二、うつくしい世界:砥親の巻
二階と三階の客室入口は回廊になっており、食堂から見える作りにした。
防犯的見地からもいいし、そうする事で食堂の天井を高く取り、採光も風通しも良好になる。
二階・三階の部屋は入り口が食堂から丸見えで、客のプライバシーがないのは前時代的かも知れない。とはいえこの宿に宿泊客は滅多におらず、今も全室空室だ。プライバシーが欲しいという客は四階の一等客室に案内すればいい。
3部屋ずつある各階と違って、四階にはフロアぶち抜きの一等客室、一部屋しかない。
居住棟の一つに専用の階段を設け、四階には、外からの非常階段か専用階段からしか行けない。
キングサイズのベッドを二つ並べたメインベッドルームと使用人用のサブベッドルーム、広いメインルームと簡易書斎。風呂トイレ・簡易キッチンもついて、屋上も自由に使える。三枝生命技術研究所から融資を受ける際、融資条件に盛り込まれていたのが、各支部を巡回する三枝所長の宿泊施設として、この部屋を作る事だった。三枝所長は年に数回、決まった時期にしか来ない方なので、それ以外のシーズンは勿論商業利用して構わない。維持費がかかるからお値段は他の部屋の5倍以上だが、蓮李=大飛は迷わずそこを選んだ。
「大物を連れて来たね」
蓮李=大飛を一等客室に送り、食堂に戻ると、アコラが静かに声をかけてきた。
窓際席で赤子をあやして揺れながら、はしゃぎ疲れたのか少し気だるそうにしている妻は、理想を額縁に閉じ込めた絵画のように、たいらかな美しさがあった。
「え、なんだって?」
だから一瞬、砥親は妻の言葉をとらえ損ねた。妻に、見とれていた。
「どえらいのを捕まえて来たって言ったの」
アコラがクッと目で上をさす。一等客室。
「ああ。蓮李先生。そうだね、いきなり一番いい部屋で頼みますとか、気っ風のいい方だ」
「違うよ。いや違わないかな?」
「どういう事?」
だるそうではあるが機嫌は良さそうな妻に内心ホッとして、ホッとした事に違和感を抱きながら、砥親は彼女の向かいの椅子を引いた。
さっきまで妻と談笑していた男が座っていた席だ。尻がなまぬるい。
「うーんとね。あのパーティは、冒険者の間じゃちょっと名の知れた人たちだから。四階の、一等客室に泊まるのも当然なの」
砥親は安堵したばかりの心が、またぞろ騒ぎ出す音を聞いた。
アコラが冒険者の話をしだすと思い出すのだ。”あなたは知らないだろうけど”と言われた心地だった、あの日を。アコラは凛の寝顔に見とれて、こちらの動揺には関心がない。
そういえば、さっきからアコラは砥親を見ていない。
「名前聞いたときは同姓同名の別人かと思ったけど。あの金遣いも、きみ仁くんの動きも見たらね、うわ本物だ! って。
冒険者ってギルドに収めた金でランク付けされて、上位数十パーティは世界中のギルド支所で晒されるんだけど、あのパーティは結成当初からずっと上位ランカーなんだ。殿堂入りしちゃって今はもう名前も出て来ない、いわゆる裏ランカーなんだよ。ちょー稼いでる! まぁあの調子じゃちょー使ってそーだから金持ちとは違う気もするけど。
で、その結成当初っていつだと思」
「お金の話、やめない?」
話を遮られて初めて、アコラは砥親を見た。
アコラの目はまん丸で、不思議な生き物を見る目だった。少しだけ、砥親の溜飲が下がる。
「ひとんちの金銭事情とかさ、アコラってたまに下品だよ。しかも相手お客様だし」
言って目を逸らした。やってしまった、と思った。自分の動揺を妻を非難する形でぶつけた。最低だ。
当然、周囲の気温が下がる。
不意にアコラが立ち上がった。抑えた声が砥親の上から降ってくる。
「……冒険者が上品な生き物なわけねぇじゃん。上納金でランク付けて晒す世界の生き物だぞ」
砥親は目の奥で何かが弾けたのを感じた。まるで、あんたはぬるい魔物除けの中しか知らない人間だもんな、と、排斥されている気分だ。妻を睨み返すように顔を上げる。
「アコラはもう冒険者じゃ」
ないでしょ、とは言い切れなかった。
見上げたアコラの目にはなんの感情もなく、まるでこれから殺す獲物を検分する、皮剥職人のようだったからだ。
砥親は息を飲んで俯いた。しまった、地雷を踏み抜いた。
娘をあやして小さく揺れ始めたアコラの気配が、なにか祟りのような、不気味なものに感じられた。
「……そうだねー、私はもう冒険者じゃないねー……仲間がみぃんな死んじゃったもんねー……あんたが大好きな技研がくれた割のいーい依頼こなして、下品なギルドの下品な上位ランカー目指して走ってる最中にねー……」
砥親は自分の愚を後悔して、「すまなかった」と絞り出した。
アコラは、冒険者に未練がある。
研究者が市場で手に入らない物資を冒険者に調達依頼するのはよくある事で、そうした依頼をクエストとして冒険者に紹介するのも、冒険者ギルドの役割だ。そうして流通の仲介を握る事で世界に根を張り、魔物と戦える冒険者を何千人と抱え込むことで戦力とし、土地を持たない国家と言われるほど巨大な影響力を持つようになったのが、冒険者ギルドだ。
クエストをこなせば、依頼者からの成功報酬の一部がギルドに入る。アコラがピンハネとか上納金とか呼ぶシステムだが、数々のクエストを完遂して上納金上位ランカーになり、世界中の冒険者酒場で名を晒されるという事は、冒険者ギルドという世界規模の大舞台で、有能さを誇示できるという事だ。すると、ギルドを介さなくても直接依頼が舞い込む。
舞い込むなんてものじゃない、殺到する。そうすれば、ギルドの運営側として迎え入れられることも、スペシャリストとして国の保護を受けることも、本を出して後続を励ますこともできる。
貧しい生まれで路上に生きた仲間と結成したアコラのパーティは、その太陽のような輝きを目指し、灼け落ちた。
彼らはよく技研に出入りするパーティの一つだった。砥親は遠巻きに眺めずにはいられなかった。構成員が自分と同じ年頃の若者ばかりなのに、この街に命を吹き込んだとも言える技研に頼りにされる彼らは、特別素晴らしいものに思えたのだ。
「やだ。謝んないでよ。別に。事実じゃん。全部。
下品な世界の生き物が、お上品な世界の生き物に、はは、所定の紙の所定の欄に名前書かれただけのうすっぺらぁい婚姻証書発行されたくらいでぱっと変われたらラクでいいよね。上品な世界の生き物って、あんなんただの紙とインク染みとか、言わない生き物なんでしょ? いいよね」
アコラはおもむろに、砥親に向かって凛を突き出した。
砥親は反射的に受け取った。ほんの数日家を空けただけのつもりが、命まるごとの重みは、以前抱えた時よりずっと重くなっていた。少しだけ焦る。
凛が居心地悪そうに顔をしかめたので、砥親は慌てて正しい持ち方に持ち直す。
その間に、アコラは食堂から外に出て行く。
砥親は驚き、娘を起こさない音量で「ちょっと」と呼び止めた。
「アコラ、どこに」
「技研。紙オムツ買わなきゃ」
確かに三枝生命技術研究所の売店では、最新の、使い捨てできる便利なオムツが売っている。しかし夜明け前の今は勿論開いていない。
「え? は? オムツ? 予備ないの?」
凛を揺らしすぎないように細心の注意を払いながら、砥親は小走りにアコラの元へ駆けた。このまま預けられてもどうしていいかわからないし、何より自分は夜通し硬い馬車に揺られて疲れ、ひと眠りしたい。
「予備はあるけど小さくなってきてる。蓮李=大飛パーティしか客はいない。明後日は八百屋の支払い日。そんでサラちゃんの給料日。宿代はチェックアウトの時しか入らない」
アコラは追ってくる砥親を撃ち落とすように小声で並べ立てた。サラちゃん、は、料理人として雇っている少女の事だ。
アコラが真顔で振り向いた。いっそ誠実さを感じるくらいまっすぐに、砥親の目を見てくる。
「ひとっぱ技研の使いっぱして稼いでくる。あそこはもうすぐ所長が来るのに、最近実験動物が脱走したから。支所長サンが血眼になって探してるはず。仕事が貰えるかも知れない」
所長が来るなら四階は空けとかなきゃなかったんじゃ、とか、まだ所長が来る時期じゃなくないかとか、実験動物が逃げたってどういう事、とか、つっこみたい事が一度に出てきて、砥親はどれから口にしたらいいかわからなかった。
「砥親くんさ、今まで何日ウチ空けて何組客呼んだか、計算しよう。
今回釣って来たのが蓮李=大飛だったから良かったし、今回はさ、四階埋まんなきゃ三枝所長泊めても良かったけどさ、これどっちもタナボタなんだわ。三枝所長、いきなり来る事になったんだわ。なんでか知んないけど……ああ、”あくまで定期巡回で使うのが条件だったから今回の突然の宿泊には対応できかねますが契約違反ではありませんよね”て言って来ないと。言質とハンコもらわねーと」
「待て待て待って、え? つまり何? 金が足りないの? オムツ代がないの? 布オムツじゃだめなの? つーか俺帰ったばっかで眠いんだけど」
「ねぇのはオムツ代じゃなくて経営者のオツムじゃね」
明らかに小馬鹿にするように、アコラはふふっと笑った。その顔が実に楽しそうで、美しく、しかし落ち窪んだ目元のくまが狂気めいていて、砥親は腹を立てる前に怯んだ。
彼女は、魔物相手に命のとった張ったをしてきた人物なのだ。
「布オムツは誰が洗うの? なんで自分が眠いのだけ尊重してもらえると思ってんの? ワンオペ育児させといてよく言えたよね。あんたは金の稼ぎ方が効率悪いから今回寝られなかったってだけじゃん、自業自得じゃん、あのさこれ言っていいか悩んだんだけどさ」
アコラが凛と砥親の腕の間に、数枚の紙束を挟み込んで来た。なに、と迷惑そうな声を上げると、
「ウチの貸借対照表と損益計算書とキャッシュフロー計算書。あとギルドから取り寄せた、私の現役時代の収入証明書。
言っていいか悩んだけど言うわ」
砥親は耳を塞ぎたかったが、両手は既に娘に塞がれている。
「私がクエストこなした方がウチは稼げる」
砥親は大声で叫び出したくなった。
そうしなかったのは、凛が(この状況で)(すやすやと)眠っているからと、早朝でご近所にご迷惑だろうという、理性が働いたからだ。
玄関先でこんなことをしていたら、退屈な街の早起き連中には聞き耳を立てられていそうだが。
アコラは決然と宣言した。
「私は、お金を持ってこなきゃならない。
もう冒険者じゃない。
凛のお母さんだから」