三、見不(みず)のなまえ:讚良子の巻
空には月が、一階の食堂からは談笑が昇って、賑やかだ。
きみ仁は廊下の窓から腕を突き出した。月光に晒されたところから、皮膚の生傷が消える。爪半月が、月と同じ黄金色にほの光った。
ああ疲れてるな、と思う。人間の血が、月の眷属の血に負けている。
さっきは蓮李にうっかり本音の方を伝えてしまったし、そもそももう眠い。
それでも、明日のためには足を治さなければならない。
窓の外には街を囲む垣と、垣を境に広がる荒野、灯篭に浮かび上がる家々が見えた。練り石の白い壁が、灯篭の色によってとりどりに染まっている。ステンドグラス越しの光のように、幻想的な風合いだった。
眠たかった目が覚めた。
これは夜景を見に出たい。
高い所から街の全景を見下ろせば、さぞ幻想的だろう。
(あとでレンにも伝えないと)
廊下の突き当たりのこの窓だけは、技研の建物が見えない。代わりに、垣に程近いため、窓から見える家も少ない。
身を乗り出せばもう少し色々な建物が見えるかも知れないが……。
きみ仁はおもむろに腕を引く。廊下に灯された灯りの下で、傷痕が復古する。
(観光に来てんじゃ、ない)
それどころか、街を機能不全にする可能性だって持ってきている。
雪駄を脱いで窓の桟によじ登り、右足を屋根の下に突き出す。足指の爪半月もぼんやりと輝く。足首の腫れから赤みが消えるが、丸呑みした獲物の消化を待つ蛇腹の腫れだけは引かなかった。
そらそうか、と思いながら、朗々と唱える。
遠く天なる精奇城
火影にかくれし月詠む彼方
神と成らざる下民ば
見ヱざる勇吹で憐れみ給へ
永遠ならざる命の謂れ
纔一向地を這う刻の
為書き刻むものがたり
目敏くあれるはきみの恩恵
遠隠ることなかりけれ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
**
果瀬讃良は、懐かしい詠に出たばかりの食堂を振り返った。
アコラの食堂は広く、今日も見知った顔で満員だ。
讚良はこの食堂のコックだが、手が空いていれば給仕もするし、常連の見送りにドアアテンドだってする。今も、酔っ払った客のケツを蹴って飯代むしって追い出したところだ(この店のドアアテンドは9割そういう事だった)。
讚良が賑やかな店内に戻ると、途端に詠はかき消える。この中に詠い手はいないようだ。
「サラ? 忘れ物かい?」
六つもジョッキを持ったアコラが問いかけてきた。なんでもない、ちょっと息抜きさして! と笑ってすぐさま外に出る。胸が焦げつくような、愛おしさを感じる。
詠はそう長くない。終わってしまうかも知れない。
(まさかこんなところで、またこの詠が聞けるなんて)
急く心音を抑えるように、慎重に音の出処を探る。耳を澄ますのではない。目を凝らす。
月光でしか見えない世界を見る。
詠は、独特の呼吸法で唱えられる。夜空を見れば、微細に星が震えて見える。呼吸法が世界に干渉して、空気を揺らす結果だ。
どこが震源か。
讃良は消えそうな煙をたどるように、ふらふらと宿の裏手にまわった。
と、白い足が窓から突き出ていた。
娼婦が客を引く時にたまに見た光景だが、そんな高いところでやっても誰も釣れない。そもそも説教したくなるほど色気がない。足首が腫れて野ネズミ消化中の蛇のようだし、爪先を伸ばして足を美しく見せるという、簡単な努力をしていない。
気を取り直して見てみれば、詠は、その窓から聞こえていた。見失いそうに幽かに、波紋が拡がるように星がぶれてまたたく。
誰だろう。
讃良は知りたくてたまらなくなった。
この詠を知っているなら、間違いなく同郷だ。
とん、とん、と心が跳ねる。
迎えが来たのだろうか。故郷に平和が戻ったのだろうか。技研は何も言って来なかった。(否。技研がそこまで気の利いた報告をしてくれようはずもない)
それとも刺客か。
四階。そういえばアコラがこっそり自慢していた。あの階に大物が来ていると。
窓の中を見ようと、隣家の壁までじりじり後退する。
自分からは見えても、相手に見つかってはならない。刺客だったらどうしようもない。
と、雲もないのに月が翳った。次の瞬間、眩くひかる。光は一瞬。そして月から足に、ちらちらした光が降り注ぐ。ふよふよ、ひらひら、雪片のように白くまたたきながら、光は足首に群がった。
ひとに近づけば近づくほどに、光は白から、血のような紅に変わり、結晶のような塊を成す。
(月光治療! こんな事できる人、まさか、でも、こんな事できる人は‼︎)
胃をぱぁんとはじかれたような衝撃と、散った胃酸が子宮を焦がすような切なさに襲われる。
月光治療。月詠神による癒しを受けられるひとは、世界に二人しかいない。同郷の、東道の総本山の中でも、月詠の子の直系といわれる一族の、さらに限られた特殊な力を持ったひと。
背が隣家の壁に当たった。距離が足りず、中は見えない。詠はやんでいた。声は聞こえない。
けれども間違いようがない。二人のうちひとりは、東道の総本山から動けない。
「………猊下!」
一も二もなく、叫んでいた。
**
きみ仁は驚いた拍子に後ろに落ちた。
反射で受け身をとったが、窓は存外高かった。頭を打った。明日はムチウチ決定だ。ムチウチは筋肉の正常な反応だから、浄化ではどうにもならない。しかも今すぐなるものでもないから、月光治療できるタイミングでもない。治療に来て怪我を増やしたら蓮李は指をさして嗤うだろう。
そんな事よりも、と、素早く起き上がって、身を隠しながら窓の外を窺い見る。さいわい、灯篭のおかげでこちらから窓下はよく見えた。
昼間会ったサラだった。
きみ仁はやっちまったと片手で顔を覆った。
(昼は、きづかれなかったのに)
顔が腫れまくって原型を留めていないのもほんのたまになら悪くない、と、あの時は思ったのに。
「猊下! 猊下、猊下でいらっしゃいますよね!」
一つ一つの音が、釘になってきみ仁の心臓を刺す。釘は一瞬で錆びて、心臓は毒を血と一緒に全身にまわす。
治療に来て傷つくとは、ますます蓮李に笑われるだろう。
「……猊下、猊下! 我は初瀬部にございます、あなたの隊の、旗持ちのむす」
きみ仁は気付いた時には、飛び降りてサラの口を塞いでいた。
月光のもと、きみ仁に昼間あった傷はない。
おそらく昼とは別人に見えるだろう。
別人に見えなかったとして、猊下猊下言い続けられるよりは良い。
目が合った。
月が少女を照らす。
昼、全裸で寝ていた姿を見た時はきみ仁だって気付かなかった。
彼女にはもう、複雑に結って油をのせた長い髪も、なだらかにふくらんだ体も、まろい眉も唇の紅も丹念に塗った歯黒もない。
けれど精悍な顔立ちと凛々しい目が、共に戦場を駆けた父君によく似ている。
豪快な笑い方と、粗っぽい所作が、昔と全く変わらない。
果瀬は、初瀬部の隔り名だ。身分と自分を、かくすのに使う。
きみ仁に片膝をつかせた感情が、郷愁か慣習か謝罪か、自分では判断できなかった。ただ、こうしたいからするのだということは、深く細胞に沁みるようにわかっていた。右足が警鐘のようにびりびりと鳴いた。
構わず深く、ふかく頭を垂れる。
「初瀬部、讃良子比売さま」
少女が息を飲んだ気配が、耳に届く。
目裏が熱く痛む。
最後に彼女の父親と別れた時の光景が、フラッシュバックした。
怒号、悲鳴、硝煙の匂い、矢の風切り音。集まってくれた人々が、生き残ろうと出口に殺到し、将棋倒しになる。そこに哄笑が響いて
………………………………………………………………………きみ仁は、封じるように目を閉じた。
「讃良子比売さま。よくぞ、……よくぞ。ご無事であらせられました……!」
声がかすれた。
どうにでもなれと思った。
さいわい、笑ってひとを欺くのには慣れている。




