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Stand Alone Stories

夜彷徨く They went dark.

 I wish that your gentle sleep isn't disturbed.

  ――穏やかな眠りが妨げられん事を――

 夕暮れ――日が暮れる前に町に辿りつけたのは幸いだった。随分長く歩いて来たが、足以上に腕が、そして精神的な疲労もが蓄積されていた。町に入り、道なりに石畳の小道を歩き、路地裏の階段を一段、また一段と重い足取りで上って行く。じんわりと空気の淀みの様な物が身体にまつわりついているようで、その石段を上がりきると風が不快な靄を攫っていくような清々しさを感じた。肩の荷が下りたような気分にもなり、両腕が解放感に包まれた。「おやおや、旅の人とは珍しいですな」と、傍に合った鉄製の錆びたベンチに腰掛けていた老人が声をかけて来た。彼はこんな夕暮れにこんな所で何をしているのだろう。手すりに立てかけてある杖には目立つ飾りも無いが、妙な存在感、異彩を放っているかのように見えた。持ち主の方はと言うと、上下灰色、ヨレヨレの半袖シャツにニッカボッカ姿で、禿頭に眼鏡を乗せている。眉間に刻まれた岩石の様な皺、堀の深い顔立ちに落ち窪んだ瞳は輝きを失ってはいなかった。俺の様な旅人に話しかけるだけの好奇心と田舎町特有の親切心も持ち合わせているらしい。「こんな何も無い寂れた町に、いったいどんなご用があって来なすったのですかな」生憎とこちらは暫くの間人と口をきいていなかったために、舌の先まで出かかった言葉がまた喉の奥に引っ込んでしまう始末で、何か言おうとしているのを察してか目の前の老人は温かい頬笑みを向けてくる。だがそれが逆に奇妙で不気味でも有った。この手の人間に特有の親切心と言う奴は生憎と厄介極まりないもので、何とかこの場をやり過ごす術は無いかと暗中模索の体で、老人の頬笑みと視線に長い事無言のまま突き合わせていた。「その様子では、どうやらお疲れのようですな。今宵の宿はお決まりですかな?」「いや」たった一言だけ、やっと口を開く事ができた。老人は二度三度頷いて見せると大仰に腕を組みながら、「ふむ。余計なお世話かもしれませんが、よい宿を知っております。表通りのでかい宿屋にはたしかに及ばないでしょうが、宿もとどのつまりは入れ物に過ぎません。重要なのは中身、おもてなしです」なおも老人は一人得心がいったように頷きながら語る。早合点されても困るのだが、かと言ってこのままやり過ごしても行く当ては無く、結局のところこの老人の話を聞かざるを得ない。確かに時間は惜しいが、これから日も落ちてくると、少し余裕が生まれる。今はまだ、この老人の相手をしていても構わない。それでも、懐に余裕が無い事実については打つ手が無い。

「申し訳ないが、……路銀が尽きていましてね」そっと懐の財布を取り出して見せ、数枚の札だけの内情を知らせる。「宿のご紹介は、実にありがたいのですが……」

「ふむ、確かに」財布の中身の確認がてら、老人はこちらの顔色を窺っている様子で、例によって一人で頷いて見せたり、虚空を眺めながら唸ってみせた。「お若いの、あなたのその表情を見るに、なかなかの事情をお抱えの様ですな。――それならば」その言葉を遮るように、言葉を被せる。

「いえ、結構です。結局、どんなに安い宿でも、そこに泊まるわけにも行かないのです。宿代替わりにタダ働きをすることも厭いませんが、今晩はどうしてもそれが出来ない……」財布を懐にしまいつつ、静かに、路地の辺りを見回す。人っ子ひとりいやしない。もう日が落ちるのだ。当然のことだった。「しかし、野宿をする積りもないのです。厄介な事ですが」

「いえ、宿の紹介をする積りはもうございません。ただ、――屋根のある建物で一晩過ごしたいとおっしゃるならば、良い場所がございますよ」

「…………それよりももっと重要な事がありましてね」

「ええ、ええ、承知しております」そう言って老人は古色蒼然として破顔一笑してみせる。それがいかにも訳知り顔と言った体で、薄気味の悪いものを感じざるを得なかった。こちらの事情をどこまで察して見せたと言うのか。口角を釣り上げにこやかにして見せたまま、その眼はどうやら笑ってはいないようだった。今の一瞬でこちらが怪訝な顔を見せたと思え、老人は辺りを軽く見回した後でわざとらしく、軽く手招きをした。疑わしい事だが、大人しく近付き耳をそばだてると、老人は深みのある低音の小声で囁いた。

「この町には、あなたの様な御仁が隠れ潜むには絶好の建物がございます――無人の廃墟と言う所ですな。それならば野宿と言う事にはなりますまい」

「……ここから近いのですか」

「ええ、この町は広くはありませんからね。ただ、まあ、ほんのすこしばかり、山の際まで歩くことになりますが」

「構いません、それくらいなら。そろそろ夜の闇に紛れる事も出来る。それで、その建物とは」

「……学校が、ございます。この町は、今は十数年前の洪水の被害も癒えず、ご覧の通りすっかり人気も疎らという有り様でしてな。そう、若いものも皆、近くの大きな街に移り住んでしまいました」そう言いながら荘人は禿頭を撫で、また微笑んで見せ、「この通りも随分と、寂れておりますが、ええ、あの時までは、この通りでも子どもたちの元気な声が往来を飛び交っておったものです。――今はもう、子どもたちの声は聞こえません。しかし、あの災害の被害が最小限におさまったのも、あの校舎が山の際に建てられていたからだったのでしょう。今もまだ建物は残されております」老人の瞳の輝きは一層の陰りを帯びて、物悲しそうにまた定まらない焦点を虚空に遊ばせるのだった。

「廃校……校舎のなれの果てか……確かに都合は良さそうです。御老人、そこまで案内していただけるでしょうか」

「お安いご用です。私も昔はあの学校で様々な仕事をしておりました」そう言って、立てかけてあった杖を手に取り老人はゆっくりと立ち上がった。背中はしっかり伸びており、杖を必要とするようには見えないが、老人は正面に杖をつき、そこへ両手を預けた。やはり奇妙な印象を与える姿だった。

「……あなたは教師だったのですか」思いついた質問をそのまま口にする。老人は片手を左右に振りつつ応える。

「いえ、そんなものでは。ただの警備員でした。ですが危険など何も無い。日頃はむしろ用務員として雑務をこなしておったものです。いやはや」杖で二度、三度と石畳を小突いて見せる。そうしていると、この老人の顔立ちもなかなかひょうきんに見えてくるのであった。

 決してこの老人を信用していた訳ではない。が、それでも話に聞いた通り廃墟は魅力的だった。隠れ潜むには相応しい。既に日は落ち、夜の闇に紛れて、杖をついて先導する老人のあとを歩いて行く。暫くは無言のまま歩き続けた。町の家々の窓から漏れる僅かばかりの灯りが幻燈のように浮かび上がっていた。時折、災害以前の風景について二言三言懐かしそうに口にしていたが、こちらは曖昧な返事を返すだけでただ静かに後について行った。老人は山際へ向かう森のある、町の外れまで連れて来てくれた。

「この道を行けば、すぐに学校です。地形もだいぶ変わってしまいまして、多少険しい道程になるかと思われますが。ここから先は、この老体にはちとこたえますのでな、最後まで案内できず申し訳ないが」

「いえ、御親切にありがとうございました。大丈夫でしょう」

「――おや、お若い方、森の中は完全に暗闇でございますぞ、灯りはよろしいのでしょうかな」

「ええ、必要ありません。御心配なさらず。慣れておりますので」静かに老人に別れを告げる。「ありがとうございました。……もしかしたら、下りてきたらまたお会いするかもしれませんね」にこやかにほほ笑みかける。老人も頷きつつ、ただ「良い夜を」と一言を残した。歩きながら、振り返って手を振ると、老人はお辞儀をしつつ手を振り返す。そうして親切な老人との別れを済ませ、ただ前へ、前へと進んだ。気付けばこの奇妙な禿頭の老人への不信感や嫌悪感は、いつの間にか薄らいでいた。もう一度振り返ってみると、もうそこには老人の姿は無かった。

 闇の中、ひたすらに目的地を目指して歩き続ける。森の中ではあるが、土砂が流された影響か、少し湿った砂利道となっていた。踏み締める度に擦れた音が響く。梟が鳴いているのが聞こえた。闇の住人たちの時間がやってきたのだ。木々の枝葉を霞めるように、中空を飛び交う何かがいる。案ずる事は無い。何も無い夜の森の中であった。身体は疲れ切っていたが、立ち止まる事は無かった。やがて暗がりの中に坂道が浮かび上がる。舗装された道の残骸。ここを昇って行けば、学校がある。闇を見据える。不意に、風が通り抜けていくような感覚があったが、木々は揺れていない。どうやら、夜の徘徊者どもに歓迎されているわけではなさそうだ。だが、それでいい。ゆっくりと、一歩ずつ、坂を上がっていく。脚はもはや棒のようになっていたが、それでも身体の感覚には誤魔化されずに、気力でもって進み続ける。ここまでくれば。ここまで来さえすれば。暫く奴らの追跡から逃れる事が出来るだろう。ここまで来た足跡は、あの町から先、消える。酷く疲れていた。心地よい感覚だった。時間の経過さえ覚束ない全くの闇、遠くで鳴く虫の声が、空っぽの身体の中を反響して行く。濃密に、闇を辿る眼が冴えてくる。坂がなだらかになるにつれ、舗装された道がしっかりと形をなしていくのが解る。そして、開けた場所に出た。森を抜けたのだ。そしてここは山の入り口。闇の中に巨大で堅牢な建築物が浮かび上がった。鋼鉄の門扉が風に揺れ軋んでいる。学校があった。打ち捨てられた、通う者のいなくなった学校。在りし日の面影がそこにあるだろうか。遮るものの無くなったおぼろげな月明かりに照らされて、その校舎は旅人を迎え入れた。校庭。広くて何も無い。雑草が生え放題だった。しかし崩れかけた小屋や物置などが点在しているのが見える。校門や外壁には夥しく蔦が絡まり押し合い圧し合い、時の流れを感じさせる。この寂れた校舎の異様はどうだ。木造建築、闇の中で圧倒的な存在感を放っている。ここまで来たのは正解だった。あの老人には感謝しなくてはならない。まずは中へ入って、居心地の良い部屋を探そう。そして眠るのだ。後の事はそれから考える。大丈夫だ。心配はいらない。また梟の声が聞こえた。月は雲に隠れていた。ここに辿り着く事が出来て良かった。後者に足を踏み入れると、床が軋んだが、まだまだしっかりしている。この分だと上階に上がっても良さそうだ。子どもたちの学び舎。真夜中の灯りの無い校舎。自分の目だけを頼りに進んでゆく。そうだ。こんな所に潜んでいるなどとは誰も思うまい。しかし、もしこの山の麓のあの町に辿り着くものがあったのなら。あの老人に話しかけるものがあったのなら。ここにいる限りは袋の鼠だ。それも仕方の無い事なのかもしれない。ただ一人の足音が響く廊下。どこの教室も机や椅子、教壇まで残っており、誰もいないはずなのにそこに何かしらの郷愁を思い起こさせる心寂うらさびしい空間であった。俺の様な人間が来て良い所でもないかもしれない。ここには思い出がたくさん溢れている。麓の町が先の大洪水の被害に遭った時もここが人々の最後の砦となったのだ。町を離れて行った人々も子どもの頃はこの校舎で過ごしたのだろう。途中で階段があったが、廊下の突きあたりまで進んでみることにする。行きつ戻りつ、一階の構造を頭に入れておき、もう一度廊下の突き当たりに設けられたもう一つの階段に足をかける。階段の作りもしっかりしている。手すりに触れてみると、たくさんの人が触れたのだろう、感触は滑る様に心地よかった。手すりにつかまったまま、踊り場で折り返し、二階に上がる。また反対側の付きあたりまで散策を続ける。床はここも問題ない。靴の中で、右足の豆が潰れた感覚がした。そろそろ休まなければならないだろう。こんな時に、身体が言う事をきかなくなってくるというのは心細いものである。二階にまずあったのは、どうやら職員室らしい。他の教室とは違って整然と長い机が並んでおり、それぞれの教師の作業場が設けられているようだ。風の音が聞こえる。窓は閉まっているようだが、ボロボロになったカーテンが微かに揺れている。そのまま室内に入り、色々と眺めてみる。まだ灯りを付ける訳には行かない。カーテンが揺れている窓際までやって来ると、確かに、窓がそこだけ少し開いており、夜風が時折吹きぬけていくようだ。おもむろに窓を開けてみる。校庭が良く見える。闇の中。森の木々を透かして、町の幻燈が微かに浮かんで見えた。ここから眺めてみるとそこまで距離を感じないのは気のせいだろうか。あそこには人がいる。生活している。あの老人も。梟の鳴き声が聞こえた。そっと窓を閉める。町の明かりが名残惜しくもあるが、いつまでも見てはいられない。振り返ってみると、丁度目の前にある机上には一冊のノートが置かれていた。古ぼけた表紙、手にとってみると煤けたような埃が舞い上がった。生徒の忘れものか何かだろうか。それとも教師の。何気なく手に取ってしまったが、灯りが無ければ中身を判読することは難しい。何が書いてあるか知れないが、朝まで待ってみることとしよう。しかしこの職員室は寝るには少々落ち着かない。もう少し二階の探索を続けて、丁度良さそうな部屋がある事に期待するとしよう。不意に意識が遠のきかける。まだ眠る訳には行かない。このまま眠るのもさぞかし心地よい事だろうが、もっと相応しい場所がある。科学の力でも借りようか。そこは実験教室か何かなのだろうが、闇の中に人影が一つ、二つ。考えて見れば、誰もいない廃墟に誰もいないと、どうして信じられるのだろう。俺はこの学校の話を聴いてこう思った。隠れ潜むのに丁度良い、と。同じように考える奴がいないとどうして言えるのだろう。第一、ここを紹介してくれたあの奇妙な老人が、そう考えたからこそ俺はここまで来ているのだ。では本当に誰もいないのか。目の前の人影は、まぎれも無く単なる模造品に過ぎない。ただ人体を模した――埃が積もった灰色の骨格標本と、筋肉や臓器配列をさらけ出した人体標本に過ぎない。薄汚れた二体の人形は、その眼窩と胡乱な瞳で虚空を睨みつけていた。ここで寝るのも気分がよろしくない。美術室。同じように石膏像が並ぶ。この中に本物が混じっていたとしても、この闇の中では見分けはつかないだろう。しかし、無数に居並ぶ石膏像にもましてこの心を惹きつけたのは、イーゼルに立てかけてあった一枚の絵だった。闇の中でさえ燐光を放つ、白い肌の少女、湖の畔に佇みながら、片足を水に浸し、波紋が広がる一幕を切り取った精細なる絵画。まだ頑是無いであろう幼い顔立ちの少女は虚ろな目をしているが、腰まで届く長いブロンドの巻き毛、肌が透ける様な薄手の水色のワンピースから生え出た瑞々しい四肢は若さに満ちており、同時にひ弱でか細く艶めかしい。とても美しい絵だった。不意に室内が明るくなる。先ほどからずっと雲に隠れていた月明かりが窓辺から差したのだった。絵の中の少女は、益々幻想的に振る舞って見せる。このまま、この少女を眺めているのも悪くは無いだろう。しかし、絵をそのままにして美術室を後にした。また、階段。かなり身体が重くなって来ていたが、構わずに押し上げる。三階までくると、妙な肌寒さを感じる。風が通り抜けているのだ。どこか窓が開いているに違いない。進んで行くと、音楽室があった。他の教室と異なり、音が外に漏れない様な壁面の改修が施されているようで、木の香りがしない。漆黒のグランドピアノが厳かに重厚感を示していたが、防音室は外の音も聞こえないと言う事である。そんな所で寝る訳には行かない。カーテンは揺れていないので、この部屋は窓が閉まっている。ここにはもう用は無い。更に進んでゆく。図書室は無いのだろうか。あるとすればこの三階だろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。施設が幾つか足りない。校庭を突っ切り真っ直ぐ飛び込んできたが、校舎はここ一つではなさそうだ。外観より狭く感じるのは、恐らくそちら側の校舎への接続点が内側には無いからなのだろう。それから歩くうち、他の教室とは一線を画す奇妙な部屋に辿り着いた。明らかに他とは違う。音楽室の壁面とも異なる。足を踏み入れてみると、感触が異なる。明らかにリノリウムの床だ。そして大仰なソファが並び、机も椅子も豪奢な作りであった。壁には戸棚があり、雑多な物が並んでいるようだ。カーテンが揺れている。また、風が吹き抜けて行った。カーテンを開け、外を眺めてみる。一段高くなった景色は、森の背丈を越えて、町の風景を俯瞰することができた。幻燈、疎らな明かりは数えるほどしか灯っていなかった。就寝時間が近づき、どんどんと灯りを消しているのだろう。そのうちにあの風景もまったき闇の中に沈むのだ。大洪水で一度沈んだ町。こんな所まで来ても、結局俺は追われている。梟が鳴く声がした。今度は随分と近くで聞こえた気がする。獲物でも見つけたのだろうか。振り返ると、白い顔があった。漆黒の丸い瞳がぼんやりと浮かび、くるくると回転する。首はせわしなく位置を変えどこを向いているのか解らないが、こちらを見ている事だけは確かだ。慌てる事は無い。こいつらは(fly)うろ(by)つく(night)のだ。俺と同ように。ゆっくりとその場を離れる。そいつは窓から夜の森へと飛び去って行った。その姿を見送り、窓を閉める。ここのソファは具合が良さそうだ。まさにうってつけと言える。テーブルに、職員室から持って来たノートを放り、静かにソファに横になる。このまま、眠りの淵にたゆたって、朝を迎えるのだろうか。それとも俺は捕まるだろうか。せめて今だけは、心安らかに。美術室の絵画の少女を思い浮かべる。少女は静かにソファの背もたれに腰を落ち着かせて、まどろむ俺を見降ろしていた。虚ろな瞳。胸の鼓動が高鳴る。せめて、心安らかに。幻燈の様な少女は、腰かけたまま何でも無いような素振りで、脚を振り上げ、また振り下ろした。衝撃が腹部に伝わる。虫でも踏みつぶすかのように、少女は俺を見下したまま、表情も変えずに、俺の腹部にただ脚を振り下ろす。思わず身をよじる。吐き気がする。そのまま俺はソファから転げ落ち、全身を強かに打ち据えた。その際に後頭部をテーブルの角にぶつけたらしく、反射的に身悶え暴れる腕と共に硝子天版を粉々に砕き、辺りに欠片が散乱した。それをまともに浴びせかけられ、全身の痛みと共に、口腔内にすえた臭気が満ちる。頭が痛い。カーテンが揺れている。地面を這う。吐き気がする。身体が湿っている。気分が悪い。痛い。身体のどこが悲鳴を上げているのか、もう解らない。身体を持ち上げようと手を付いた瞬間、左手の平に硝子片が突き刺さり、骨の隙間から甲を突き破った。血液が流れ出す感覚、心臓の鼓動に合わせ腕の筋肉が収縮する。しかし、ここで倒れたら更に怪我が増えるだけだ。手は仕方が無い。右手は無傷だ。このまま起き上がれば。風の流れを感じた。振り返ると、ソファに腰かけていた少女の身体が、宙に浮いていた。その華奢な二本の脚は、真っ直ぐに俺の背中にめがけて飛び降りていたのだ。衝撃。瞬間左手を庇おうと翻した右腕がひしゃげ、あらぬ方向に曲がり、俺は踏みつけられ身体を硝子片の海へと沈めた。背骨が軋む。肌を裂き肉に硝子が喰い込む。折れた右腕の骨が右肺を貫く。少女は俺の背で地団太を踏む。全身に喰い込んだ硝子片がより深く飲み込まれる。ついに右腕の骨が背中を突き破る。左腕の感覚も既にない。吐き気がおさまらない。俺は血反吐をぶちまけた。せめて心安らかに。眠りの淵で俺は血の海に沈み、死体に成り果てて猶少女に蹂躙され続けた。日蔭者の末路。眼が覚めると、まだ夜更けの中にいた。窓を閉めたはずだったが、カーテンが揺れている。吐き気がおさまらない。どこまでも醜い。俺は追いつかれるのだろうか。それも時間の問題かもしれない。絵の中の少女が笑う。逃げ場なんてどこにもない、と。絵の中の少女は、片足を湖に差し入れていた。俺はどうだ。片足どころでは無い。全身を突っ込み沈みかけている。隅から隅まで汚れている。どうか、誰も俺を探さないでくれ。そんな事をしても誰も救われる事は無いのだ。それとも、誰かが迎え入れてくれるのだろうか。立ち上がり、揺れるカーテンをめくると、窓が開いていた。月は雲に隠れている。不気味に黒い雲は、形を変えながら、風に流れていく。また顔を出した月は、もうだいぶ落ちていたが、夜はまだ長い。振り返ってみると、テーブルの上に置いたはずのノートが無くなっていた。硝子天版は壊れた様子も無い。ソファに腰掛ける虚ろな瞳の美しい少女もいない。このまま朝が来るまで、何事も無く平静でいられるだろうか。それとも俺以外に誰かがここにいるのかもしれない。先約が。それならちっとも不思議ではないし、何もかも説明が付く。確かに古いノートだったが、もしかしたらそいつの持ち物だったのかもしれない。なら勝手に持って来た俺が悪いと言う事になる。謝ったら許してもらえるだろうか。夜はまだ長いのだ。このままお互い悪い印象を持ったままでいては、寝覚めが悪いと言うものだ。俺は室内を見回し、ゆっくりと部屋を後にした。静かな森で、梟が鳴いていた。

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