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二、うつくしい世界:セリアの巻 2-い

倒れるセリアを、通行人が流し見て走り去った。物語の最初と最後だけを確認して、本を閉じるよう。気になるけれども、時間は取られたくない。

傘を持たないから、家路を急いでいるのかも知れない。

(これなら研究所に通報されなくて済む)

特に隠れてはいないから、きっとセリアが気づいているより多くの人が、こうして通り過ぎている。住宅と住宅の間、それほど狭くもない路地の端から、太めの通りに頭だけ出して、セリアはうつ伏せていた。

どれくらい時間が経っただろう。少し前に降り出した雨が、確信を持って体温を削ぐ。

今にも倒れそうな家々に挟まれて、セリアは伏せた姿勢を後悔した。仰向いていれば、口を開けて雨水を飲めたかも知れないのに。

一晩を、ゴミ捨て場にいたのは失敗だった。足の傷口の内側、皮膚の下でウジが這い回って痛む。初日に作った傷口に、ハエが卵を産み付けていたのだ。それが孵化した。痛みはどんどん増してきて、もう歩けそうもなかった。

(体内で異物が生きてる……。やっぱり私に浄化能力は芽生えなかったんだ。全部無駄だった)

ぬかるんでゆく路上で、そんな事を考えた。

ぽつんぽつんと、火が灯るように、過去の出来事が思い出される。

浄化植物が持つ浄化能力を、人間に移植する。その為にセリア達一家は海を渡った。潮の匂い、水平線上で混ざる空と海、颯爽とよぎる風、人懐こいカモメ。移動の途上で船に乗った時の興奮が、セリアの一番最初の記憶だ。父がカモメの餌を買ってくれて、セリアはそれを疲れるまで空に撒いた。

ジーニア。知能に秀でたデザインドチャイルド。学生結婚を反対されて駆け落ちした両親は、三枝生命技術研究所との養子デザイン契約に同意する事で、夢だった研究職と契約金を手に入れた。両親にとってセリアは理想の運び手だった。セリアはそれが誇らしかった。

父は研究所の所長だった。

セリアはカモメの餌のお礼に、研究所に着いてからは熱心に手伝いをした。ビーカーを熱したり、フラスコを片付けたり。雑用しかやらせてもらえなかったけれど、何回か「ありがとう」を貰えた事がある。

(ままごとだったな。幸せなままごと)

「浄化能力があれば、お母さんは助かった。研究は間に合わなかった」

浄化能力を持つ古代人種は実在する。人間に都合よく、原子にまで介入する能力。彼らは宗教という形で、浄化能力の利益を独占している。彼らが人口の一%にも満たない浄化能力者を外に出さないから、浄化能力をもっと一般に役立てるために、両親の研究はあった。

この地に越して来た翌年に、母はダニの幼虫を媒介とする風土病に罹った。早期に病原体を駆除できれば死ぬ事はなかった。ウイルスや細菌の除去は、浄化能力の得意とするところだ。

無宗教だった両親は、救済の枠に入れなかった。研究段階の浄化能力はメカニズムひとつ解析されておらず、父はこの地に来た事を後悔した。

二年前に母が逝き、父は銷沈した。何ヶ月か仕事を休み、セリアとも口をきかなくなった。仕事に復帰すると、研究員に厳しく当たるようになっていた。「準備が遅い」「備品の扱いが非効率的だ、脳があるなら考えて仕事をしろ」「研究中の私語は慎め、常識はないのか」「満足な研究がしたいなら結果を出せ。予算がとれないぞ」「研究が遅いから死人が出るんだ、俺もお前らも人殺しだ」

次第に小さなミスをヒステリックに怒鳴りつけるようになり、貪欲に結果を求めるようになった。一日の研究時間は延び、一晩中研究室の灯りがついている事も珍しくなくなった。ついて行けなくなった研究員が辞めていった。

手伝いをしていたセリアにはわかっていた。

研究そのもののブレーンは母であったこと。父は、所長として研究所の経営・管理を任されていた。

それは研究に打ち込みたい人間にとっては、雑務も同然だと母は言っていた。

セリアは減った人手を補うために、一層献身的に研究を手伝うようになった。しかし新しく来た研究員は、子供が研究所に出入りする事に難色を示した。

そうして少しずつ、歯車は噛み合わなくなっていって、あの事件が起きた。


あの時初めて、セリアは、セリア以外のジーニアの存在を知った。


研究所での日々を思い返せば、今、手足が自由になっているだけでも十分に思えた。

メス、針、酸、鉗子、ペンチ、焼ごて。そうしたものが自分に突き立てられた日々よりは、鎖のない足で走り回れた分、この数日は恵まれていた。

背が伸びて、ドアノブを回せるようになった。鍵がかかっていなかった。だから出てきた。あの門の外で、神様に会うために。

(でも、パパが探しに来てくれたら帰ってもいい)セリアは本気でそう思う。

(結局来てくれなかった。もうどれくらい会ってないだろう)

忙しいのだ。それだけだ。

(違う。ううん違うっていうのが違う。パパは、……パパはもうセリのこと)

目が熱くなった。

ひとことでいい。ありがとう、と言ってくれれば、セリアは何をされたって、あの研究所で頑張るのに。次に「ありがとう」と言ってくれる日の為に。

ひどい吐き気がする。(でも吐くものもない。パパが来てくれないならどうでもいい)

出歩く人はいなくなった。雨脚が強くなっていた。門が見えない。もう自分が、どこにいるのかもわからない。門の外に出るいきかたがわからない。

そう認識した途端、強烈な安堵感と共に眠気が襲ってきた。吐き気も痛みも薄れ、あらゆる感覚を放棄してもいいような気になった。白衣に見つかったら、と思いながら、セリアは目蓋を下ろした。

うつ伏せられた胸元に、柔らかい風が吹いたような気がした。濡れてへばりつく服への不快感が、消える。初めて感じる開放感だった。見つかったってもうどうしようもないのだから、いいじゃないか、と思った。

もういいじゃないか。

母が寝物語に教えてくれた、月の神様の話を思い出した。戦いに敗れて夜に追放され、寂しさを埋めるために、弟神と競うように、東の浄化種という特別な種族を作った。東の浄化種は死んだら星になり、彼らが生前に見た昼の世界を、月の神様に語って聞かせる。

たったひとりを慰めるために、言葉を尽くして語って聞かせる。

(そういう世界に、行けるといい。そういう風な、優しさが……)

この世界には、「セリア」への関心は、もうどこにもない。たった今、「セリア」は「ジーニア」に完全に淘汰されてしまった。「理想の運び手」ジーニアに、他ならぬ自分が席を譲った、あの事件の日に。

(それももう終わる)

体の力が抜けていく。


「見つけた」


聞き覚えのあるがらがら声がした。セリアは視線だけでそちらを見た。住居の向こうの角に誰かいる。どこで聞いた声かは思い出そうとも思わなかった。どうでも良かった。

どうせまた捨ておかれる。

世界のどこにも、セリアへの関心は……。

しかし、声の主は、右足を引きずって家の陰から現れ、そのまま、片足がなえいでいるとは思えない速さでセリアに近寄って来た。

頭に、四肢に、恐慌が吹き荒れる。ぴりぴりと帯電するように神経が波立つのに、体が動かない。冷えて固まってしまったのか、体力の限界か。


どんなに諦めたって、命が消えるかも知れない瞬間は怖いのだと知る。


……そしてそんな自分を、傍観するようにただ「感じる」。傍観者は、肉体って動物だな、と思った。

雨でけぶった視界が、嘘のようにクリアになる。相手はセリアよりずっと年上だが、どう見ても大人には見えなかった。体型の判然としない服を着て、傘はさしていない。目深に被ったフードの下は、ぱんぱんに腫れて、これ以上むくむのを抑えるような、真っ白な湿布と、見た事のない肌色だ。赤まだらの、黄昏時の太陽のような色。薬を打たれすぎた後の皮膚のようでもある。だからだろうか。顔立ちは形容し難く、少年にも少女にも見える。そして顔よりも、顔の両脇についた針山のような耳が気になる。痛くないのだろうか。彼も研究所の被験体だろうか?


何か。変。


セリアはそう直感したが、何がどうおかしいのかを掴む前に、相手が顔をしかめながら、目の前に膝を着いた。足が痛むのかも知れない。裾広がりの不思議な形のボトムに、泥水が沁みる。

「良かった、生きてた」

相手は確かに、セリアにわかる言語でそう言った。まっすぐに腕を伸ばされる。体がびくりと反応した。しかしそれを最後に、動かなくなる。

少年は、そんなセリアを見て腕を止めると、妙に間口の広い袖口から折りたたみ傘を出して、柄をぬかるんだ地面に突き立てた。雨がセリアを打たなくなった。

この時ようやく、セリアの感情が反応した。

……………まさか。

少年は片膝を立て、右手を左胸に当てた。

「先ほどと言い今と言い、不躾にも驚かせてしまって申し訳ない。俺は開彪きみ仁・スィネルガフィロス・カエルム・ル=シエル・ツァラトゥ・クレメンタイン・那嵐ならし大真月おほまがつ絃済ヰとなりえーあとは、いやこれで全部か、………つまりきみ仁と申します。冒険者ですが決して貴女に危害を加える者ではございません」

早口で一気に言った。セリアが反応できずにいると、「はい今名乗ったからもう知り合いで。名前間違ってたら申し訳ない長すぎてよく覚えてなくて。動ける?」と言いながら、今度こそセリアを持ち上げた。雨に当たらないように、傘も持って、慎重に。手が少し震えている。

「うぉ、蝿蛆症ようそしょう。これは痛い」

セリアの膝に目を留めると、蛆のうごめくそこに、いきなり手を当てる。

と、膝が暖かくなって、痛みが消えた。最初からなにもなかったみたいに。

しかし数秒後、きみ仁が手を離すと、確かにそこには血が滲んでいた。痛みが戻るが、蛆が見当たらない。皮膚の下を這う感触も、ない。

セリアの胸の内側で、沸騰した水泡のようにばちばちごぼごぼと何かが弾け、めまぐるしく色を変えた。昔見たせてもらった炎色反応実験のようでも、虹のようでもあった。

「大丈夫? 水飲める?」

きみ仁が、傘を首に挟んで、セリアをローブの下に匿いながら、不思議な合わせの胸元から水筒を取り出した。蓋を弾き上げて、セリアに近づけてくる。

気づけば、セリアは水を飲んでいた。手が動かず、水筒を持てないのがもどかしい。口に収まらない水が顎を濡らす。それが惜しくて、水を吸う口元に力を込めていた。

毒が入っている可能性が泡のように浮かんではじけた。毒入りだろうと構わない。毒を飲んで死ぬか、脱水で死ぬかの違いでしかない。

きみ仁は腋に傘を挟み直すと、片手でセリアの口元に水筒を押し当てながら、器用にローブを脱いでセリアを覆っていた。雨がきみ仁の髪や肩を濡らし、ローブに残った体温がセリアを包む。セリアが伺い見た表情は穏やかで、害意はなさそうだった。

セリアが一息つくと、素早く指先ほどの四角い包みを取り出して剥いた。微弱ながら、ミルクとバター、そして香料の甘い香りが、雨の匂いを穿った。

「チョコレート。わかる? 危険なものじゃない」

そう言って自分の口に放るも、その後の表情はとても微妙だった。

「……俺甘い物の良さわからんのだったわ……。まぁ、チョコレートは薬にもなるし、そう悪いもんでもない」

そう言って、セリアの口にも放り込む。


頰の内側が痛むほど、甘い香りが広がった。

勝手に歯が動いて、噛み砕く。いつまでも口の中に留めておきたいのに、喉がうねって積極的に飲み込む。


諦めたと思っていても、肉体はこんなにもたすかりたい。


セリアの様子を見て、きみ仁は頷いた。「ん。頑張ったね」


セリアの中の真っ黒なものに、破魔矢がびぃんと立った。わっと、蟻が逃げるように、黒いものがひいていく。


がんばった。

そうだ、じぶんは、がんばった。


そんな風に認められたのはいつ以来だろう。


(かみさまだ)

疑念が決着に変わる。

(かみさまがたすけに来てくれたんだ……)


自分が抱いた違和感。見た事のない顔立ち、針山のような耳、通じる言語。

全て相手が、かみさまであれば辻褄が合う。


この先どう扱われるかなんてわからないじゃない、そう思う自分もいた。

けれどもなんだか胸がいっぱいで、よくわからない熱量のものが次々湧き上がってきて、ひとつの事しか考えられなかった。

かみさまだ、かみさまだ、かみさま。

もしかしたら泣いていたかも知れない。


だからセリアは気づかなかった。

セリアが感じ取った違和感の正体。

傘を差していなかったはずのきみ仁の手に、腕に、からだに、雨に冷やされた感触がないという事。

湿布の白さが、雨を吸っているとは思えない事。

髪から雫の一滴も垂れてこなかった事。


気づいたとして、この時の(そしてこの先も)セリアにとっては瑣末な事だった。

この時の感情を歓喜というのだと、ずっと後になって蓮李が教えてくれた。


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