水兵さんは泳げない! 03
結論から言うと、深夜寝静まってから隣の部屋に侵入する事は出来なかった。
最悪な事に、この日の当直は泣く娘も黙るキルケ兵曹殿であった。
「ねえヴィル、談話室にいる時、兵曹は当直の腕章してなかったよね……?」
「兵曹殿は確か上着を脱いでいたはずだわ……」
「ち、畜生。あたしらキルケ兵曹にハメられたんじゃね!?」
荒々しく恐ろしいこの兵曹殿は、まるで水兵の鑑の様に厳しくまた任務に熱心な事で新米水兵たちに知られている。
配下の水兵を何度も不寝番の巡回に行かせ、たまには自分自身でも各室内まで入ってきて監視の目をゆるめないのである。
寝相の悪い女子のためにタオルケットをかけなおしてくれたり、今日に限ってキルケはある意味で優しかった。
せめて当直が員数をつける様に命じたフランソワ自身であったなら、員数をつけるチャンスをくれたかもしれない。
けれど、いつになくしつこく不寝番をしている水兵の事を恨めしく思っているうちに、クラウディアはまぶたが重くなりやがて寝た。
起床ラッパとともに〇六〇〇時に飛び起きると、備品点検の日を迎えていたのである。
備品点検の時間まで日課の訓練が入っているから今から員数あわせをするのも無理だ。
クラウディアは死を覚悟した。
きっと備品点検が終わった後にキルケに呼び出されて、死ぬよりも悲惨な目にあわされるに違いない。
一週間のトイレ掃除ならまだゆるい方だろうか。
講義室の机と机の間に手をついて脚をグルグルさせるエア自転車も最悪だという話を聞いた。
官品水着を紛失したのを悔いるためにと一日スク水の刑に処せられる可能性も考えられる。
「もうやだ、水兵やめたい……」
泣きべそをかきそうになったクラウディアが嗚咽を漏らしたその瞬間、いよいよ備品点検の時間がやって来たのである。
「気ヲ付ケっ」
だしぬけにクラウディアたちの部屋が開け放たれる。
一斉に視線が集中し、声の主であるキルケ兵曹の姿と、教育隊司令の学校の校長先生が似合う様な中年女性と、分隊士の若手女将校が入ってくるところが見えた。
「第二分隊第三班、総員八名。点検準備完了!」
いつもはおっとりとしているフランソワが、備品点検の一団の最後に部屋に入ってきて報告した。
「休ませてちょうだい」
校長先生みたいな教育隊司令が、やわらかな笑みを浮かべて返事をした。
そこからはキルケ兵曹が手際よく、各員のロッカーを次々と開けて中身をチェックしていく。
右端から順番に確認が続きヴィルヘルミナ、カルラの後は、いよいよ自分の番だ。
顔が見る見る赤くなっていくのをクラウディアは感じた。
キルケに恥をかかせる前に、せめて自己申告で官品水着を紛失したと報告するべきだ。
報告するべきだけど、何と切り出そう。
「クラウディア二等水兵。備品点検」
フランソワがバインダーに挟んだ書類に何事か記入しながら、クラウディアのロッカーの前にやってくる。
「兵曹殿。わ、わたし……」
小さく震える声でクラウディアが悲鳴を上げたけれど、フランソワはそれを一瞬だけ見て無視した。
「あなたがクラウディア二等水兵ね。あら、座学も優秀で、体力練成も頑張ってついてきてるの? いい子ね」
教育隊司令はフランソワが差し出したバインダーをのぞき見しながらニッコリと笑みを浮かべる。
まるで全ての新米水兵にとっての母親の様な存在だと一瞬だけ思った。母は優しいけれど、長女はとても怖い。
のしのしとやってきて、ロッカーの中を逐一点検する水兵の長女たるキルケに、クラウディアもさすがに覚悟を決めた。
「クラウディア二等水兵。員数点検異状なし!」
その瞬間にクラウディアは「えっ!?」と驚きの声をあげそうになってしまった。
カルラもヴィルヘルミナもそこは同じだ。
それぞれの備品は教育隊司令の前で見える様にしっかり確認している。
だからごまかしは無しだ。それなのに。
――官品水着がちゃんとある? でも、どうして!?
「クラウディア二水、これからもしっかりおやんなさい」
そう言った教育隊司令は優しくクラウディアの肩をポンと叩くと、次に備品点検を受ける新米水兵の前に移動した。
後に続くフランソワが前を通るとき、クラウディアにだけ聞こえる声音でつぶやく。
「キルケちゃんにしっかりお礼を言っておきなさいね~」
意味深に片目をつぶって微笑んだフランソワにクラウディアはいろいろな意味でドキリとしてしまった。
★
備品点検が終了した後、
「お前、座学の方はそれなりにしっかりと成績もいいし、体力錬成の方も及第点だが、身だしなみはどうだ? 海軍水兵たるもの、身の回りの手入れはしっかりと出来ていなければならない」
そう口にしたキルケは、クラウディアが無くしたはずの官品水着を指していかめしい顔を作っていた。
「確かにこの官品スク水は毎回使用後に洗濯をしていたらしい。けれどどうにもいけねえ。お前のスク水のゼッケンは訓練中からずっと外れかけだったじゃねえか」
キルケがそう言うのである。
「あっ」
確かに思い当たったところがあったのだろう。
クラウディアは最後に替えの水着を洗濯機に放り込んだときのことを思い出して声をあげた。
「その後、名前入りのゼッケンが洗濯機のドラム缶の中に残っていたのを、使用後点検中のキルケちゃんが見つけたのよ~」
フランソワが言葉を添えた。
「だからキルケちゃんが、こっそりあなたのスク水にゼッケンを縫いつけてくれてたのよ~」
「そ、そうだったんですか?」
キョトンとした顔でクラウディアが問い返すと、彼女の上官は「フン」と鼻をひとつ鳴らしてそっぽを向いてしまった。
恐らく、このままゼッケンが剥がれたまま備品点検を迎えていたならば、間違いなく教育隊司令の前で分隊士が激昂し、クラウディアとともにキルケが大目玉を食らっていたに違いない。
「キルケ兵曹殿に恥をかかせるところでした。もうしわけございませんっ」
「そういう事じゃねえだろ!」
謝罪の言葉を口にしたクラウディアに対して、今までにないぐらいキルケが大噴火した。大きなため息をひとつこぼして言葉を続ける。
「いいか。使用前、使用後にはどんな些細なことであっても、必ずチェックを欠かさない様にしろ。今は教育訓練中だからいいが、艦に乗り込んでからはひとつの見落としがお前自身、ひいては乗組員全員にとって命に関わる様な事故に発展することだってあるんだぞ」
そんな正論を指摘されて、クラウディアはただただ「はい」と小さく言葉を漏らすばかりだった。
「手前ぇのせいでオレが預かっている新兵に迷惑がかかる様な事が許せねえんだ!」
吐き捨てる様にそう言ったキルケにフランソワが、
「も~キルケちゃんは素直じゃないんだから。怖い顔してるけど、キルケちゃん本当はそんなに怒ってないから~。こっそり心配してたのねぇキルケちゃん?」
「うるせぇ、フランはちょっと黙ってろって……」
ばつが悪そうに顔をしかめた赤鬼兵曹に、大きくクラウディアはぺこりと頭を下げた。
「すいませんでした! それに、ありがとうございます!」
「馬鹿野郎、いつまで娑婆の気分のままでいるんだ! そこは敬礼だろっ」
最後にひとつ大目玉を食らってしまったけれど、クラウディアの気持ちは少しだけ晴れやかなものになった。
心配されて怒られることは、ありがたいものだと。