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二、うつくしい世界:セリアの巻

セリアより二本も多い脚で、犬が追って来る。

街の住人がそれを一瞥して、またすぐ日常に戻っていった。

セリアに出来るのは、彼らにない両手を使って、手近なものを引き倒し、投げつけ、障害物を作って逃げる事だけだ。早朝の住宅街に、騒音が響く。

頭の隅では警鐘が鳴る。目の端に街の門が小さくなってゆくのが見える。あの門から、離れてはいけない――けれど今は構ってはいられない。

犬の後から人間が追って来る。白衣の、不可思議な言葉を喋る大人達だ。彼らには、セリアの言語は通じない。犬よりも彼ら人間の方が、障害物に阻まれてくれるのは幸いだった。

しかし人間との距離はあいても、犬との距離はそう変わらない。

かしかしかしかしいう爪音と、うぉんという威嚇が、遠ざけても遠ざけても結局一定の音量のところまで迫る。


少し離れた窓越しに、恰幅のいい中年女性と目が合う。丸い頬のラインが優しそうで、どこか母親を思い出す。セリアはその目を見つめた。勝手に期待がこみ上げる。するだけ無駄なのに。やめろ、無駄だ、絶対に無駄だ、それなのに喉から溢れる。


「助けて!」


女性は慌てて窓を閉めた。


ばん、音がセリアの胸郭にこだまする。

木製の窓を閉じれば部屋は暗くなるのに。

光を遮ってでも、セリアは見ない方がいいという事だ。

落胆が全身を走るが、構ってはいられない。足がもつれそうになるが、立て直す。乾ききった喉で叫んだせいか、喉の奥から血の匂いがこみ上げる。よぎる悲しみは知らない。逃げなければ。

こんな事はこの三日、いくらでもあった。彼女達、白衣でない人間にもセリアの言葉は通じない。


(かみさま、かみさま!!)


渾身で祈った。祈りながら走った。

『門の外にはね、たくさんの神様がいるの。パパとママは駆け落ちだったから、頼れる人がいなくて怖くなった時は、いつも神様に祈った。そうして……ここまで来られた。セリアに会えたの』

母はよく言ったものだ。

セリアは門の向こうの世界に行かなければならない。そこで、セリアをひとりぼっちにしない神様を探すのだ。そして願う「パパを——」


足の裏が擦り切れて熱いのか痛いのかわからない。犬は裸足でも足が痛まないのに、ずるい。胸の辺りが爆発しそうだ。息が苦しい。

セリアは家々の間を縫って、細い道を進んだ。犬には通れても、白衣の大人には通れない道だ。壁に立てかけてあった箒を倒し、薪の山からは何本か後ろに投げつけた。何本かは命中した。途中何度か、梯子を掴んで力任せに引いた。軽いものは音を立てて倒れたけれど、大きいものはびくともしなかった。手に棘状の木片が刺さった。

そうしてどれくらい走っただろう。視界が霞んで、脳がぐらりと揺れた気がした。もうダメかも知れない。

もう息が出来ない。

「!」

道を曲がって、セリアは踏鞴(たたら)を踏んだ。

そこは一晩を過ごしたゴミ捨て場だった。ゴミ捨て場の先に、道はない。

考えるより早く、セリアは動いた。麻袋でできた、ゴミ山に隠れるのだ。自分ひとり隠せるくらいには、麻袋は山と積まれている。

麻袋を掴んだとき、おん! と犬の声がした。肩が反射的に跳ね上がる。近い!

後ろを振り返った時には、とびかかられていた。

反射的に、手中の麻袋を振り回す。犬の顔面に当たる。反動でセリアも尻もちをつく。

『何してる! 足を潰せ! 足だ!』

道の入口、犬の後ろに、白衣が見えた。何を言ったのかはわからないが、GO! という合図の意味はわかった。犬が再度襲ってきたからだ。

殴ろうと振り回した腕はかわされた。すっと腹が冷える。

(かみさま!)

母親の顔がまな裏に浮いた瞬間、真っ赤に塗りつぶされた。犬歯が腕に食い込んだのだ。

「ぎゃあああああ!」

 セリアのあげた悲鳴は、白衣の大人とかぶった。混乱して目を開ける。犬が、驚いたのかセリアの肉を噛みちぎる前に腕を放し、振り返る。セリアは反射的に足を振り回した。遠心力にのって、つま先が犬の腹に命中した。ぎゃうんと犬が後ろに転がる。セリアは咳をしながら立ち上がった。ひどい立ちくらみの中で麻袋を持ち上げ、犬に投げつける。犬は逃れるように距離をあけたが、麻袋からは中身が躍り出て犬に降る。いくらかゴミをかぶったまま、犬が唸りながらセリアを遠巻く。蹴りがいいところに入ったのか、すぐに飛びかかる様子もない。胸も足も腕も痛くて涙が滲むが、セリアは犬と睨み合った。

窮鼠がひるめば末路はひとつだ。

「えっ」

知らない声が聞こえて、セリアは心臓が止まるかと思ったが、犬から注意を逸らす余裕はなかった。涙と眩暈で視界ははっきりしないが、犬の向こうで、何者かが白衣の首を片手で掴み、持ち上げていた。

「女の子……?」と何者かが呟く。

セリアは目を見開いた。知らない声は妙にがらがらしていて怖かったが、彼が話したのはセリアの知っている言葉だったからだ。

増えた追手は白衣でなく、ぼろぼろの汚いフード付きコートを纏っていた。足元が三角形に広がった、妙な格好の人間だった。一瞬、呆気にとられた。

その隙に犬がとびかかる。

セリアは反射的に一歩さがった。足を滑らせ再び尻もちをつく。それがうまく犬をよける形となる。犬が頭からゴミ山に突っ込んだ。

「待って、待ちなさい、Stay!」

がらがら声がセリアか犬かに命じたが、セリアは既に走り出していた。犬が追ってこようとした(てい)のまま、立ち止まった気配を背中に感じた。

締め上げられている白衣は足が地についていない。彼らの方に向かって走り、すれ違いざま、新手の追手を蹴とばそうとした。

それが軽々かわされ、セリアは一瞬体勢を崩す。何か仕掛けて来るかと、咄嗟に上を振り仰いだ。フードに隠れていた顔が見え、視線がかち合う。

ひっ、とセリアは悲鳴を飲み込んで、一目散に逃げ出した。

冷や汗がぶわりと溢れる。

最悪な事になった。

新たな追手は、顔をぐるぐる巻きにしたミイラの化物だったのだ。


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