第3章 ゼロから始める共同生活-4
誤字とかあったら気軽に言ってくれると跳ねます。
* * *
今日も今日とてスーパーで買い物をしてから、自転車を漕ぎ続けること十数分。
カゴに乗せた荷物はそう多くないはずなのに、ペダルが重く感じるのはどうしてだろうか。
深く考えずに二、三万で買った六段変速のファミリーサイクルだが、最高の『6』に合わせても疲れるほど重くはならなかったはずだ。大体、『6』しか使わないし。
だのに、今のこの気怠さはどう説明すればよいものか。
いつもよりゆっくり漕いでいるせいかな。ハンドルにかけている学生鞄にいたずらで無駄なもの入れられて重くなったせいかな。それともカゴの中における質量保存の法則が乱れているせい? 大事な夕飯の食材なんだからやめてくれよな。
今すぐ現実から逃げ出したい気持ちを抑えながら、目的地へ辿り着く。
自動車を保有していないため、ごちゃごちゃした物置小屋と化しているガレージの中に自転車を突っ込み、シャッターを下ろして玄関の前へ重い足取りを進ませる。
「……どうしたの? ハルくん、顔怖いよ?」
庭に自転車を止めた京花が、心配そうに声をかけてくる。
そう、俺は猛獣に食われる選択肢より、まだこの四肢が無事でいられる選択を取ったのだった。苦渋の選択だったが、被害を最小限に留められる可能性はこちらの方が高いと見たためだ。
当の本人は俺から無限に放出され続けている重苦しい雰囲気の原因が自分にあることに気付いていないようで、罪のない彼女を責めたくなる気持ちに駆られてしまう。
が、八つ当たりしたって仕方がないし、彼女に悪気があるわけでもない。
ただ、タイミングが悪かっただけなのだ。
せめて覚悟を決めるための時間がもう少し欲しかった。
「……京花。今これから何があっても、決して驚かないでほしい」
「えっ……、え? 何? 何かあるの?」
「いや特に何もないと言っちゃまあ間違いなんだが何かあるにしてもそう特筆すべき重要事項ではないし他人が深く干渉すべき問題でもないから心配しないでほしい」
「よくわからないけど、私が驚きそうだってことだけはわかった気がする……」
今は困り眉で苦笑してくれるだけの京花の表情が、この後どう変化するかなど考えたくもなかった。
あいつが『いつまでいるつもりなのか』という質問に答えなかった点を考えると、いずれこの時が来ることは決定していたのだ。予想外にも、少し予定が早まっただけで。
そう考えを改めれば、少しばかり気が楽になってきた気がした。
あとは、腹をくくるだけだ。
「……よし」
自宅へ帰宅しようというだけなのに、できるだけ神妙な面持ちを保ち、丁寧な動作で鍵を開け、扉を引いて中へ足を踏み入れる。
「ただいま」
幼少期から習慣として身についている挨拶を口にするが、反応はない。
――いや、待てよ。
ピンチを目前にした俺の頭の中が、命の危機が訪れた瞬間に視界がスローモーションになって見えるように高速で回転を始めて、考えてもみなかった解決策を導き出す。
リリアを留守番させて帰宅した昨日、彼女は俺が家を空けている間、律儀に同じ場所でじっとしていた。
つまり、適当な理由を付けて京花を一度ここで待機させて、奥にいるリリアに来客中は隠れるようお願いすれば、この危機は案外簡単に脱出できるのでは――?
「おかえり、悠久。お腹空いた」
――そんな俺の希望は、虚しくも一瞬のうちに粉々に砕け散った。
「お前本当に空気読めねえのかよ……」
「?」
俺の呟きの意味が理解できなかったらしく、可愛らしいお洋服に身を包んだリリアちゃんは不思議そうな顔。
いや、事情を知らない彼女に同意を求める方が無茶というものだ。
彼女は彼女なりの優しさで、俺を出迎えてくれたのだから。
昨日は出迎えてくれなかったのに。一日で進展しすぎじゃない? チョロ花さんに次いでチョロアさんって呼ぶぞ。
「つーか『おかえり』の次にそれかよ。昼の分は冷蔵庫に入れておいただろ」
「お昼に食べた。でも今はお腹が空いたの」
昨日の夕食も今日の朝食も、普通かそれより少なめで満足げにしていたように見えたのが。
燃費が悪すぎるのだろうか。
だとすれば、脂肪になる暇もなくその華奢な体型を保持できているのも頷ける。動いてないのに。
「メシの時間はまだだよ。おやつ買ってきたからこれで我慢してくれ」
「……うん。我慢する」
手に提げた買い物袋を見せつけるように持ち上げると、リリアは表情を変えずに頷いた。
手はかかるけど、言うことは聞けるだけいい子なんだよな。
無意識にリリアに亡き影を重ねてしまう、あいつとは大違いだ。
「えっと……ハルくん、この子は?」
……正直、本気で存在を忘れていたまである。
何と言えばいいのだろうか、リリアと話していると、不思議な空間に取り込まれていくような、そんな感覚がするのだ。まるで夢のように。
彼女がリアルに似つかわしくない見てくれをしているからだろうか。真相は闇の中である。
「親戚がしばらく家を空けるってことで、うちで預かることになったんだ。な、リリア」
ラノベから習得した虚無の思考時間を発動し、咄嗟にでっち上げた設定を口にすると、振り返ってリリアに同意を求める。
相変わらず無表情のままの彼女はきょとんとした様子だが、今くらいは空気を読んでほしいと切に願う。
「でも、ハルくん一人暮らしだよね? 大丈夫なの?」
ごもっともな疑問である。
その大丈夫とは、俺の仕事量の増加を心配しているのか、はたまた男の一人暮らしに放り込まれた居候の身を案じているのか。
答え方次第では唯一の友人からの信用を失いかねない。
「心配はない。俺だぞ」
「でも、あちこち怪我してるみたいだし……」
「だから親戚も泣く泣く連れて行くことを諦めたんだよ。でも大丈夫だ、もう大分治りかけだから」
「……そうなんだ。早く治るといいね」
虚無の思考時間が思った以上に上手く働いてくれたおかげか、京花はまたいつものように誤魔化されてくれた。
DVか何かと勘違いされたらたまったもんじゃない。というか一瞬そう思ったでしょ。『でも』って。
ともあれ、事態はいい方向に進んでいる。このままリリアちゃん親戚説を信じさせられれば、第一面はクリアだ。
意外とどうにかなるもんだな、と胸を撫で下ろすと、俺の後ろから出てきた京花は、リリアの方へ歩み寄った。
そして、背丈の低いリリアが着る服を、まじまじと見つめている。
「これ、もしかして私があげた服?」
「……ああ。親戚が預けてきた服、どれもチョイスが微妙でさ。どうせなら可愛い服着せたいだろ。お前ならその辺は信用できるからな」
「そ、そんなことないってば……」
そうは言いつつも、頬を染めてどこか嬉しそうなのが京花だ。
褒めることで、先んじて疑問を封殺する。
素直な京花にはよく効いてくれるので、楽なことこの上ない。
ここまでできたならば、あとは話を切り上げてしまうのが賢い選択である。
「ま、そういうわけだ。立ち話はもういいだろ。とりあえず上がっていけよ」
橘氏の立ち話。なんつって。
「うん。そうするね。お邪魔します」
「せっかくだからお茶でも淹れるよ。リリア、手伝ってくれ」
昔の話ではあるが、京花は何度もこの家に遊びに来ていたから、俺の家の間取りは把握している。
なので、自然な流れで家の中へ通しておいて、京花に見られている間もだんまりだったリリアをこちら側へ手招き寄せ、その耳元で小声で囁いた。
「そういうわけだから、話を合わせてくれよ」
* * *
「で、結局何しに来たの、お前は」
湯呑みと急須の乗ったお盆をテーブルに置いて、まず初めにそう問う。
やはり日本人は緑茶だろう。
俺はコーヒー派だけど。
「え、ええと……なんだっけ……?」
目を逸らしながら誤魔化す京花はどうやらそわそわ落ち着かない様子。
久しぶりとはいえ、家の中はどこも変わってないはずだ。
長年使っていた掛け時計が壊れたから交換したりはしたけれど、そう見回しても物珍しいものはないだろうに。
「何も用がないならそれでもいいけど、俺から提供できる話題は特にないからな」
「だっ大丈夫、私に任せて」
大丈夫なのかな。
どうしてそんなに慌ただしいのだろうか。お茶の中に何かまずいものでも紛れ込んだか?
でも、まだ一口も口をつけていないよな。そもそもたった今湯呑みに注いでいる最中だし。
「えー……そうだ! リリアちゃん、だっけ? のお話とか?」
「聞いたところで面白いようなことはないと思うぞ」
「それでもいいよ、ただ、せっかくだからお話くらいはしたいなあって」
初対面の人と『会話がしたい』と思えるのが彼女の性格の見習うべきところだ。
俺だったら極力話さないで済む道を選ぶからな。
「だ、そうだ。リリア」
呼びかけて振り向くと、ちょうどもう一つのお盆を両手で持ってきたリリアの姿があった。
お盆には大きめの皿が乗っていて、スーパーで買ってきたばかりのクッキー菓子や、手の汚れにくい個別包装のチョコレートなどが盛り付けられている、が。
……こいつつまみ食いしやがったな。こちらへ来て座るまでの我慢はできなかったらしい。
せめてすました顔をして口をもぐもぐするのはやめろ、隠すくらいの努力はしような。
「……まあいいや、リリア、ありがとな。座っていいよ」
言うと、リリアはテーブルにお菓子の皿を置き、お盆を適当な場所によけてから、俺の座るソファのすぐ横にちょこんと腰かけた。
それからすかさず、目の前のクッキーを手に取り、ぱく。
客人を前にしてもこいつ一切遠慮ねえな。
「自己紹介とか、した方がいいよね?」
小動物めいたリリアの動作に微笑みを浮かべつつ、京花は話を切り出す。
リリアも京花に対して反応は薄かったが、応じてはくれそうな様子で彼女の目に真っ直ぐ視線を合わせた。口はクッキーを咀嚼するために動かしたまま。
「橘京花です。ハルくんの、というか、悠久くんの……」
そこで一旦言い淀んだ京花はこちらに目を移して、
「ハルくんの……なんだろう? 彼女ではないけど、友達、というか……」
どうしてそこでやめるんだそこで。もう少し頑張ってみろよ。
俺は友達だと思ってたのに。泣くぞ。
「友達で合ってる。付け加えるならクラスメイトで、幼稚園の頃からの幼馴染みだ」
「そ、そんな感じ! だから、よろしくね?」
そう言って京花は柔らかく笑みを浮かべるが、対するリリアの方は。
「……」
うっわ。
一言で言ってめっちゃ不愛想。でももぐもぐはやめない。
と言っても、昨日初めて会った時もこうだった気がする。言わばこれがリリアのデフォルトなのだ。
俺、一日で懐かれ過ぎじゃないですかね。
不思議少女に懐かれる特性でも持っているのだろうか。ラノベ主人公かな?
「ほら、リリア。お前も自己紹介」
仕方なく、俺が割って入る。
苦手なことの欄に友達作りと書けそうな俺でさえ自己紹介程度ならできるというのに。
むしろ自分語りが好きすぎて初対面で引かれる自信があるね。
友達のいない理由が垣間見えた気がした。
「……、」
主の絶対命令権を受けたリリアは、ごくん、と口の中のものを飲み込んでから、俺と初めて顔を合わせた時のように、座ったまま深々と頭を下げた。
唐突すぎて京花もビビっている。俺もビビったわ。
そして、顔を上げると、
「リリアです。よろしく」
一言だけ、透き通った声がそう告げた。
……いや、本当にそれだけかよ。他にないのか。
なんて思ってたら、リリアはこれ以上何も言うまいといった様子で視線を外し、今度は皿からチョコレートを手に取った。自由がすぎる。
対面の京花は、少々困惑しつつも、対話を諦めた様子ではなかった。
俺だったらもうここで会話が途切れて気まずくなるんだけどな。
さすがはクラスの人気者なだけある。
「リリアちゃんの好きなことって何かな? 趣味っていうか」
「特にない」
「じゃあ、好きな食べ物とかは? 私、料理得意なんだ」
「特にない。何でも食べる」
「へえ~。でも痩せてるし、綺麗だよね。何か気にかけてることとかあったり?」
「何も」
「うーん、生まれつきそういう体質なのかな。顔も可愛いし、羨ましいな」
「すぐお腹空くから私は好きじゃない」
「……」
「……」
「うーん……そうだ、ところで今年で何歳になるの? 中学生くらい?」
「十七」
「わーお……」
「……」
「……」
何ということでしょう。あの京花さんが苦戦していらっしゃる。
リリアもリリアだ、自分本位で答えすぎではないか。
しかも簡潔。国語のテストじゃないんだから。
京花が何度も話題を広げられそうなパスを出しているのに、その悉くをスルーするどころか全力でオウンゴールする勢いであらぬ方向へ蹴っている。
こいつ絶対友達できないタイプだ。多分俺以下。
「えーっと、うーんと……」
京花もここまで素っ気なくされてよく諦めないものだ。
俺だったら既に心折れてる。
というか京花に比べて俺のスペック低すぎるだろ。
「じゃ、じゃあ……ハルくんのことはどう思ってるの?」
「おい」
深慮熟考の末、京花が導き出した質問に自分の名前が入っていたので、つい突っ込んでしまう。
初対面の相手と対話を試みる際、お互いの知る共通の人物の話題を挙げるという考え自体は間違ってはいないのだが……どう思ってるとは何だ。漠然としすぎている。
だが、答えも気になってしまうのが悔しい。
リリアがここに来た理由を引き出すためにも、ある程度の好感度は必要なのだから。
「……」
すると、ここで初めて、リリアは質問に対して沈黙した。
ノータイムで即答していた先ほどまでが異常だと言われればそれまでだが。
虚無の思考時間をコピーされたのかと疑ったくらいだ。
「……悠久は」
ようやく口を開いたリリアは、真っ直ぐ京花の目を見つめ直して。
ゆっくりと、その続きを紡いだ。
「ご飯を作ってくれるから、好き。私の面倒を見てくれるから、好き。あと、すごいから、好き」
さっきまでの質問に対する返答の三倍はありそうな文章量を用いて、そう回答したのだった。
これを聞いた時の京花の表情は、見たことがないような珍しい類のもので面白いと思ったが。
そんなことより、照れ臭いからやめてほしかった。
* * *
リリアちゃん