逃亡少女・ダルテ
殺伐とした大地を、妖の少年・昴が人間との共存を夢見て渡る!
ある日、昴は崖下に人間の少女を見つけて…?
異界を舞台に繰り広げられるラブロマンス
いくら時が過ぎて、時代が移ろっても変わらないものがある。
季節の名だ。
今は五月。
本当ならば、すでに花咲く景色になるのが普通なのに。
一本の草も育たない甲国なら話は分かる。
しかし、ここは国土の南・崔国。
どこよりも、早く春を迎える国だ。
五月だというのに、長雨のせいでいくらも暖かくならない。
崔国でも、西寄りの白圭という場所から、物語は始まった。
「あーあ、つまんねえ。なーんでみんな反対するんだかなぁ」
雨の中、まわりで一番大きな、木の枝の上に座る少年が一人。
頬杖をついて、溜息をつく彼の名前を昴という。
雨が降っていても、人間と違って、彼ら妖は雨宿りをしない。
昴は首筋に、ぺったりと張りついた銀髪を掻き上げて、気持ちよさそうに伸びをした。
雨に憂鬱になる人間に比べて、妖は雨が降ると、かえって元気になるのだ。
群れの中でも、一番末子の昴は、今年で300才になる。
300才で大人として認められ、自由が与えられるのだ。
元もと、人間に興味があったのもあり、昴は、人間の中に混じろうと考えていたのだが、それを群の者に話した結果、こってりと説教をくらう嵌めになってしまった。
「久々に顔出したってのに、小言だなんてヒデェよな…たく、せっかくの雨なのに…帰って寝よ」
大木の幹から飛び降りて、すとん、と身軽に着地する昴。
昴の一族は、孟極という豹の姿をした妖怪だが、普段は人間に似せているので、外見で妖とばれることはない。
急を要する事態を除いては、変形することは皆無に等しかった。
小雨の中を歩きながら、昴は、無機質な真白い空を、見あげてそっと呟いた。
「ほんと、つまんねぇ」
昴の家は、山奥の拓けた土地に建っている。
尾根づたいに歩いていると、すぐ傍の、崖下に人影を見つけた。
「あれは…人間だな、他の奴らに襲われた形跡はねぇ。単に墜ちたのか」
しかし解せない。
こんな場所にいるのもそうだが、何より格好が目立つ。
場違いなのだ。
少女が、着ている衣は泥に汚れていたが、決して、どこにでもあって、ありふれた物ではないことが、人間に関心を持つ昴だからこそ、分かったことだった。
「ま、どういう事かはさておき…ここは助けるべきだよな」
はち切れんばかりに、剥かれた双眸は天井を凝視する。
少女は、慌てて飛びおきた。
逃げなければ!
自分は追われているのだから…。
それにしても、ここはどこだろう?
崖から、足を滑らせたまでは覚えているが、そこから先が、すとんと抜け落ちている。
とりあえず、先を急がないと。
「いたい…」
起きようとして、ついた左手に激痛が走り、少女は小さく呻いた。
走り疲れ、所々すりむけた足は萎えて、使い物にならない。
衰弱しきっているのだ。
少女は、きつく唇をかみしめた。
早く逃げなければいけないのに、体がいうことを利かないなんて。
今、こうしている間にも、追っ手が探しているのに。
「目、覚めたみたいだな。大丈夫か?」
少女は、びくりと肩を揺らして、ベッドの中で後ずさった。
春の花のような、柔らかな目鼻立ちで、背中に流した、長い髪は淡い栗色。
ふっくらとした愛らしい、紅色の唇がわなわなと震えている。
「あ、あなた…誰なの?」
震えながら、やっと搾りだした彼女に、昴は首を傾げた。
その仕種は、たっぷりの愛嬌を含んでいる。
「俺は昴ってんだ、怪しいもんじゃねえよ。それより、大丈夫か?どこも、痛くないか?」
「…助けて、くれたのね?追っ手とか、じゃないわね?」
「それ、さっきも言ってた。うわ言で追っ手がどうとか…あんた、逃げてきたのか?」
「あ、あなたには…関係のない事よ」
ぷい、と顔を逸らした少女に溜息をついて、昴は、ベッドの傍にある椅子に座った。
「ふうん、まぁいいけどさ。名前、なんて言うんだ?」
「…ダルテよ」
少女・ダルテは、戸惑い気味に名を明かした。
上目づかいに見ているところからすると、まだ警戒は解かれていないらしい。
「ダルテ、か…珍しい名前だな。どこの出身だい?」
「青国、秧州の…玄椿宮。あら、驚かないの?」
「そりゃ、驚いてるさぁ…アンタ、王族なのか?深窓の姫さんが、どうしてあんな場所にいたのか」
昴は、茶色の瞳をしばたかせながら言った。
青国とは、国土の北西に位置する水源の豊かな土地だ。
別名『水の都』と言われる。
秧州は、その国の王族の住まう場所の名称である。
それぞれの国を治める王の中でも、密かに暴君といわれている国だ。
「逃げてきたのよ、せまっ苦しい場所からね。そう言うことだから…あたし、もう行くわね?助けてくれて、ありがとう」
ダルテは、勢いよくベッドから立ち上がり…。
転んだ。
「なっ、なんで足がいうこと利かないのよ〜…こんな時に限ってぇ、もう!他人に迷惑かけるなんて、ちっとも主義じゃないのにっ」
転んだダルテは、潰れたまま、精一杯の抗議をしている。
「ほら、ムリするからだよ…体が弱ってんだ。とりあえずベッドに戻って…戻れるか?」
「ひっ、一人でできるわよっ」
抱きあげようとした、昴の手を払って、ダルテは一歩ずつ慎重に、ベッドに戻った。
「やれやれ、気ぃ強いなぁ。なんか食えるか?食いたい物、あるか?」
「べっ、別に…」
そこまで言いかけたダルテの、腹の虫が盛大に異議を唱えた。
ぷっと吹き出して、昴は、ダルテの頭をくしゃりと撫でて笑った。
「なにがいい?桃がいいか、梨もあるぞ?」
「桃でも梨でも…」
にこにこと、嬉しそうな昴に首を傾げつつ、ダルテは室内を見わたした。
「じゃ、梨な」
勝手に決めた昴に溜息をつき、ダルテは窓の外を眺めた。
鉛色の春空は、止めどなく大地に、涙を降らせる。
雨が、降っていた。
見わたした室内は汚れてはおらず、きちんと整理されて、家具や何やらは、各々の場所に治まっていた。
室内に漂う雨の匂いが、なぜか、ダルテに森の中にいるような感銘を与える。
「ねえ」
「なんだ?気分でも、悪いのか?」
盆を抱えて戻ってきた昴に、ダルテは、ぽつりと言った。
「あなた、ここに一人なの?」
もじもじと尋ねたダルテに、昴は一つ瞠目をした。
「ああ、今はな…。見てのとおりさ」
笑った昴が、なぜか悲しげに見えて、ダルテは堪らず、その先を促した。
「今はって、前は誰かいたのね?…恋人?」
興味深そうに瞳を輝かせるダルテに、昴は、まるで子供に言い聞かせるように、ゆっくりと語りだした。
「今から500年前、この世界ができてまだ間もない頃…ひどい、本当にひどい時代があったんだ。俺たち一族を狩る者が、大勢現れた」
「昴、あなた…妖?」
こくりと頷くと、昴は、盆を小脇に抱えて背中を向けた。
「当然、俺の母さんも…例に漏れずに狩られた」
「…ごめんなさい、そうとは知らなくて。聞くんじゃなかったわ」
「いいや、いいさ。今となっては昔話…知るものも少ない」
ダルテは息をのんだ。
似ているのだ…。
皇帝軍に灼かれた、その直轄地だった自分の村。
幼かった、自分の目の前で殺された母や、姉弟たち。
似ているから、どうということではないけれど…。
「多少…境遇が似ているみたいね、あたしたち」
けれど。
強く感じた近親感に、声が、心が震えた。
「皇帝は、人狩りを命じたわ…男は皆殺され、女の幼子は奴卑に、娘たちは抗う者が殺され、その殆どが下女にされたのよ…あたしも、その中の一人だった」
きつく、掛け布団を握りしめるダルテの手を、昴はそっと包んだ。
「境遇はどうあれ、今ある命に、感謝しなければ。いいかい?」
「変わってるわ、あなた」
いきなり『変わってる』と言われるなんて思っていなかった昴だが、もう言われ慣れているので、さほど気にはしなかった。
「はは…よく言われるんだ、それが」
はにかんで頬を掻く昴に、ダルテもかすかに微笑む。
「妖って、みんな人間を襲うと思ってここに来たのに…話とずいぶん違うのね」
「え?」
初めて見たダルテの笑顔に、昴は固まってしまった。
(かっ、かわいい…!)
なんだか、眩暈がする。
心臓は早鐘を打って、痛いんだか、嬉しいんだかよく分からない。
変な気分。
それでも、いやな感じは微塵もなくて。
「昴?おーい」
放心状態の昴の目の前で、ぶんぶんと手を翳すダルテだが、ややしばらく、反応が返ってこなかった。
「あ…なんだ?」
「あたし、ここ気に入っちゃった。一緒に、いてあげてもいいよ?」
「そうか…。って、ええっ!?マジか!?」
「あら、ダメ?」
がばっと身を乗り出した昴に、ダルテは、満面の笑顔を咲かせた。
「い、いや…ダメってわけじゃあ」
「きーまり決まり、あたし…ここにいることにするわ」
「い、いきなりだな」
急に元気になったダルテに押されて、昴は冷や汗をかいた。
「優しい妖もいるんだな、と思って…。ありがと、あたしを拾ってくれて」
「れ、礼なんかいらねぇよ…俺が、したくてしたことだからな」
照れ隠しに毒づく昴だが、ダルテの返事がないので見てみると、ダルテは、子猫のように丸くなって、可愛らしい寝息をたてていた。
「北から、よくここまで…一人で逃げてこられたもんだ、しかも女の身で。感服だよ」
ダルテの栗色の髪を撫でながら、昴は微笑んだ。
雨が止んだことに気づいた昴は、天窓から空を仰ぐ。
鉛色の雲はどこかに消え去り、白雲の間から、青空がのぞいていた。
「俺…マジでやばいかな、コイツのこと…」
その先は、空に。
石青の空に、吸いこまれて溶けた。
黄塵の地に、南風がなびくのも、そう遠くはないかも知れない。