level.1 まがまが しい すとーりー の はじまり。
〈マのモノ〉は、がんばるモノが大好きです。
「さぞや無念だったでしょう、〈かつての悪代官サマ〉……」
あの憎ッくき〈光のモノ〉どもの
恐ろしく善良なる毒牙にかかり
唯一にして絶対だった六十六代目の我が主が
【地獄の城塞】の最深層にて深い眠りに就いて幾星霜――
永遠にも思えるほどの
我ら〈マのモノ〉が耐え忍ぶ『冬の時代』は過ぎ、
善意がはびこる世界はまた
いつかの心地よい暗黒の風が、ひっそりと吹き始めるのでした。
ドクンドクン!と、規則的に脈打つデコボコの床。
そしてネチョネチョの、ちょっと刺激を加えるだけで、
まるで洪水のように粘液を分泌し続けるクサイ壁……。
――ああッ! なあんて、マガマガしいんだ!
これほど悪意に満ちた場所は、この空間を置いて存在しないでしょう。
なんとも陰気で邪悪なオーラ……やっぱり落ち着く。
まるで自分が生まれた故郷のような、そんな気がいたします。
「オイ」
「はっ」
サッと、素早く我に返ります私。
「泣きながら、目の前で笑うんじゃねェ。このオレサマの正確無比な、悪魔のように太い手先が狂ゥじゃねえか」
そう言って、いつものヨコシマな視線を私に向けるのは、
この【サルトン実験室】の主――もちろん、サルトン博士にございます。
「ミリ単位の誤差も許されねえ、今は『超』繊細な作業中だ。そのヘンテコなテメエの奇妙なマモノヅラで〈マのモノ〉のジュクジュクしい明日を導く、オレサマのサイアクな仕事を邪魔するんじゃねェ。新しく造り変えるぞコノヤロウ」
コノヤロウ、バカヤロウと、口を開けば決まって猛毒を吐くこの博士、
こう見えて〈マのモノ〉製造の、偉大なる悪才にございます。
ちまたでは『合成のサルトン』の異名を取るとか、取らないとか。
その辺は、ボヤーッと曖昧に。
トレードマークであるボロボロの白衣から覗き見える
この灰色のジュクジュクしい腐りかけの皮膚が、
博士が辿ったであろう過酷な歳月を想像させますな、ハイ。
もう誰の手にも負えない(というか触りたくない)
すんごく恐ろしい〈マのモノ〉に間違いございません。
「お、お許しください博士! どうか……どうか造り変えるのだけはご勘弁を! しかし今の私は、これ以上ないくらいユウウツで……これから始まる『マガマガしいストーリー』を想像するだけで、表情が勝手に緩んでしまうのですゥ!」
「かああッ、だらしのねえヤツめ。なんだその締まりのねェツラは。これだから最近の〈マのモノ〉は……って、グチグチ好き放題に言われるんじゃねェか。テメエらを造ったオレサマの顔を少しは立てろッてんだ、この親不孝の〈マのモノ〉が。テメエの身体の造りは貧弱でも頭の脳ミソは、もっとギュウギュウに詰めたはずだぞ」
そして博士は、私に向けていた注意をそれきり手元に戻します。
繊細な動作でシャーレに培養した紫色の粘液を、
ほんの少しだけスポイトに吸い上げますな。
色がなんともジュクジュクジュク……
化学的かつ生物的な、キケンな匂いがプンプンします。
今度の実験では、どんな〈マのモノ〉が誕生するのでございましょう。
「ところでテメエ、呑気にここで『アブラ』売ってイイ身分なのか」
「『アブラ』……? それは……どんな恐ろしい武器ですか……?」
「〈ニンゲン〉のタトエだ、バカヤロウ! このスットコドッコイのゴクツブシ! キビキビ働かねェと、たったの三分間でメタボな体型にプチ改造しちまうぞ」
「ええーーッ! じゃあそれで私も、ね、ねんがんの第二形態にぃ!」
「そうじゃねェ。そんな不景気なツラしたボスが居てたまるか」
ザンネン。
「それよりテメエに任された『召還の儀』は滞りなく、平穏無事に進行してるんだろうなァ!」
すると博士の、悪魔のような太い手先でチョコンとつまむスポイトから、
あらぬところへ数滴の雫がポタポタポタ……。
恐ろしいほどの硬度を誇る《アダマンタイン》の甲羅から削り出された
特注の実験テーブルに垂れた紫色の液体は、シュウウウウ、と
なんだかヤバそうな効果音を立てまして、
一筋の黒煙がスルスルと昇っていきます。
「ご心配には及びませんぞ! 【悪代官サマの間】は時間が経つごとにマガマガしさがジュクジュク増していて、守備力がペーパーのように薄っぺらい私では、近づくことすら困難なほど! こりゃもう〈ニンゲン〉どもが絶望に包まれる姿が」
「……やっちまった。坊主、これをキレイに手早く拭け。反応が始まると面倒だ」
ポコポコと、実験テーブルに広がった液体が泡立ち始めます。
少し経つと無数の白い斑点模様が浮いてきて、黒い斑点が中央に寄ります。
そして目玉が無尽蔵に生まれます。
そこからは果てしない増殖が繰り返されますな。
サルトン博士の助手を務める私には、これから始まるヤバイ状況が
手に取るように分かっちゃうのでございます。
〈ニンゲン〉どもに一撃で倒される〈マのモノ〉……《スライム》。
命儚き最弱の〈マのモノ〉、《スライム》。
量産される悲哀の〈マのモノ〉、それが《スライム》。
きっと彼らも、ここで私に拭き取られるのは本望ではないはず。
だが……約束しましょう同胞よ。
お前の仇は、いつか必ず(誰かが)取るッ!
だからこれ以上、ポコポコ生まれないで。
「オラ急げ」
もはや一刻の猶予もございません。
とにかくできる限り早く、実験テーブルにこぼれ落ちた『ベトベトしたモノ』を
一滴残らず処理しないと――
「お、おお、おおお、お出でになられますぞォォォォ!」
な、なにぃ!
「やはり実験室でしたかサルトン博士! 遂に、遂に我らの主が降臨なされ――ッて、いつものように〈マのモノ〉製造など呑気にしている場合ですか。すぐに【悪代官サマの間】まで大至急お越しください!」
「それどころじゃねェ。オイ坊主、とっととキレイにしろ。モタモタしてッと、完全に手が付けられなくなる」
と、その時、ムキムキの《リザードマン》が開け放ったドアの向こう側から、
さらに大きくなった歓声がワイワイ・ザワザワ・ガヤガヤと響いてまいります。
「おっと、こうしちゃいられない! とにかく参りますぞ、サルトン博士。後片づけは、そこのモノに任せて」
「混ぜるんじゃないぞ坊主! そのパープル種は、データの取れてない希少種なんだからな! どんな変異を遂げるか分かったもんじゃ――」
そうしてサルトン博士は補足情報もそこそこに
《リザードマン》のムキムキの太い腕に引きずられるように
【サルトン実験室】を出て行きます。
この私を残して。
『召還の儀式』のすべてを任された、はずの私を残して。
もう用済みになった私を、こんなジュクジュクしい場所に置きざりにして。
「はっ!」
またも素早く我に返ります私。
しかし、先ほどとは明らかに違う点が……?
痛いくらいに背中をグリグリ圧迫してくるのは、生命の危機を感じさせるほど、
そりゃあ尋常じゃない、ただならぬ殺気にございました。
「なななななあッ! お……お前は誰だッ、ゼンッゼン弱そうじゃないぞ……」
ザザザザッと、急速にうねりを上げる紫色の《???(巨大粘液)》!
か弱い私に覆いかぶさるように、ヤツは『↑』へ向かって伸びる伸び~るッ!
一時代前に大流行した、まるでどこかの国のアイスのよう。
きっと味はグレープだ。
「ハナシが……いや、設定が完全に崩壊しとる……」
こちらの状況などお構いなし。
完全に閉め切られた【サルトン実験室】のドアの向こう側から
歓喜に沸く〈マのモノ〉たちの楽しげな声がしてまいります。
「〈新悪代官サマ〉のォ、おなぁーーりーーー」
こんな時に……な、なんてイマイマしいんだ……。