すれ違いは不幸の始まりっぽい
春は、雪が融け緑豊かとなる季節。山々には種々の山菜が芽を出し、人の食に彩りを添えてくれる。しかし、越後魚沼の春はまだ遠い。高い標高と深い残雪のため、魚沼の春はもうしばらく先になりそうだ。
冬の食事は、一般的に保存食であり彩りを欠く。また、保存食ゆえに塩気の多いものになりがちだ。だからと言って、人はそれに甘んじない。冬で食材が限られようと、華やかで温かく美味しいものを目指して料理の工夫を重ねる。
そう、人の叡智は、食にある。
ぜんまい、筍、茸などの乾燥山菜を水で戻す。贅沢にも鰹節で取った出汁に戻した山菜、洗った里芋、きめの荒い豆腐、そして味噌をいっしょに入れて煮立てる。一煮立ちすると里芋が柔らかくなり、それで完成。暦の上では春になったが、まだまだ、肌寒いこの季節には打ってつけの鍋料理だ。
今、豪農の離れを占拠している男女四人は、その鍋が吊るされている囲炉裏を囲んでいた。
「ふはー、うまいぞー」
椀と握った箸を上げて、竹姫は叫んだ。
「姫様、はしたないですわよ」
「いや、旨いものは旨いと言って、作った者に感動を伝えなくっちゃね」
「それは、大切なことですが、鍋を作った者は母屋におりますわよ」
「気持ちだからいいの」
竹姫は、再び、ずずーと椀を傾けた。
「うまー、里芋、さいこー」
「もう、姫様ったら」
竹姫が箸を上げて叫ぶと、卯野がため息を吐いた。
「卯野、酒を」
「謙信殿、これで今日は最後ですわよ」
謙信が伸ばしてきた椀に、卯野は酒を注ぐ。
「うむ」
不服そうに謙信の片眉が少し上がった。それに反応して卯野が注ぐ手を止める。そして、徳利を置くと身を正して謙信に向かった。
「謙信殿、宜しいですか。いつもいつも、何も食べないで、塩で酒を呑むばかりでは体に毒ですわよ。酒以外も召し上がらないといけません。謙信殿、聞いておりますか? 酒は百薬の長、されど万病の元、ですわよ」
「うむ。漢書、または、それを引用した徒然草であるな」
「あら、よくご存知ですね。って、もう、謙信殿、ごまかされませんわよ。ならぬものは、ならぬです」
卯野は、怒っていますよという顔を作った。
「そうだよ、養父上、まだまだ、元気でいてくれなきゃ。妾が引き受けた結果も見届けないで死ぬのは、不義理と言うものだぞ」
「今日は、それで終わりですわ」
卯野が言うや否や、置いた徳利が煙のようにかき消えた。
「うむ」
謙信は、未練がましく椀に入った酒を覗き込むと、ちびり、舐めるように酒を口にした。
「深狐が考えるに、軍神と呼ばれる謙信殿も卯野にかかっては形なしですね。ですが、深狐は、姫様への的確な助言を高く評価していますね。深狐は情報が不足していましたが、やっと揃ってきましたね」
「ん、評価? 深狐、何の話し」
「謙信殿が、姫様に大湯温泉を勧めた理由ですね」
「ふーん、それには裏があったと。やるね、養父上」
竹姫が、謙信に向かって片目を閉じ親指を立てた。
「深狐が考えるに、景勝を総大将に、景虎を軍監にしたのは二人をひとかどの武将に育てるためですね。阿賀北衆と古志長尾衆を越後に止留めたのは、万一の守りもありますが景勝と戦場で仲違いしないように。そして、姫様を誘ってこの魚沼に来たのは」
深狐が、目を細めて謙信の様子を伺う。
「…」
謙信は、素知らぬ顔をして椀を傾けた。
「古志長尾衆が他家に唆されて、上田長尾衆の地、魚沼を攻めないようにですね。そして、あえて越後魚沼に謙信ありと周囲には知らせ、北条家や蘆名家などの良からぬ動きを牽制するため、ですね」
「さすが、養父上。でも、ばればれだけどね」
うまうまと、竹姫は椀から里芋や山菜を頬張る。
「謙信殿は、子思い、国思い、ですわね。仕方ありません、はい」
卯野の手にはいつのまにか徳利があり、それを若いが妖艶な笑顔とともに謙信へ向けた。
「今回だけ、ですわよ」
「…」
謙信は、残っていた酒を一気に煽ると空になった椀を卯野に差し出した。
一方、織田征伐中の上杉軍団。
大聖寺城を出立した総兵力二万八千は、加賀の国境を越えて越前に入った。また、それに呼応するように、柴田勝家率いる織田勢三万五千も北ノ庄城を出発。真北の九頭竜川に到着すると河川敷に兵を東西に展開。前回の屈辱を晴らすために上杉軍の南下に備えた。
下間頼純は、轡を並べた隣を伺い見た。隣の馬上にいるのは樋口兼続、話相手だ。
本陣進軍を指揮するのは、上杉景勝。しかし、その隣に競って並ぶは上杉景虎。景勝は無口で、景虎は景勝の動向に意識がいっており頼純の相手をしてくれない。よって、二人に話しかけるのは諦めた。参謀だと紹介された少女は、阿賀北衆の武将たちに取り囲まれていて近づくことさえできない。消去法的に、下間頼純には樋口兼続しか話相手となる者はいなかった。
「なるほど、上杉家ではそのような役目が参謀でしたか。それでは軍師とは異なりますな」
「他家は知りませんが、それが新たな御実城様の考えです。本願寺ではどうされているので」
「本願寺は武家ではありませぬ。全ては法主様の導きに従い、我ら坊官がその教えを民に伝えるのです」
「ほほう」
武家と変わらないのですね。法主を国主、坊官を武将、民を兵に置き換えれば同じですとの兼続の声が聞こえそうだった。
頼純と兼続は、お互いに越後上杉と大坂本願寺の情報を引き出そうと探り合いをしていた。
上杉謙信が病に倒れたかと疑い探ってみたが、この上なく健康で温泉に出かけていると兼続は応じる。倒れたことを隠している様子は微塵も感じられない。隠しているのであれば、若いのに大した役者だ。
では、新たな御実城様とは、どのような方かと問うと、急な養子縁組みから当主となった方であるため正直、分からないと応じてきた。
ずはり、鵺部が何者であるかを聞いてみた。すると新当主の家来で武に明るいために参謀に指名されたと応えてくる。武に明るいとは言え、鵺部は女子で子供ではないかと問い返すと、誰も敵わぬのだから仕方ないと笑って応じる。兼続が嘘を吐いているようにも見えず、かといって確からしい情報が何一つ得られない。仕方なく、ついでとばかり昨日聞いた上杉軍の参謀の役目についてを尋ねてみた。
織田征伐では、参謀の鵺部が策を決め、総大将の景勝がその策をもとに兵を動かす。参謀と総大将の意見が合わぬ場合は即時撤退。軍監の景虎は策や用兵に意見することは許されず、総大将と参謀の言動を後日の評定で証言するのみだと兼続は話す。それでは、参謀が総大将より上位なのではと問うと、参謀は兵を率いていないと兼続が答えた。
他家では聞いたことがない軍の統率方法だった。
「頼純殿、そろそろ九頭竜川まであと一里ほど。軍議を開く準備をせねばなりませぬ。これにて」
そう言って、兼続は馬を蹴った。
武将たちが集まる陣幕で囲われた軍議の場。兼続の案内で、鵺部、景勝、景虎が現れ上座に腰を下ろした。
率いる兵がいない阿賀北衆の武将たちが、誰一人として軍議に参加していないのだが、それに疑問を持つ者は誰もいない。兼続が軍議の始まりを告げ、鵺部が合戦での策を説明する。
「九頭竜川を挟んで織田方と対峙する。右翼、能登加賀衆の七千。中央、越中衆の一万、左翼、本願寺衆の五千。斎藤朝信の越後衆六千は遊軍としてこの場所に待機。以上」
「それがお前の策か?」
景虎が、真ん中に座る景勝の頭越しに鵺部にくってかかる。ただ、景虎の言い分は軍議に参加している皆の思いだった。
「だから」
まるで虫けらでも見るような視線を、景勝を挟んで鵺部が返す。
両者の視線が煩わしいのか、景勝は視線を避けるように後ろに身を退いた。景虎の熱い視線と鵺部の見下す視線が直接ぶつかる。
「そのようなもの、策でも何でもない。子供にでも考えつくわ。そうか、お主、子供だったな」
「軍監は、黙れ」
「なっ、ぐぬぬ」
拳を握り小刻みに震える景虎が、真っ赤な顔で押し黙る。景勝は、何食わぬ顔でもとの位置に身を戻した。
「鵺部殿、よろしいか」
「何?」
「我ら遊軍は、どのように動けばよろしいか」
「刻が来たら私が伝える」
「鵺部殿が?」
「そう」
斎藤朝信は怪訝な表情を見せるも、伝令があるのであればと納得し鵺部に頷き返した。
「渡河の合図は、いかになりましょう」
次は、越中衆を率いる河田長親が問うた。
すかさず「我らも同じく」と須田満親と下間頼純が続く。
「渡河しない」
「合戦にはならないと」と長親。
「鵺部、お主、城一つ落としたからと言って、織田軍とは対峙しただけで逃げ帰る訳ではなかろうな!」
吠える景虎の唾から逃げるように景勝が身を後ろに下げる。
「うるさい」
「うるさいだと」
「黙れ」
「おのれ」
「三度はないぞ」
鵺部に睨まれて唸るだけになった景虎を確認して景勝は身を戻した。
長親が、何事もなかったように鵺部に問うた。
「渡河せず、どのように」
「伝える」
長親は鵺部の策の詳細について尋ねようか迷ったが、須田満親と下間頼純が横で頷いたのに気づき詳しく尋ねるのを止めた。
「なるほど、分かりました。鵺部殿の指示を待ちましょう」
と、そのまま軍議の場が静まり返る。そして、言葉を発する者がいなくなると兼続が反応した。
「景勝様、皆様方の意見は、出尽くしたようでございます。ご判断を」
景勝が、鵺部に顔を向け頷いた。
「皆様方、合戦の支度を」
兼続の声が陣幕に響き渡り軍議は終った。
いつもであれば、最後の言葉に合わせ武将たちが気合い言葉で応じるが、それもない。武将たちは、そそくさと自軍へと向かい陣幕は空となった。
軍議が終り越後衆を除いた上杉軍団は前進を開始。九頭竜川の対岸に並ぶ織田勢に対峙する配置を取った。上杉軍の本陣は越中衆のすぐ後方に構えた。
河を挟んでにらみ合いとなる両軍。
鉄砲や弓では距離がありすぎて相手を睨むのみ。しばらく両軍に動きはなく、睨み合いが続いた。
当然であるが、渡河を仕掛ける側が圧倒的に不利。そして、守り手である織田方に無理して渡河する理由はない。
その日は、動きのないまま日が暮れた。
九頭竜川の両岸には、大量のかがり火が焚かれ幻想的な眺めを作るが、それに見とれる者はいない。相手がいつ渡河するかと緊張の中にあった。
翌日、早朝から上杉軍は九頭竜川上流に一里ほど移動。そこは山が迫り大軍が展開するには不向きな場所。織田勢も上杉軍に合わせ戦線を移した。
上杉軍は、渡河地点を探っているようにも見える。
そんな中、後方にいる斎藤朝信の陣に鵺部が突如現れ、秘密裏に九頭竜川河口へ移動すること指示し姿を消した。
上杉軍と織田軍の対峙は、急に終りを告げた。
上杉軍が九頭竜川の渡河を諦めたのか、織田方が見守るなか戦場から撤退を開始。ほどなく、織田勢の目の前から一兵もいなくなる。
ここで、柴田勝家は悩んだ。
今、上杉勢を追撃するか。
昨年の手取川の合戦では、遅れを取り上杉勢に敗けた。その屈辱を晴らしたい気持ちもあるが、上杉軍の手強さも知っている。大聖寺城は落とされたが、上杉勢が越後に退いた後に取り戻せる。今は、上杉軍が退いただけで織田方の勝ちだ。
「だが…」と呟く柴田勝家の脳裏に、色々な顔と言葉が過る。
「上杉方が退いてようございました。さすがは、勝家殿」と小馬鹿にしたような顔で労いの声をかけてくる成り上がりの羽柴秀吉。
「ご苦労でございました。手強い越後勢の相手は大変でしたでしょう」と憐れみの目を向ける気取った明智光秀。
「勝家殿、今回は済まなんだ。次こそは与力しますぞ」と無責任な言葉を投げてくる、いつも何を考えているかも分からない滝川一益。
そして、甲高い声で怒鳴る信長の顔。
「謙信のいない上杉軍の何を恐れる。上杉を潰すまたとない機会であろうが、それをまんまと逃げられおって。勝家、お前は何をしておった、結果を出さぬか」
勝家は、斥候を放ち上杉勢が撤退中であることを確認すると織田全軍に九頭竜川渡河を命じた。
だが、柴田勝家は知らない。
織田勢が渡河する位置から、四里ほど離れた九頭竜川河口で、阿賀北衆の武将たちが集めた舟を使って斎藤朝信率いる越後衆も渡河を開始したことを。
【不定期な観光案内】
越後国(新潟県) 濁酒
卯野が謙信に注いでいた酒は、濁酒です。令和の現在、濁酒を含めたお酒を勝手に造ることは酒税法違反となります。それが自分で飲むものだとしても。
ところが、日本には「どぶろく特区」なるものがあって、その特区で緩和された要件を満たして免許を取得したら濁酒が個人でも造れるそうです。
そして、その「どぶろく特区」が多いのが新潟県。さすが米どころですね。興味がある方は、「どぶろく特区」で検索すると詳しいことがわかるので是非チャレンジを考えられてはいかがでしょうか。
それでは、次回は「誰だって苦手なものぐらいあるよ」をお送りします。