押入れの中
「何処に逃げたって必ず見つけ出してやるから」
腐った魚のような目を大きく見開いて、俺の部屋のベランダの下であの女は甲高い声で笑っている。
嫌な汗をぐっしょりとかいて目を覚ました。よかった。夢だったのか。
悪夢だと思った。ストーカーなんて言葉は俺には無縁だと思っていた。だいたい俺はイケメンでもなんでもない。何処にでもいる平平凡凡なフリーターだ。あの女と出会ったきっかけは些細なことだった。道ですれ違った時、腕がぶつかり、女がよろけて倒れそうになったので急いで身体を支えて謝った。それだけだ。薄汚れたワカメみたいに絡まった長い髪に腫れぼったい目をしたその女は、蜂蜜をねぶるみたいに舌で分厚い唇を舐めまわしながら俺を見てねっとりと笑った。
「何でもないです。ありがとう」
そう言った途端、いきなり俺の手を握ってきた女の掌はベトベトと冷たくて、俺は急いで手を引っ込めて逃げるようにその場を離れた。後をつけてきた様子はなかったのだが、数日後、女はケーキの箱を持ってアパートの入り口で待っていた。
「あの、この間はありがとうございました。これはお礼です。受け取ってください」
俺は断ったが、今にも泣きそうな顔になったので、軽く礼を言って箱を受け取った。それが間違いだった。
部屋に入り、ケーキの箱を開けてみると、手作りなのだろうか、ぶかっこうなカステラに生クリームをぶちまけて真っ赤な苺を溢れんばかりに乗せたショートケーキが入っていた。でもその臭いは糞尿のようで当然、食べる気はしなくて、そのまま捨ててしまった。
女は次の日もアパートの前でケーキの箱を持って待っていた。さすがにその時にはこの女、かなりやばいんじゃないかと思った。
「あの、もうお礼はいただきましたから、これ以上は受け取れないです。せっかく持ってきていただいたのにすみません」
出来るだけ穏やかにそう言うと、女を置き去りにしてアパートに逃げ込んだ。
部屋に入ってしばらくすると、どすん、とドアを蹴ったような音がした。
「食べてください。美味しいから食べてください」
そしてドアを揺らすガタガタという音。
いったい何だっていうんだ!
「食べてください、食べてください」
女は小さな声でずっと呟き続けている。
俺は耳を塞ぎ、ひたすら時間が経つのを待った。
三十分もたった頃、音は聞こえなくなった。恐る恐るドアの前に行ってみると、新聞受けからぐちゃりと潰れたケーキの箱がはみ出していた。無理やり押し込んだせいでクリームが箱の隙間からはみ出している。
その後、女は連日のようにケーキを持ってきた。新聞受けに押し込まれるのも嫌なので、仕方がなく受け取ってはそのまま捨てていた。
「あの、食べていただけましたか?」
気味の悪い笑みを浮かべて女が聞いてくるたびに、俺は曖昧な返事と愛想笑いで答えた。
いつかはあの女も飽きて止めるだろう。そう思ってひたすら我慢し続けた。
ある日、買い物をしていつもより遅い時間に家に帰ってみると女はいなかった。が、ドアの前に見覚えのあるゴミ袋が置かれていた。嫌な予感がした。袋は開いたままで、異臭がし、蝿が飛び交っている。覗いてみると、そこには俺が捨てた女のケーキ。しまった。捨てたことがばれた。急いで辺りを見回したが女はいない。少しほっとして部屋に入った途端、足が震えた。部屋の中はありとあらゆる物が散乱し、テーブルやテレビが横倒しになっている。壁に貼られているのは一枚の紙。そこには真っ赤な字でこう書かれていた。『嘘つき』と。
その震えるような字を見ているうちに全身ががたがたと震えだした。
あの女、俺の部屋に入ったのか!
慌てて部屋のクロゼットの引き出しを開けた瞬間、悲鳴をあげそうになった。
衣類の全てに茶色い手形が付いていた。触って見るとネバネバするうえに吐き気のするような臭いがする。
警察に届けるべきだろうか。いや、それよりも一刻も早くこの状況から逃れないと危険だ。
俺はその日から友人の家に泊まり、二日後の昼間にアパートを引っ越した。
もともと荷物は多くはなかったから引っ越しは簡単だった。今のアパートは前のところからかなり離れた場所にある。電車の路線も違うし、もう二度とあの女に会うことはないと思っていた。今度の部屋は二階で前の部屋よりもちょっと広くてなかなか快適だ。何よりもあの女から解放されたことが嬉しかった。だが、最近になってまたあいつが夢に出てくるようになったのだ。
部屋にはもともと小さなクロゼットがひとつ置かれていた。白木のそれは不動産屋によると昔の住人が置いていったものらしい。引っ越して一週間ほど経った頃、コンビニに行こうと金を財布から出してジーンズのポケットに入れている時、百円玉を一つ落としてしまった。床を転がった百円玉はクロゼットの裏に入り込んでしまったが、壁の隙間が狭くて手が入らない。仕方がなくクロゼットをずらしてみると、壁に何かがあるのに気が付いた。今度は横にずらしてみる。そこには一メートル四方の小さな木の扉があった。押入れだろうか? それにしては小さいしどうしてこんなところにあるのか。俺はそっと扉の取っ手を引っ張って開けてみた。奥行きは二メートルくらいだろうか。何も入ってはいなかったが手を突っ込んでみると冷蔵庫の中のように冷たい。長い間閉じ込められていた空気に気分が悪くなり、扉を押して閉めた。ただの押し入れだ。でも何か心に引っかかるものがあった。はっと気が付いてアパートの外に出た。アパートの側面の壁には出っ張りは何もない。俺の部屋は一番端なのだ。だとしたら、あの押入れのスペースは何処に向って突き出しているのだろうか?
部屋に戻り、押入れの空間を見つめていると黒光りしたゴキブリが一匹、中に這っていくのが見えた。虫は苦手なので思わず扉を閉めてしまった。しばらくは中でかさかさという音が聞こえていたが、やがて何も聞こえなくなった。ゆっくりと扉を開けてみるとそこにはやはりゴキブリがいた、が、まったく動かない。ボールペンでこわごわ突いてみると何だか妙に柔らかい。引き摺るように外に出してみるとそれは駄菓子屋で売っているようなゴムで出来たゴキブリの玩具だった。これはどういうことだ。さっきまで、こいつは生きたゴキブリじゃなかったか? それにここには何も入っていなかったはずだが。
まさか……いや、ひょっとしたら。馬鹿馬鹿しいが試してみる価値はあるかもしれない。
俺は翌日、ペット・ショップへ行き、モルモットを一匹買ってくると押入れの中に入れてみた。数分後、ゆっくりと扉を開けてみると中にはモルモットのぬいぐるみが入っていた。もう間違いない。この空間は生物を模型に変えてしまうのだ。これは、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。だが、今はこのままにしておこう。とりあえずクロゼットを動かして扉を隠す。やっぱりこんな異空間が目の前に見えているのは何となく不安だった。
やがてバイト先が見つかり、多忙な日々が続くうちに、奇妙な押入れのことは心の片隅に追いやられてしまった。
その日は一日中、耐えられないほどの暑さだった。バイトから戻ってくるとアパートの入口にあの女が立っていた。ケーキの箱を持って。
女は俺の顔を見ると満面に笑みをたたえてこう言った。
「やっと見つけた。今度こそ食べてくださいね」
ぞっとした。いったいどうやって俺の居場所を探り当てたのか。またこいつに付きまとわれなければならないのだろうか。
だとしたら……もう方法は一つしかない。俺は女に声を掛けた。
「あの時はごめん。今日は食べさせてもらうよ。それから、よかったら上がっていかない?」
女は俺が拒絶する態度を取らなかったことに少々驚いているようだったが、俺の後からいそいそと階段を上って来た。
部屋に入ると女は床に座り、嬉しそうに辺りを見回していた。
「いい部屋ねえ。あたしもここに引っ越してこようかな」
そう言いながら見せる笑顔は発情した豚そっくりで吐き気がした。
「あたし、まだ名前を言っていなかったわね。サオリっていうのよ。亮哉くん」
お前の名前なんて知りたくもないしどうでもいい。
「なあ、いいものを見せてやるよ」
クロゼットを動かし、押入れの扉を開けてみせる。
「ここの中、ちょっと涼しいんだ。入ってみてよ」
「あたし、狭いところ苦手なの。でも亮哉くんが一緒ならいいわよ」
ちょっと甘えたようなその声が、ずうずうしいその言い草が、媚を売るようなその目付きが神経を逆撫でした。吐き気が強くなり、頭痛がする。入らないのか。だったら無理にでも入れてやるさ。台所に置いてあったビニール紐を手に取り、ゆっくりと女に近付いた。
動かなくなった女の身体を押入れに突っ込み、扉を閉める。動悸の止まらない心臓を鎮めようとコーヒーを啜る。大丈夫だ。絶対大丈夫だ。
やがて扉を開けてみると中には服を着て首にきつく紐を巻いたマネキン人形が入っていた。生きている時には不格好だった体型はマネキンらしくスリムになっていたし、顔だって数倍ましだ。こいつは俺に感謝すべきじゃないのか。マネキンの服を脱がせ、手足と首を外した。胴体も上半身と下半身に分けた。服と靴とバッグをビニール袋に入れ、押入れの奥に放り込む。明日になったら何処か遠くに捨ててこよう。もちろん、保険証などは焼き捨てる必要があるが。
夜中になるまで待って段ボール二箱にマネキンを詰め、自転車に乗せて少し遠くにある廃材置き場まで捨ててきた。重く垂れこめた雲の下、積み上げられた廃材の間にバラバラになったマネキンの身体が無言で横たわっている。その様子は前衛絵画のようで、もとが人間だったことなど微塵も感じさせない。完璧だ。
部屋に戻ると自然に笑みがもれてきた。あの押入れはきっと俺を気の毒に思った神様からの贈り物に違いない。やがて雨粒が窓ガラスを激しく叩き始めた。一時間ぐらい、ぼうっとテレビを眺めていた。そう言えば、何も食っていない。カップラーメンを取り出し、水の入ったヤカンを火にかけようとしてうっかり下に落としてしまった。派手な音をたてて落ちたヤカンから水が流れ出し、キッチンの床を見る見るうちに濡らしていく。慌てて拾い上げた時、足元で何かがごそごそと歩き回っているのに気が付いた。モルモットのぬいぐるみだ。いや、濡れたその姿は間違いなく「生きた」モルモットだ。
いったいどうして……水か。水がかかったから元に戻ったのか。
……雨。 雨……?
外は雨だ。こいつはやばいかもしれない。
でも、あの女を俺がやった証拠なんてないし、この部屋には血痕一つ残っていない。
大丈夫だ。絶対大丈夫だ。
何だ?
何かが階段を昇ってくる。
びちゃびちゃと湿った足音。
ずるずると何かを引き摺るような音。
もしかしたら……いや、ありえない。そんなことはありえない!
あの女の身体はバラバラにしたし、元に戻ったって生きているわけがないんだ。
足音がドアの前で止まった。
――タベテクダサイ。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
こっ、ち、へ、く、る、な!
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数ヵ月後、この部屋へ引っ越してきた若い女性が部屋の模様替えをしようとしてクロゼットの裏に謎の扉を見つけた。ここはいわくつきの物件だった。不動産屋の話では以前いた男性は窓から飛び降りて首の骨を折って死んだらしい。だからこそ、この部屋は安いんですよ、と不動産屋は言ったものだ。だが今どき、月二万で借りられる部屋なんてめったにないし、霊感なんてものも持っていない。だから彼女はここを借りることに決めたのだ。
近所に住むおばさんが、その噂の詳しい内容を彼女に教えてくれた。ある雨の晩、残業で遅くなった二階の住人がこの部屋の前を通りかかると、中から物凄い悲鳴と何かが落ちたような鈍い音が聞こえたのだという。男は遺書も残しておらず、自殺かどうかも判らずじまいだった。それに直接関係のないことだが隣の町では廃材置き場から女性のバラバラ死体が見つかっている。あなた、よく怖くないわねえ、何か出たりしなかった? とおばさんは好奇心丸出しの顔で彼女に訊ねてきた。
だが、彼女にとっては噂なんてどうでもよかった。とにかく、今はこの押入れが気になって仕方がない。扉を開けてみると奥のほうに透明なビニール袋が置いてあるのが見えた。中には靴やバッグが入っているようだ。いったい誰のだろう? 中に入って見ると意外にひんやりとして気持ちがいい。手を伸ばし、ビニール袋を手に取った瞬間、後ろでバタン、と扉の閉まる音がした。