S3.『西園寺瑞樹』は不気味に嗤う
彼は周囲から掛けられるプレッシャーに一時心が崩れかけたものの、最終的には我を通しながらも『西園寺瑞樹』という立場を確立していくという意志を示した。
その志を聞いたお父様は、それならば周囲にその意思を知らしめてやらなくてはな、と唐突に燃え上がってしまった。
言わんとすることは確かにわからないでもない。今の西園寺家は、国外も含めればトップクラスを誇る影響力を有するが、国内に限ればお母様のこともあり、あまりいいとはいない状況だ。一応、鶴の一声となり得るような力こそ保持できているものの、このままいけば国内においては緩やかな衰退の一途をたどっていくことになるだろう。
弱肉強食が理となっている経済界の支配層において、周囲から侮られている状況はそういう事態につながりかねない、非常にまずい状態だ。
だから、お父様がそうしたいと思うのも至極自然な話なのかもしれない。
ただ、その副次的な影響で、彼が懇意にしている朝比奈優衣に悪影響が及ぶかもしれない、という事実はお父様でも若干ながら焦りを感じさせる事実だった。
風が吹けば桶屋が儲かる、という諺があるが、これは何というのだろうか。なんにせよ、まったく真逆の事態になってしまったのは確かだ。
まぁ、そのおかげで一時期安定しかかっていた彼の精神が再び不安定になって、私が自由に動きやすくなったのは逆に僥倖と言えたけど。
「ふふ。うふふ……くふふふふふ…………」
あぁ、愉快だ。なんとも愉快なんだ。彼が不幸になればなるほど、私が自由でいられる時間が多くなる。
周りとしては、やはり彼の方こそ『西園寺瑞樹』として見ている節が強く、私は紛い物のようにしか見てもらえない。本当は私がホンモノなのに。私こそが、『西園寺瑞樹』だというのに。
でも、私にはわかるのだ。私が再び息を吹き返したことで、止まっていた私の時計が再び動き始めたのだと。
そして――同時に、彼の時計にも変化が起き始めているのだという、事実にも。
「でも……まだです……。まだ、今は動く時じゃない…………」
今はお母様も瑞樹も、皐月も、みんな私のことを警戒している。これでは動きたくても動けないだろう。
だから今は、息をひそめて待つ時。
そっと息をひそめて……でも、これから先のことを考えて、いろいろと作戦を練らないといけない時。だから――今は、少しずつ、歩み寄るフリをしないといけませんね。
とりま、目下の目標は彼の信頼を勝ち取ることでしょう。
少しでも早く、警戒心を解いてもらわなければなりませんからね。
そう思って、心が揺れている彼に代わる形で、私なりに彼を演じてみたのですが……やはり、限界はあるようでした。
お父様は特に問題はありませんでした。お父様は特に他人の心の変化に敏感、というわけではなさそうで、一般人の中では心理洞察力はいい方なのでしょうが、とりわけそれがいいというわけでもなし。あくまでも一般人程度の心理洞察力ですから、簡単に騙しとおせました。
ただ、お母様と皐月は別格でしたね。
皐月は言わずもがなです。私と同じ、お婆様の血筋をルーツとする敏感な心理洞察力によって、私と彼の入れ替わりに真っ先に気づかれてしまいました。
彼と接しているときには見せない、小動物のような可愛い警戒心をまっすぐ向けて来るのです。それがもう可愛すぎて、思わず抱きしめそうになったのは別の話ですが……皐月の警戒心を解くなら、先にほかの人を堕としてからの方がよさそうです。
そして、皐月とは違い一族の力を受け継がなかったお母様はしかし、皐月の私に対する視線の向け方、接し方から入れ替わりに早い段階で気づいたご様子でした。
最初はうまく騙されてくれたのですが……皐月が何かアクションをとったのかもしれませんね。数回成功して以降は、彼が表に出ているときも含めて、常にピリピリとした雰囲気を漂わせていました。
ちょっと小皺が目立っていたのは言わないほうがいいでしょう。面倒なことになりそうな気がしますから。
それに、お母様には最初に行ったアプローチがアプローチですからね。ある意味では皐月以上に厄介かもしれません。
皐月とお母様……この二人は、どちらか片方では堕とせそうにありません。外堀を埋めたうえで、時間をかけてコツコツと信頼を勝ち取っていくしかないでしょう。
一度芽吹いてしまった警戒心は……なかなか消えないものですね。
変心して以降初めて表に出た時の状況が状況でした。
彼から流れ込んできた知識によるならば、他人からの評価を気にする際、もっとも重視しないといけないのが第一印象なのだといいます。
一度抱かれてしまった印象を打ち消すのに苦労している現状を鑑みれ――なるほど、確かにこの上なく説得力のある話でしょう。
あの時、激情に駆られずに動いていれば、こんなことには……と、そこまで考えて、私は考えを一度放棄した。
たらればの話など、してもしかたのないことだ。すでに結果が出てしまっているのだから。
前途多難……こればかりは時間に任せるしかなさそうですか……。
現状では、打つ手がないのを否定できませんね。
状況が変わるのを待ちながら、今はただ機会に恵まれる毎に彼と同じ日常生活を送るしかなさそうです。
――それにしても。
流れに任せるしか解決策がないと思っていた朝比奈優衣関連の騒動が、まさかあそこまであっけない終わり方を迎えるとは思いもしませんでした。
一家の大黒柱ともいえる彼女の父親が、西園寺家がらみのトラブルの危険性を察知したとはいえ、ためらいもなく部長という好待遇の椅子から立ち退くとは、思い切ったことをするものですね。
そのお陰で彼の心境も一気に改善されることがうかがえますし……この風はまた、彼に対して追い風になることでしょう。
ただ、彼は忘れ去ってしまっているか、あるいはただ気が付いていないだけなのかは知りませんが……私が気づいた、朝比奈優衣に関する情報が正しければ、おそらく彼女は――。
その時が来た時、彼は一体どうするのでしょうね。
風向きを変えることができるとすれば、その時が最寄りのチャンスと見て間違いないでしょう。
クスクス……さぁ、紛い物さん。
残された時間はあと四年半。早く気付いて、計画を練っておかないと――あとあと、とんでもない心労を抱える羽目になりますよ?