[結] 三回目のきょう
[結] 三回目のきょう
次の日、三年二組の教室では、ミナの回りに人だかりができていた。二回目のきょうのときと同じ。ちがうのは、話題の中心がミナではなくタロだったこと。
「それにしても、タロ、すごいよな」
「そうだよ。トラックに突進して、運転手に気づかせようとしたんだろ」
「タロが気づかせたから、事故があれだけですんだんでしょ」
「急ブレーキかけたらしいからね」
「ミナちゃん、どうやったら、あんなかしこい犬にしつけられるの」
「どうやってって。わたしにもわかんない。かしこかったのは、きのうだけかもしれないし……」
「どういうこと?」
「今朝ね。じゃ学校、行ってくるよ、ってタロにあいさつしたのよね。でも、タロ、知らんぷりでさ。おっきいあくびしてんだから」
先生が教室に入ってくると、みんな自分の席に戻っていった。先生は事故のことは知らないみたい。先生は別の町に住んでるし、児童がだれもけがしなかったんだから、知らなくて当然かも。
先生は教壇に立つなり、みんなを見回して、いきなり、こう言ったのだ。
「はい、みんな、ノート開いて。いまから漢字書き取りの宿題、出すからね。たっぷりあるわよ。あさっての国語の時間までには忘れずにやってくるの。わかったわね」
「ええっ、なんでー」
「そんなーっ」
「先生、言ってたじゃん。当分、宿題出さないから安心して、って」
「そうよ、そうよ。まだ夏休み気分が抜けないでしょ、だから、ゆっくりしなさいって」
先生は手をたたいて、言った。
「はい、はい、静かにしなさい。確かに先生そう言ったわ。でもね、思い直したの。みんな、まだ夏休みぼけしてるでしょ。これじゃいけない、すぐに勉強する習慣に戻してやろって。これって、先生の愛のムチなのよ。これからはきびしくするからね。みんな、甘えちゃダメよ」
教室中にひびき渡っていたブーイングの嵐は、しばらく消えなかった。
先生の言うには、きょう、学校に来てから急に気が変わったんだって。ぼくは、その理由に思いあたるところがあった。そう、ぼくが過去を変えてしまったために、未来の形が少し変わってきているのだ。
ここからはぼくの想像だけど、先生の気が変わったのは、次のようなことが起こったためじゃないかと思う。
きのうの事故では、だれも足を折らなかった代わりに、ショーウィンドウが割れて、マネキンの足が折れてしまった。洋服店のおじさんはしかたがないので、「洋服展示はお休みします」とでも書いて店に張っておいたとしよう。おじさんには、たまたま六年生ぐらいのこどもがいたとして、そのこどもが「おとうさん、ようふくなんとかは休みますって、なんのこと」とたずねたとしよう。するとおじさんは「なんだ、六年にもなって、こんな字も読めないのか」とこどもをしかったとする。たまたまそこに、そのこどもの先生が服を買いに来ていたとして、おじさんは「うちの息子、こんな漢字も読めないんですよ」と先生にぼやいたとする。その先生が、今朝、ぼくらのクラスの先生に「こんなことあったのよ」と話をしたとして、ぼくらのクラスの先生は、これではいけない、と思い立って、急に書き取りの宿題を出す気になった。
とまあ、こんなところかなと、思うのだ。もちろんすべて想像だけど。
ぼくはノートを広げて、一段目に先生が黒板に書いた漢字を書いていった。この漢字を一番下の段まで書いてくるっていうのが宿題になる。「なんで、こんなことになるんだよ」とぼやく声が聞こえる。先生はそんな声を無視して、黒板に漢字を書き続けるのだった。
ぼくはノートに漢字を書いていて、ふと思い出した。
(そうだ、このノート。最後のページどうなってるんだろう。あの手紙、まだあるのだろうか)
ぼくは、どきどきしながら、最後のページを開いた。そこには、「ケンジへ」と書かれた手紙と、あのときと同じように、古くさい四つ折りの紙が挟んであった。
ただ、手紙の内容は全然ちがっていた。
ケンジへ
おもしろいこと教えてやる。ミナんちのタロには、重大なひみつがある。あれ知ったとき、ぼく、ほんと、びっくりしたんだから。
手紙はたったこれだけ。今回のこの手紙、ぼくは見覚えがあった。そうだ、確か一学期のはじめ、「お話を作りましょう」ってテーマの授業のとき、思いついたアイデアを書きとめておいたものだ。ぼくは、四つ折りの紙に書いた内容も思い出した。紙を広げた。そこには、犬だかタヌキだかわからないような絵が描いてあった。そう、これもぼくが描いたもの。タロは実はタヌキだったんだ、ってそんな話のアイデアを書いたメモだったのだ。
ぼくは絵を見て、思わず笑った。そのあとあわてて回りを見回した。にやにや笑っているところを、だれかに見られたんじゃないか、と思ったから。となりのミナがチラッとぼくを見たけど、先生やほかの児童は、みんな書くことに一生懸命になっていた。
タロになったことがあるぼくは、いま、タロの本当の秘密を知っている。実はタロは、タヌキ――、じゃなく、本当は××だったのだ。
さて、ややこしいできごとは、これで一件落着ということになるんだけど、きのうタロに乗り移っていたぼくが、どうして人間のぼくに戻れたのか、そのことだけは説明しておかねばならない。人間に戻ったといっても、タロが人間の姿になったわけではない。もともと人間のぼくがそこにいて、からだはまったく変わらずに、ぼくの心だけが人間のぼくに戻ったってことになるんだけどね。
きのう、タロだったぼくは、緑の森公園でミナと人間のぼくとフライングディスクで遊んだあと、一緒に家の方に歩いていた。人間のぼくが、ぼくの首ひもを持っていた。そのあとのぼくの行動は、ぼくにもうまく説明できない。ぼくの意志とは関係なくからだが動いたのだから。
ぼくらが、学校の校門までやってきたときのことだ。校門の端っこに、小さい児童なら、ぎりぎり通れる程度のすき間があった。タロのぼくはいきなり、校門のすき間を抜けて、校舎に向かって走っていった。
「おい、なんだよ。タロ、待てよ」
人間のぼくが声をあげた。ぼくは人間のぼくを引っぱって、校舎の方に走っていく。ミナも、あとを追いかけてきていたと思う。ぼくは、校舎のうらに回った。そう、ぼくがタロに乗り移ったときの場所。その場所に来て、ぼくは振り返った。人間のぼくが不思議そうな目でぼくを見ていた。ぼくは人間のぼくの前で、くるりくるりくるりと三回回った。そして、ワンと鳴いた。
次の瞬間、ぼくは人間のぼくに戻っていた。ちょっとややこしいけど、きのうの記憶は、人間としてのぼくの記憶と、タロだったときのぼくの記憶が、混じり合う形になったのだ。タロはと言えば、普通の犬に戻っていた。
こんなふうにして、ぼくは人間の姿に戻ることができたのだ。
あのできごとから三週間が過ぎた。きょうは待ちに待った運動会だ。
三年生の集団演技「つるぎの舞」の出番。ハチャなんとかって作曲家のものすごくテンポの曲に合わせて、踊りながら運動場を回る。ぼくとミナは手をつないで駆け回った。途中からミナひとりだけが運動場の中心に行った。ミナが踊る。ぼくらはミナの回りを巡った。ミナの踊りは躍動感あふれるものだった。つるぎを大きく振り回し、決めどころでぴたっと決める。ミナがつるぎを天に向けたところで、演技は終わった。会場から大きな拍手があった。
徒競走は、もちろんぼくの独壇場だ。もともと足の速い児童と一緒に走るんだけど、ぼくはぶっちぎりでテープを切ってやった。プログラム最後のチーム対抗リレーでは、おとうさんやおかあさんの声援を受けて、全力で走りきった。
ぼくもミナも、もし交通事故にあっていたら、こんなふうにはできなかっただろう。あのできごと以来、ぼくは過去に戻っていない。戻ってみたいと思ったことはあるけど、手順を書いた紙もないし、あまりにも複雑な手順を忘れてしまっていた。教室を出て、廊下を右側通行で北階段まで行って、三階に上って六年生の教室を通って南階段を一階まで下りて……。ああ、ややこしくてわけがわからない、って感じ。
まあ、過去に戻らなきゃいけない用事もないし、あのできごとって、もう忘れてもいいんじゃないの、と思うのだ。
ただ、気になることがひとつだけ残っている。ぼくはミナにたずねた。
「ねっ、タロってどうしてタロって名前にしたの」
「だって、そんな顔してるじゃない。なんか男っぽくて、かっこよくて……」
「でも、タロってほんとは女の子なんだろ」
「えっ? そうなの? そういや変だと思ってたのよね。散歩連れてっても、オシッコの仕方、オスっぽくなかったし……」
「なんだよ、ミナ。飼い主なのに知らなかったの?」
「うん、だって、パパもママも教えてくれないんだもん。でも、ケンちゃんこそ、どうして、そのこと知ってんの?」
「どっ、どうしてって……、ぼく、そんな気がしただけなんだけど……」
ミナは不審そうな目でぼくを見た。
ぼくがどうして、そのこと知ってるかなんて、ミナには絶対あかせない。
だってさ。もしあかしてしまうと、ぼくが、ミナのパンツ見てたったこと、ばれちゃうじゃないか。ミナが怒ったときってものすごくこわいんだから、ライオンににらまれるくらいこわいんだから。
ミナがサクランボのパンツはいてたって、このことはぼくしか知らない。
絶対の絶対の絶対の秘密なのだ。
(おわり)




