粒が揃うてるでっしゃろ。これでんがな、これが、いいんでんがな」
「えー、そんなに違うか」
竹姫が、瓶の縁に両手をかけて、これでもかと言うぐらい泡に顔を近づける。
「うっ」
暗がりから出てきた影が竹姫に歩み寄る。そして、竹姫に手をかけた。
涙目の竹姫が、自分の肩を支えてくれた相手を見上げる。
謙信が、泡の臭さでよろけた竹姫の肩を支えていた。
「養父上!」
「うむ」
見つめ合う父娘。
「迷子?」
「遅いぞ」
言葉を出したのは同時だった。
「…」
「…」
再び、見つめ合う父娘。
「一番だったけど」
「迷子ではない」
また、父娘同時。
「あらあら、仲良しなこと」
「深狐が考えるに、謙信殿と深狐は迷子ではないですね。姫様と卯野が、中々先に進まないので二人で先に来ていただけですね」
もう一人、影から出てきたが、こちらは深狐。
「いや、それは、嘘だな」
竹姫が支える謙信に近づき、くんくんと鼻を鳴らす。すると謙信が竹姫から逃れようと顔を背けた。
「泡と同じ匂いがするぞ。どうせ、妾を待ちきれず、先に来てやっていたのだろ。旨かったか、養父上」
「う、うむ」
謙信は、竹姫と目を合わせない。
「あらあら」
「深狐が考えるに、あっという間の陥落とは情けないですね、謙信殿」
「そう言う深狐も先に?」
「もちろんですね。でも深狐は隠しませんね。姫様には、直ぐにバレますからね」
深狐は、ぺろりと口の上にある泡の髭を舐め取った。
「ああああ、なんちゅうことを!」
坊主が、大きな尺で瓶の泡を退かして中身を確かめる。
「大丈夫、ほんの一口ですね」
「そうやない、そうやないんや。上杉様やあんたさんが飲んだのは、醪や」
「中々、いけましたね。ねえ、謙信殿」
「う、うむ」
謙信は、こちらに話を振るなと、誰もいない方に顔を向けた。
「それが、違うねん。これは、醪を飲むもんやない。諸白 のため寒造りしたもんや。せっかく、唐臼やのうて、水車を造ってもらい米を磨いたんや。それから三段仕込みして、後は搾って火入れするだけやねん。ここまでやって醪を飲むのはないわ。それはないわ。諸白を飲んでほしいわ」
悔しそうに熱く語る男は、もと大坂本願寺の酒造僧。
大坂本願寺では、敵対する織田信長の包囲を受け、酒造りは少しばかりを残し全廃。寺に酒造りを行うほどの余裕はなくなっていた。しかし、そこに本願寺と上杉家の和睦と織田信長包囲網での共闘が始まる。上杉謙信からの要請もあり、寺はあぶれた酒造僧を越後へと派遣。そして、越後の雪深い魚沼の地で酒造りを始めていた。
今年は、その一年目。
酒造僧は、越後の米、越後の水、そして、越後の冬を見極め、寒造りによる諸白造りを考え出した。
この時代の飲酒の主流は醪を飲むこと。いわゆる、どぶろくを飲むことだ。どぶろくは神事にも使われる縁起物なのだが、酒造りの者たちの間では神事よりも酒の味や香りの向上を追及し諸白造りにたどり着いていた。
諸白とは、濁りがなく澄みきった酒のこと。現代の清酒と大差ない。すでに京や畿内では人気となっており、二度に渡る上洛で上杉謙信も諸白に触れていたのかも知れない。
「上杉様も、姫さんたちも、少しばかり待ちなはれ。今、濾しますよって」
坊主が、搾り袋に醪を入れ桶に移した。そして、ゆっくり袋を捻っていくと、小さな桶に透明な酒が溜まっていった。さらに、搾り終わった袋を別の桶に移して、桶に溜まった酒をじっと睨む。
竹姫が、「どうしたん?」と尋ねても坊主は返事もせずに桶を睨んだまま。しばらく、睨んだままの時が過ぎた。
「まあ、ええやろ」
坊主は、桶の酒の上澄みを柄杓で掬うと、茶碗に注いだ。
「上杉様。これが、越後の諸白や。味わってもらえますか」
坊主が、謙信に茶碗を渡した。
謙信は、酒の香りを嗅いでから一口含むと目を閉じて酒を味わいながら飲み下した。そして、ゆっくりと目を開く。
「旨い」
「そうですやろ。旨い酒ですやろ。どの寺にも負けない出来やと思うております。せやけど、この酒はもっと旨くなりまっせ。越後の米と水の力はこないやない。もっともっと力が隠されているはずや。わてが引き出したりますがな」
「うむ、越後の諸白を頼むぞ」
「おおきに、上杉様。このわてに任してくれなはれ」
どんっ、と音が鳴るくらい坊主が幅の広い胸を叩いた。
「妾にも、早く飲ませろ」
「おお、そうですな。姫さん、すぐに用意しまっせ」
坊主が、次々と桶から上澄みを茶碗に入れては竹姫、卯野、深狐に渡し、さらに謙信には二杯目を渡した。
「どれどれ、うげー」
「まあ、姫さんには早いですやろな。予想通りでしたわ。姫さんには、母屋に戻りましたら甘酒をだしまひょ」
「甘酒?」
「せや、この諸白とは違ごうて酒と言うても甘いだけの飲みもんや。粥と麹を一晩寝かせるだけできる一夜酒ですわ」
「よし、それもらうわ」
「おっ、姫さん、移ってもうたな。そちらのお二人はどないや、旨い酒ですやろ」
坊主が、卯野と深狐に尋ねた。
「そうですわね。この酒、まるで水のよう。椀には何も入っていないかのように澄んでいて、でも香りは、…そう、りんどうのような爽やかな香りがしますわ。味は、どうかしら、こくん。…こ、これは素晴らしいですわ。すっきりとした飲み口にも関わらず、旨味が後を引き、また飲みたくなる。私にもう一口を誘ってくるなんて、色気のある美味しい酒ですわ」
「評論家か」と竹姫が一人つぶやいた。
「そうでっか、そうでっか。えらい誉められようで、なにやら恥ずかしいですわ。でも、おおきに。そない誉めてもらうと酒造り冥利につきますわ」
「ん、んん」
深狐が、咳払いして自分を何度も指差す。
「おっ、深狐も飲んで感想を言うのか?」
うんうんと深狐が竹姫に頷き、茶碗をあおった。
「うん、深狐が考えるに、この酒は透明度が高いのに白く輝いていて、香りが無いのに残り香が後を引き、甘いのに辛い。うん、まあまあで、とっても旨いですね」
「「どっちやねん」」
竹姫と坊主の同期。
「うーん、もう一杯もらわないと、よくわからないですね」
「深狐ったら、もう一杯だけですよ。謙信殿も、ほどほどになさいませ。夜の楽しみが少なくなりますわよ」
三杯目、四杯目と竹姫たちが騒いでいる間に、自ら茶碗に酒を注いで飲んでいた謙信が、悲しげな顔を卯野に向ける。
「もう。夜に楽しみなさいませ。今は次の一杯で終わりですわ。深狐もですわよ」
「承知ですね。謙信殿、夜の楽しみに乾杯ですね」
「うむ」
謙信と深狐が、茶碗を合わせチンッと鳴らすと一気に酒を飲み干す。そして、「夜に」と声を合わせると再び空になった茶碗を鳴らした。
「うーん、何か忘れているような」
「姫様、どうなさいました」
「何か、忘れているような気がするんだよね。何だろう」
「何でしょうか」
「うん、何だろう?」
「ひょっとして、それは鵺部のことではありませんか?」
「あっ、それ、それだ。鵺部だったらこの酒を気に入るなと思ったんだ。よし、鵺部が帰って来たら、たんまりとこの酒を飲ませてやろうかな」
「さすが姫様、お優しいですわ」
「鵺部は、今、どこで何をやっているかな」
「そうですわね。どこで何をやっているのでしょうね」
竹姫と卯野が、光射す窓を見つめる。
一方、鵺部は、越前と近江の国境に当たる栃の木峠でくしゃみをしていた。
【不定期な観光案内】
越後国(新潟県) 日本酒
今回紹介するのは日本酒。
謙信の活躍した室町時代後期、戦国時代は日本酒の歴史でも重要な転換期にあたるそうです。この時代の前の酒といえば濁酒が主流。ところが、このころ諸白と言われる現在の清酒に近いものが現れて徐々に広がることになります。
どの時代でも、美味しいものが正義なのですね。
ちなみに、新潟県にある約90の酒蔵のうち約40が、一般見学を行っているそうです。
もし、お酒や酒造りに興味がありましたら見学されてはいかがでしょうか。なお、このご時世、平時見学できるかはわかりませんので事前に確認を。
それでは、次回は「大丈夫、在庫はいくらでもある」をお送りします。