紫煙に煙る廃屋と殺し屋
饐えた臭いが充満する廃屋の一室で、一人の男が、黒ずんだ血液が付着した椅子に腰掛けている。
臭いの原因は明らかだった。
男の目前に積まれているのは、過去に人間として、この世に存在していた肉の塊たち。
塊の周りには無数の蝿が集り、塊自身には蛆が涌き上がり、矮小な身体を蠢かせていた。
男は虚空を眺め眺めながら、煙草に火を付ける。即座に紫煙が立ち込め、甘ったるい匂いと饐えた臭いが混じり合い、形容のし難い複合臭が部屋に満ちる。
部屋に据えられた、たった一つの扉が重い軋みを上げながら、開かれる。
その音はまるで、死の直前に人間の喉が鳴らす、断末魔のようであった。
首を動かし、扉の先にいる何者かに視線を這わせる。
扉が閉まる音と同時に、入ってきた女が嫌悪の表情を浮かべながら、鼻を塞ぐ。
「少しは自重しなさい」
研ぎ澄まされた声音が室内に響く。
女が男の側に近付くと、男の口元から微笑が漏れる。
「我慢しろと? 塀の中で何年我慢したと思ってる? 」
「当然の報いじゃない。また、あの生活に戻りたいの?」
長く伸ばした黒髪を掻き上げながら、女はまるで糾弾するかのように男に問いかける。
男の口が開いては閉じるを幾度か繰り返される。暫しの沈黙の後、男が口を開く。
「別に構わない。衝動に身を委ね、罪を重ねる事で自らの命が奪われるとしても、それならそれで構わない。俺は実際にそれに値するだけの事をしているわけだからな」
それを聞いた女の口から、呆れにも似た嘆息が漏れる。
「だからと言って、今度ばかりは捕まってもらうわけにはいかないのよ」
一息入れるかのように、黒塗りのスーツの胸ポケットから煙草を取り出し火を付ける。
「あなたの本業は殺し屋。それを忘れてもらっては困るわ。サイコパスだが、シリアルキラーだか知らないけど、それ以前にあなたは殺し屋」
血と蛆に塗れた肉塊を指差しながら、男が言う。
「仕事はしっかりとこなしている筈だが。礼こそ言われるなら兎も角、文句を言われる筋合いはない」
女の煙草は既に根元部分に差し掛かっている。紫煙を吐き出す際の吐息には、露骨な怒りが込められている。
「やり方に問題があると言っているのよ。塀にぶち込まれたのも、それ故でしょう?」
煙草を床に捨て、踵で火種を揉み消す。
「これが、俺のやり方だ。文句があるなら、わざわざ俺なんかに依頼を持ち込まなければいいだろう」
苦虫を噛み潰したような顔をして、女は二本目の煙草に火を付ける。
「本当なら私だってそうしたいわ。でもね、上の連中があなたを使いたがっているのだから、仕方ないじゃない」
女の声音は、まるで子供がするような拗ねたものだった。それに対して、男は嘲笑で返す。
「結局俺もお前も連中にとっては、ただの駒でしかないわけだ。まぁ、何で俺みたいなはみ出し物を使うのかは分からないが……」
再び部屋に沈黙が流れる。
先程の沈黙よりは、若干ではあるが、場の空気は穏やかになったような気がする。
沈黙の中、お互い煙草を吸い合う。
蝿の立てる羽音だけが、室内に響いていた。
ふと女が、男の持つ煙草に視線を這わせる。
「何年経っても、その煙草なのね」
指に挟まれている煙草に視線を落としながら、男は答える。
「今更変えるのも面倒だからな。何より俺は、仕事後に出る臭いと、この煙草の甘ったるい匂いが、混ざり合った臭いが大好きなんだ」
湛えられていた微笑は一瞬の内に瓦解し、蔑みへと変わる。その視線は同じ人間に向けるような眼差しには到底思えない。
「とんだ変態だわ、あなた」
「よく言われる」と言って、口元を僅かに歪める。
その刹那、羽音を遮るかのように天使音が鳴り響いた。先程と同じように、踵で煙草を揉み消した女は、焦る様子もなく、コールが二桁に達するまで待ってから、やっとことで着信に応じた。
数秒の会話の後、嘆息を漏らしながら、男に告げる。
「仕事よ」
男は立ち上がり、黒い生地のジャケットを羽織る。座っていたから分からなかったが、男の身長は優に百八十センチを越えていた。
男は返答を返す事もなく、黙って扉へと向かう。
「了承と理解していいのかしら?」
「最初に言った筈だ。衝動を満たせるのならどんな仕事でも構わない」
「そう……詳細は車の中で話すわ」
扉が軋みを上げ、開かれる。
男が出て行ったのを確認してから、女はタイマーの付いた爆弾と思しきそれを、先程まで男が座っていた椅子の上に置き、男の後を追い、部屋を後にする。
室内に残されたのは、肉塊と蝿と蛆と、爆弾。時を刻むタイマーの音が静謐とした室内に響く。蝿たちは刻一刻と近付く死期に気付く事もなく、肉塊の周りを踊っている。
ーー車が上げるエンジン音が次第に遠ざかって行く。
静謐とした時間に終わりを告げる爆発音が廃屋全体を瓦解させる。
ーー爆発音は車内にまで届いていた。
後部座席に座る男が盛大に笑い声を上げる。
助手席に座っている女に向かって、まるで過去を懐かしむような声音で男は語り掛ける。
「お前も変わらないな」




