ダスボート・ガール! 02
周辺の視界は最悪だった。
入営からはや三ヶ月あまりを迎えて季節は秋である。
夏場は比較的穏やかな波の具合も、秋から翌春にかけて荒海はその名が示すとおりに嵐に見舞われる日々が続く。
今はまだそこまで波が荒んではいなかったけれど、排水量二〇〇〇トンに過ぎない潜水艦〈キルベルン〉は数メートルの高波に翻弄されてよく揺れていた。
見張員の任務は、基本的にやる事は単純なものばかりだ。ひたすら目を皿にして、三六〇度の周囲を双眼鏡も使いながら哨戒するだけの簡単なお仕事である。
キルン運河を抜けた先の周辺海域というのは潜水艦にとってなかなかやっかいなエリアで、大陸棚を抜け出すまで浅瀬海域が続き潜行には不適切だ。
そして海域での充電は、浮上した状態で周辺警戒をしながら行った方がより安全度が高まるのである。
ヴィルヘルミナは気の滅入る様な気持ちになって、また小さくため息を漏らしながら双眼鏡を持ち上げてのぞき込んだ。
次の瞬間、双眼鏡の向こうに近づく高波を発見した。
高波はいち度ザバリと〈キルベルン〉に押し寄せてきたかと思うとセイルマストにぶつかり、角度を変えてふたりのいるセイルマスト上部から降り注いでくる。
あわてて内側に設置された手すりにしがみついたヴィルヘルミナは、口元をゆがめながら周辺を急いで見回した。
視界の端には、何事も無かった様な表情で、首からかけたタオルで海水に塗れた頬をぬぐっているキルケ兵曹が見えた。
大丈夫ですか、と声はかけない。
さすがに下士官たるキルケはこのぐらいの高波は想定の範囲内だったのだろうか。頬をひきつらせて唇を噛んでいたヴィルヘルミナとは違い、キルケは顔色ひとつ変わっていない。
もういち度姿勢を改めてから片手で双眼鏡に手を伸ばした瞬間、またぞろ荒れ狂う高波がセイルマストめがけてぶつかってくる姿を目撃してしまう。
「きゃっ」
ヴィルヘルミナもたまらず悲鳴を上げてしまった。
「士官候補生が情けない声を上げるな!」
「す、すみません」
海水で滑りそうになったヴィルヘルミナの肩に、キルケの手が伸びて姿勢を助けた。
(それにしても、このタイミングであえて士官候補生なんて言うかしら?)
言葉は相変わらず愛想の無いものだったけれど、ヴィルヘルミナの肩を掴んだ手は決して荒々しいものではなかった。
むしろ二十代そこそこの女性にふさわしい様な、職業軍人のそれとしてはずっと小振りな手のひらの感触だった。
「揺れが酷い時は、あんまり海上の一点を見ない様にしろ。特にタンカーや島をじっと見ていると、だんだん酔いがまわってくるからな」
「それでは見張員の任務をはたしているとは言えないのではないでしょうか兵曹殿」
「いっちょ前に口答えをするなルーキー、そういう時は視界全体の中で島や船をとらえる様にするんだ。それから艦の近くもあまり見過ぎるなよ。視界が急激に流れていくのを見ていても酔いがまわりやすい」
船乗りの知恵というやつだろうか、そういう蘊蓄を周囲警戒を決して怠らない様にしながら、キルケが怒鳴る様にして言った。
「オレにとっちゃ新兵も士官候補生も等しくヒヨっ子だ。つまりオレの命令は聞いておけ」
「はい……」
数度にわたって海水をおもいきり被ってしまったヴィルヘルミナは、少しずつ体温を奪われつつあった。
こうしてキルケが「見張員の心得」を説いてくれている間にも、彼女の唇は体温を失って段々と血の気の失せた紫に変色させていた。
「どうしたルーキー、これしきでヘバってちゃ立派な士官にはなれねーぞ!」
キルケの怒声がふたたび響く。それでも〈キルベルン〉とぶつかりあう高波の衝撃音に打ち消されて、耳に届くのは乾いた途切れがちなものだ。
「問題ありません、兵曹殿っ!」
ヴィルヘルミナも負けずに怒鳴り返す。
「そう言えばお前、娑婆に恋人がいるんだってな」
先ほどまでの「見張員の心得」とは打って変わって、白い歯を見せながら悪相を浮かべたキルケが、一瞬だけチラリとヴィルヘルミナを見やった。
あまり触れてもらいたくない話題を突然切り出されたヴィルヘルミナは、無視を決め込むことにする。
例え上官の質問であろうとも、プライベートについて回答をする必要があるはずもない。
「知ってるか。海軍という場所は離婚率や恋人と別れてしまう率が、他の陸空軍に比べても格段に高いんだぞ」
「……」
「軍港を発って、酷いときは数ヶ月も外洋で作戦をするのが海軍だからな。最初のうちはお互いに『逢えなくて寂しい』なんて甘っちょろいメッセージのやり取りをする。はじめての遠洋航海の時は海外のお土産品を買うのも楽しみだ」
「…………」
「それが航海の後半になったり二度目、三度目にでもなってくれば、相手はだんだんと『仕事の事がそんなに大事なの?』ってなるんだ。そうなってしまったら、後はもうアッサリとしたもんだぜ」
「はぁ」
「オレが断言してもいい。お前、この実習航海が終わったら男に捨てられるぜ」
ヴィルヘルミナがキルケ兵曹を睨みつけると、ニヤニヤと意地の悪い顔をした上官が拳を固めながらひとさし指と中指の間に親指を挟んで、下品なハンドサインを作っていた。
「あるいは浮気だな」
「わたしの彼はそんな事をしないわ」
「ふん、どうだかなぁ。オレの見立てでは恋人がいる新兵は八割がた今回も破局すると思うぜ?」
ヴィルヘルミナから視線を外しながら、キルケが暗黒の海洋に向けて想像したくない予測を口にした。
「だから悪いことは言わねぇから、覚悟だけはしておいた方が精神衛生上いいと思うぜ」
こんな事を言われて黙っていられるほど、ヴィルヘルミナは大人ではなかった。もともと彼女は「皮肉屋さん」だと、海兵団同期のクラウディアやカルラにはよく言われている。
「それは兵曹殿が、ご自身の女性的魅力が足りないばかりに経験した、過去の実話なのではないですか?」
「んだとぉ?」
「いえ、なんでもありません」
お互いに睨みあったものの今は任務中であるから、キルケは「チッ」と舌打ちを残して視線を外した。
(いつか殺してやるわ)
ヴィルヘルミナは上官の後ろ姿を睨みつけてやった。
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