後編
あっという間にモンスターをなぎ倒して、彼は振り返った。今日もたくさん素材を採取できた。
「継海。もういいか?」
「うん、帰ろう」
そう返すと、彼は槍をしまって光り輝き出す。そうして角が伸び、身体を覆う鱗は数を増やし大きくなっていく。
少しすると、彼女の目の前には大きな青色の龍がいた。長い髭や鬣は毛先になるにつれて金色に輝き、人型の彼と一致する部分に笑みがこぼれる。
彼女は龍になった彼の背に乗り帰り道を行く。
「乗り心地は?」
「さいこー! 新幹線よりも快適」
二人だけに通じる言葉で、二人は笑い合った。
今世、という言葉を彼女の口から聞くとき彼は少しだけどぎまぎする。この世界、と言ったときにはなんとも言えない安心感に包まれる。
彼女はきっと知らないだろう。龍がその背に乗せる意味を。なにせ番という存在さえついこの間知ったほどだ。
彼女がこの環境に疑問を抱かなくて本当に良かった。彼はいつも不安でたまらない。彼女に記憶が戻った時、喜びと同時に抑えきれないほの暗い感情が宿った。このまま、何も知らなくていいのに、と。
せめて彼女が確実に自分のものになるまでは。彼女が自分の番だと言い切れるまで。
彼女の細くて柔らかな指が彼の鬣を撫でる。無意識のそれがどれだけ彼に喜びをもたらすことだろう。
彼女が転生したことなど、彼女が再会の時と記憶しているよりもずっと前に知っていた。何しろ、彼はそれをずっと待っていたのだから。
彼女は小さな村に生まれた。自由に豊かにのびのびと生きる村には、冒険者も少しばかりいた。
彼は有る限りの龍の能力を使っては彼女の環境を守った。
飢饉なんて起きないように。伝染病なんて流行らないように。今度は簡単に死んでなんてくれるなよと願いをこめて。
ただの高校生として生きていたあの頃を思い出すと、ヘリアントスには悲しみしかなかった。なぜあの時彼女を救えなかったのだろう。自分にはその力があったのに。
彼女の最期はあっけなかった。
いつものように遊び、そして別れた翌日。彼女は学校を休んでいた。担任は風邪だと言っていた。
彼女にノートを貸してやれるな。そう思っていつもよりも丁寧にノートをとった。
しかし、しばらくすると嫌な胸騒ぎがして、そうして彼女の通夜が決まった。
担任や彼女の家族が止めるのを押さえつけて彼女の遺体に触れた。ひんやりとした身体を撫でて、そうして彼女をそうした犯人を知った。
彼はすぐさま外に飛び出した。
今すぐにこの地球上にいる全ての人間を殺してしまいたかった。なぜ彼女が彼女に関係のない些末な争いに巻き込まれたのかが理解できなかった。
町中にニュースが流れる。
謎の伝染病。死者は増えるばかり。特効薬は開発できないまま。
馬鹿な人間どもめ。彼は悪態をついた。
これは伝染病なんかではない。魔法族達のテロという名の復讐だ。
魔力を持つものと持たざるものとの間には長い歴史があった。そのほとんどはいがみ合い、殺し合う争いの歴史だ。
魔力をもつものは個体としては持たざるものよりも強い。しかし、持たざるものの繁殖力は強く、数が多かった。
19世紀から20世紀は顕著で、魔力を持つものたちは息を潜めながら生きていた。
これは魔力を持つものたちの悪あがきにも似た復讐だった。魔力を持つものには効かない病を流行らせたのだ。
これで魔力を持たざるものたちが全滅したとは、いったい誰が想像しただろうか。やるなら世界の中枢からすればいいのに、なぜ真っ先に一般の、それも魔力の存在さえ知らない彼女を巻き込んだのだろう。
冷たい継海の遺体の感触。それを思い出すだけで今でも彼は心が冷えきってしまう。癒し溶かしてくれるのは彼女の存在だけだ。
他の龍たちはそんな些末な争い事にまるで興味がなかった。ただ、彼らの番たちが心を痛めていたことに悲しみを募らせていた。
龍の番には同じ龍や龍人もいれば、魔力を持つものも持たざるものもいた。
彼女が死に、途方に暮れた彼に壮年の龍は言った。
「悲しいことだ。君が彼女を番にしていたら、彼女は生き永らえることができただろう」
伝染病は、縦横無尽に魔力を持たざるものたちを死に至らしめていった。しかし、龍の番になった魔力を持たざるものたちには効かなかった。その者たちは番の龍の魔力で守られていたからだ。
「しかしわしはあの子を番にしてしまったことを、少しばかり後悔もしている」
「なぜ。生きているんだろう?」
「ああ。だが、わしの番はこの大虐殺に心を殺されかけている。涙を見ぬ日は無いよ」
先日、この龍の番の友人知人が死に絶えたという。
心の傷は果てしない時間が癒すことだろう。だが、またいつかぶり返すのだ。古傷のようにじくじくと鈍い感情を伴って。
その時の彼にはそれさえも羨ましかった。
どれだけ嘆いても彼女はもういない。
気まぐれで紛れて過ごし始めた人間の暮らし。その中で唯一を見つけるだなんてあの時は思いもしなかった。
無理矢理にでも番にしておけば良かっただろうか。だが、彼女の気持ちが整わない内に番にしてしまえば、精神を崩壊させてしまう可能性もある。龍の番になるということは、それほどのことなのだ。ならばどうすれば良かったのだろう。
そんな考えを巡らせても全て終わったことだ。
そう、諦めていた時だった。一筋のきらめきが彼の心を通りすぎて、そうして空へと軌跡を描いた。
突然淀んだ空を見上げた彼をいぶかしんだ壮年の龍は問いかけた。
「どうした」
「……どうもこうもない。彼女がいた」
彼と同じように空を見つめ、壮年の龍は呟いた。
「転生の環に入ったのではないか?」
「転生」
「ああ。今も軌跡を辿れるか?」
「もちろんだ」
「見失わないことだ。そうすれば」
「そうすれば、いつかまた彼女に?」
壮年の龍は深く頷いた。
彼は壮年の龍を含め仲間を呼び集め、術を施すよう願い出た。全てはもう一度彼女に会うため。
他の龍たちも彼に同情し、そうして術を与えた。
そうして彼は長い長い眠りについた。身体を眠らせ、意識を研ぎ澄ませた。決して彼女を見失わないように、彼女が生まれついたとき目覚められるように。
彼は長い争いの歴史を精神で見つめ続けた。
魔力を持つものと持たざるものとの争いは、例の伝染病をもってしても長引いた。それはとても醜く、残酷な争いだった。
彼が早く彼女に会いたいと願うばかりに、こんな淀んだ時代に生まれてしまったらどうしようと彼は危惧した。
だが天は彼に味方をしたようで、彼女はとても良い時代に生まれついた。魔力の有無やその量なんて些末なことで差別などされない時代へ。
「ねえ、今日採った素材で何しよう?」
ドロシーは数多にある使い道に迷っていた。
「そろそろ魔法銃を手入れする時期じゃないか? ついでに今日の魔石で強化しよう。特殊効果がつくはずだ」
「すごい! やろう、やろう!」
ドロシーはぱぁっと笑ってみせた。その笑みがどれだけ長く彼が求めていたものかなど知らないままに。
新幹線も、オズの魔法使いも、何もかも二人にしか分からない言葉で交わされる応酬。その仄かな優越感は、彼の薄暗い独占欲に光を灯し続ける。
彼女の生まれついた時代が今で良かった。彼は心の底からそう思う。
この時代の人々は、かつて魔力を持たざるものたちが世界を意のままにのさばっていたことなど、まるで知らずにいる。皆魔力を持って生まれてくるその理由を知らずにいる。
もしも彼女がもう少し早く生まれていたなら。そう思うだけで彼はどうしようもなく悲しくなる。
身体的なことならば、彼女に訪れる全ての害悪を排除できると誓えるだろう。だけどどうだろう。もしもあの醜い争いの存在を知ってしまったら。かつての家族や友人たちが絶滅させられたと知ってしまったら。彼女はきっととてつもない悲しみの海に溺れてしまうことだろう。あの壮年の龍の番のように。
何も知らないドロシーはヘリアントスの前を歩く。時々振り返っては柔らかな笑みを浮かべるのた。今はこの穏やかな時間に浸っていたい。愛しい彼女の笑みを見つめていたい。
だからこのまま、彼女は知らなくていい。
この世界の秘密も、彼の過去も、醜い争いも。
どうしてヘリアントスが龍に近い人型をとっているかなんて。確かに人間、とりわけ継海を殺した末裔に近寄られたくないという思いもあった。
だが、第一には、彼女に知られたくなかったからだ。完全な人間の形をとれば、日向晴葵と同じだと気づかれてしまう。彼女には知られたくない。
ドロシーはきっと知らないだろう。彼が継海からもらった御守りをまだ持っていることなんて。それでいい。気づかなければいい。
一人で待つにはこの千世はいささか長すぎた。こんな千年の孤独など、もう二度と味わいたくなんてない。
彼は一つ決心していた。
次のダンジョンを攻略したら、彼女に告白しようと。そうしたら彼女はなんと言うだろう。最近はそればかり考えている。
「どうしたの、考え事?」
黙りこくった彼をドロシーが見上げる。
「うん? いいや、なんにも」
そうだよ、君のことをね。とそう言えたらどんなにいいだろう。そんなことを思いながら彼はまた一つ嘘をつく。
加工した魔法銃に磨いた魔石を埋め込む。こうしてしばらく置いて、魔力が魔法銃に循環し始めたら成功だ。
「何してるんだ?」
「祈ってるの。成功するように」
彼女は出来かけの魔法銃に向かって手を合わせた。そうして目を閉じてうなっている。
彼も一緒に手を合わせ、そうして祈る。
「俺も、祈っておくよ」
どうか次の千世こそ君と二人で。なんて。