ヒメ恋
春の日差しが降り注ぐ庭に目をやり、遠くに見えた人影に目を留めた。
馬の世話を仕事とする者である。
彼は自分よりも歳上の、数えで十八になる青年であった。
決して容姿は恵まれないが、彼女にはそんなことはどうでもいい。
彼女には、誰より輝いて見える人なのだから。
「これ、そこの。」
声に気がついた青年がこちらに顔を向けた。
まさか自分が呼ばれたとは思わなかったようだ。
直ぐに自分の仕事へ意識を戻してしまう。
「馬のもとに居る、ぬしじゃ」
彼女は彼の、名を知らない。
彼は彼女の顔を知らなかった。
「はい、姫様」
息を切らして駆け寄ってきた青年に、彼女は御簾越しに声をかけた。
「ぬし、名は何という」
「三吉と申します。」
彼は気が気でないようだった。
本来、この領域は、主人家族のみが入ることを許された場所であるからだった。
「そうか」
少女はひとり、こっそりと口の中でその名を繰り返した。
三吉ははらはらと少女がいるであろう場所を見ている。
「三吉」
「はいっ」
「ぬしが世話をすなる、馬を連れて参れ」
「へ?…あ、はい!姫様」
ばたばたと駆けていき、一頭の茶色い色艶の良い子を連れてくる。
「姫様、連れて参りました」
「…近う寄れ」
「は、はい」
三吉が馬の手綱を持って一歩歩み出る。
「もっとじゃ」
「ひ、姫様。これ以上は…」
「三吉、妾の願いが聞けぬと申すか」
「ま、まさか…畏れ多いことにございます」
「妾が良いと言うておる。構わぬ」
狼狽しながらも、三吉はぐっと距離を縮めた。
そこですかさず御簾から手を伸ばす。
「ひっ姫様っ」
三吉が悲鳴にも似た声をあげる。
彼女の白い手が三吉の薄汚れた着物の袂をしっかりと握りしめたためである。
三吉は頭が真っ白になった。
最悪、首が本当の意味で飛ぶことを覚悟した。
何故なら、頬を薄紅色に染めた初々しい少女の顔が御簾の隙間から覗いて、見てしまったからだ。
「妾の顔を見たな?」
楽しそうに姫君は笑う。
「妾を……」
「姫様っ!!」
三吉の悲痛な声を聞いて、少女は手を離す。
「すまなかった。仕事の邪魔をしたな」
「失礼、致します。」
御簾越しに、遠ざかる背中を見届けて、
「……」
少女は喉元まで込み上げた言葉を飲み下した。
古典に出てくる「見る」という単語には、結婚するという意味があるそうです。また、男性に女性の名前を知られることは魂を握られることと同義なのだとか。実際、女性の顔を見られるのは夫になった者、しかも初夜に初めて見ることが出来たようです。