三の結び:セリアの巻 ひかりのささない井戸のそこ
はっとセリアが目を覚ましたのは、いい匂いがしたからだ。
夕飯どき、厨房から漂ってきた匂いだ。
(たべるものの匂いだ!)
そう思う前に、体は勝手に動いていた。
セリアを覆っていたふかふかしたものをはねのける。世界は夜。辺りが暗い。好都合だ。
夜はセリアをかくす、セリアの味方、立ち上がろうとする。
「ぢぁあ!」
潰されるマウスの声をあげて、世界が反転した。
布が裂ける音がして、夜はひっくり返って皓々(こうこう)と、セリアに手のひらを返す。
腕に痛みが走り、皮一枚が裂ける感触がして、ごががばしゃあんと音を立てて何かが倒れた。
足裏の土が想定よりうんとへこんで、どころか土じゃなく、更に膝にはうまく力が入らず、セリアはバランスをとり損ねたのだ。
何かから転がり落ちる時、そこにあったやわい布を掴んだのは反射だった。
安堵を刺し殺す光に体が反応して、目蓋を閉じる。そうやって白くてあたたかいそいつを追い出そうと努める。
走り寄る足音が聞こえた。
(ひとがいる!)
セリアはふかふかをはねのけたように目蓋をかっ開く。時を同じくして、光が少しだけ、猛攻を緩めてくれたのを感じた。影がさしたのだ。
きつく閉じすぎていたのか、眼圧で視界がぼやけている。
『うぇーびっくりしたセリアちゃん? 起きたの大丈ひぇあ』
のばされる手を払いのける。腕が重い。肩が熱く痛む。
結ばない像を睨み上げる。光に目が痛んだ。
だけど、こちらは引くわけにはいかない。
『うっやばい本人を前に手負いの獣感がかわ……いやいや失礼、怪しいものじゃなくってあ通じてないんだっけえ、ほんとに?』
視界が像を結ぶ。
知らない大人が屈みこんでいて、片手に、たべるものの匂いを放つ皿をのせていた。
それを認識した途端、セリアは皿に向かって飛びかかっ、ろうとして、やっぱり膝に力が入らなかったうえ、下敷きになっていた布が滑って、体勢を崩した。そして気づく。
(ここ土じゃない! 床!?)
正確にはカーペットだ。どうりで何かから落ちたわりに、大して痛くなかったわけだ。
顔がカーペットに突っ込む直前、大人が片腕を滑り込ませて、セリアを支えた。
(捕まった!)
ざぁっと背骨を真っ赤なアラート文字が走った気がした。
気がした時には、肩が壊れんばかりに、両腕を振り回していた。
「はなせ、ぶっころすぞ!!!」
『あっ♡ 落ち着いて奥さん、積極てぶっ』
振り回した拳が大人の顔面にまともヒットして、大人の腕の力が緩む。
べしゃんと音がして、逃げ出たセリアの行く手に、たべるものの匂いが降ってきた。
セリアはそれが何と認識する前に、掴めるだけ掴んで口に入れる。
あたたかく、懐かしい、炒めた野菜の味と、香辛料のかおり、卵焼きとひき肉の食感が口中に広がる。
(たべものだ)
一瞬気が緩みそうになって、慌てて熱線が進む速さで大人に目を向ければ、尻もちをついた間抜けな姿勢の間抜けな顔でこちらを見るだけで、反撃してくる様子はない。
セリアはなるべく大人から目を離さないように、床の食べ物を手探りで掴み、口に入れ続けた。
大人は間抜けな顔から死期を悟った実験動物の顔まで表情を変えたけれど、ついにセリアの手が食べ物を見つけられなくなるまで、そこから動かなかった。
『点滴してたからお腹減んないと思ったけど、そうでもないの?』
大人が意味不明の言語で、とても静かに何か言った。
と同時に、セリアは強烈な吐き気を感じた。
セリアが口を押さえると、大人の肩がはねる。
床に吐瀉する一瞬前に、食べ物の乗っていた皿がセリアの目の前に差し出された。皿は少し深く、食べ物の匂いが残っていて、それが無用に嘔吐欲求を突く。
『そらねー、空きっ腹にいきなり固形物ぶちこんだらねー』
大人は何か言いながら、吐き戻すセリアの背中を撫でてくれた。
セリアはその手のひらが、大きく、あたたかく、馴染み深い事に気づいた。
船酔いした時にセリアをさすってくれた、父の手に似ているんだ。
そして思い出した。
(そうだ。セリは)
かみさまに拾われて、助かったと思ったんだった。
嘔吐の反射で出てきた涙は、吐ききったセリアに大人が水を持ってきてくれたあとも、しばらく止まらなかった。




