第35話 『西園寺瑞樹』は甦る?
前話においても注意書きをいたしました通り、しばらくの間人によっては不快感を感じたり受け付けられなかったりするような『無理やり』感のある展開が続きます。
苦手な人は注意してお読みください。
こうして表に出るのは、一年と一週間――いえ、二週間くらいになるのでしょうか。
私こと、西園寺瑞樹は、懐かしい空気の質感を実感して、思わず深呼吸してしまいました。
今までずっと強い力で抑えつけられていたような状態が続いていましたから、いきなり解放されたことでかえって落ち着かない、というのもありますね。
そして、久々に自分の足で床を踏みしめて歩いた感想はとても言葉にしがたいものでした。
時計を確認し、今がまだ昼食直前であることを確認します。
彼があまりのショックからろくに食事を取ってくれないせいで、私はとてもお腹がペコペコです。今なら、お父様……には及ばないかもしれませんが、お母様と同じくらいの量は平気で食べることができてしまいそうです。
自分の手で、食事がとれる。そこまで自分が『食』を求めていると気づいた時点でようやっと、その事実にも気づきました。
「お、お嬢様……? 大丈夫、ですか?」
「あ……えぇ、ごめんなさい菅野。ちょっとまだ、気持ちの整理がついてなくて」
「はい? ……まぁ、確かに、ここ最近、お嬢様はかなりお悩みのようでしたからね……。……でも、お食事くらいはきちんととっていただかないと、お体に毒です。さぁ、ちょうどよくあと少しでお昼時になる時間ですから、食堂へ向かいましょう? ……もしくは、本日もこの部屋でお召し上がりになりますか?」
「…………いえ。今日は、皆様と食べようかと思っていますので、食堂へ向かいます」
「そうですか……! よかったです…………」
菅野が自分のことのように喜ぶ姿を見て、私も思わず嗤ってしまう。顔には出さないが、心の中であざ笑ってしまう。この変化に気づかないなんて――使用人として、どうなのかしら。
内心でそう冷たくこき下ろしながら、私は身支度もそこそこに、約一年ぶりに家の廊下に足を踏み出します。
思えば、この一年。私にとってはかなり濃いものとなってしまいましたね。
始まりは唐突なものでした。朝目が覚めたと思ったら、体を自由に動かせないばかりか、知らない誰かに勝手に動かされてしまったのですから。
しかも、直後に流れ込んできた記憶の数々。それを幾度となく見続けた結果、私は強制的に、精神的に成長させられてしまいました。いえ、――変心してしまった、といった方が語弊は少ないかもしれませんね。
どちらにせよ客観的に見れば常識外れの、とても信憑性に欠ける説明の仕方ですが――事実なのですからそれ以外、説明のしようがありません。
そしてそれは、気持ちが悪い。汚された。私という人を、精神的に殺された。そう思わざるを得ない事態でした。
だって、普通、人というのは年を重ねるごとに、周囲の人間関係やそのほかの生活環境によって人格が色付けされて、やがて『個人ごとの思想』というものが明確に分かれていくものでしょう。
それが、彼の持ち込んだ記憶によって、強制的に決定づけられてしまったのですから――それはつまり、未来にいたかもしれない、この世界における本来の私が死んでしまった、ともいえるはずです。
だから――私は、彼を絶対に許しません。
こうして表に出てきたのだって――もし機会に恵まれれば体を奪い返す。そう思い続けてきたからです。
今までは彼の心の方が強かったのか、ずっと抑え込まれていて表に出て来ることはおろか、存在に気づかせることすらできませんでしたが、ある時から彼の心が弱くなって、私から干渉できるようになりました。
ただ、その頃には、半ば私の中でも諦めの念が出始めていたので、後ろ向きに物事を考え始めている彼に、なんとか立ち直ってもらおうと思ったのですが。正直、失望もいいところでしたね。
あのまま彼に勝手に動かれ続ければ、私はお父様やお母様に別れを告げることもできずに、西園寺家から離れることになってしまいます。それは、それだけは絶対に嫌でした。
だから、私はこうして表に出てきたのです。彼が今まで無自覚にそうしてきたように、今度は私が上の立場になって。
私の人生を狂わせたことについては、もうどうでもいいです。お母様の身に私と同じようなことが起きた時点で、すでにそうなることが決定づけられていたと考えればそれまでですし。
彼があの選択を取ったことだって、考え方を変えればお父様の軌跡を追うような、『庶民派』令嬢になれるかもしれない道だった。
ただ、彼の場合、中途半端なままに生活を送ってきたためにボロが出て、ああいう結果になってしまいましたけど。
ですから、私は先ほど彼にも言った通り、の最初の選択をとがめるつもりはありません。
でも。
中途半端だけは許せません。あまつさえ、その結果私まで巻き込んで両親と離れることになることを選ぶなど言語道断です。
ゆえに。私は彼を許しません。そしてそうなるに至った原因であるお母様と、その元凶であるお婆様も、許せません。とくにお婆様は。
そうやって感慨に浸りながら、そしてお母様たちにどう思いのたけをぶつけるかを考えながらも、私は懐かしい我が家の廊下を歩きます。
あぁ、お腹がすきました、何でもいいから早く食べたい、その一心で。
――なに、これ……どうなっているの?
どういうことと言われましても。元の状態に戻った。ただそれだけですよ。と、いまだに事態を飲み込めていないらしい彼に懇切丁寧に説明して差し上げます。
――元の状態? どういうこと?
つまり、本来の私に戻ったということです。あなたはやはり、贋物でしかありません。『西園寺瑞樹』を名乗るのにふさわしくない。
だから、本物の私である私を表に出させてもらっただけです。
――そんな……勝手なこと……!
勝手? 勝手って何ですか。
それを言うならあなたでしょう。勝手に私の人生を狂わせて置きながら、極限状態になったらたやすく諦めて。
そうやって勝手に私の人生を弄んでおいて、良くそう言えますね。
――それ、は……。
それに、今までと同じに戻したところで、結局あなたは私のことなど放っておいて、お母様に『諦める』と告げてこの家から出ていくおつもりなのでしょう。私の気持ちなど鑑みずに。そんな身勝手、この体の本来の持ち主である私が許すとでもお思いなのですか?
だとしたら、本当にあなたの頭の中はお花畑ですね。先ほども言いましたけど、ふざけないでください。
誰のせいでこんな状況になっていると思っているのですか。
――………………。
所詮、あなたは異分子です。
あなたの行動のせいで、どれだけ私が迷惑を被ったと思っているのですか。
謝って許されるとでも思っているのですか?
――うぅ…………。
何とか言ったらどうなのですか。
いえ、何も言えるわけがないですよね。だって、本当のことなのですから。
言っておきますが――あなたは、私という人の人生を滅茶苦茶にしたのです。私の――本来あったかもしれない、未来の私を消してしまったのですからね。意図していないとはいえ、許せることではありませんし、許す気もありません。
この――人殺し。
――………………ッ!
私の中に押し込めた彼は、私がそう念じると、ショックを受けた様子で息を呑みました。
表情をうかがうことはできないので様子はわかりませんが、どれだけ動揺していても考えることだけはするのが彼です。それに、直前の彼の思考をたどれば、あの時に起こり得た可能性のいくつかについて考えがついたようですからね。どういうことでしょうか、とさらに考えを重ね、彼が私の中に入り込んだ結果私に起きてしまったことに気づけるはずです。
現に、ほら。怯えたような感情がひしひしと伝わってきました。
――そ、そんなつもりじゃ……。
そんなつもりじゃない。つもりじゃなかった。たとえそうだったとしても、結果として、私は変化させられてしまいましたよ。本来なりうるはずだったかもしれない、未来の私になることはできずに、強制的に今の私へと瞬間的に成長させられてしまいました。それは事実です。
あなたは、未来の私を殺した。それは紛れもない事実なのです。
だから許しません。許せませんし、許すつもりもありません。
彼はなんとか私の怒りを鎮めようと謝ってきますが、今は聞く耳も持ちたくありませんからね。
無視して、食堂を向かいます。
やりようのない怒りに身を任せて早歩きで歩いていたので、少し速く食堂へと付いてしまいました。
まぁ、部屋にあった時計を見れば、普通に歩いてちょうどいいくらいの時間でしたから、当然のことですね。
それでも用意されているお席にはすでに、お母様と皐月が座っていました。
お父様がいないのは――きっと仕事でしょう。資本家と言っても、いろいろとやるべきことはありますからね。
あとは……晴香お婆様も、もう帰られてしまったご様子。記憶を探ってみると……あぁ、お婆様が急用ができたので帰ることになったが見送りはどうか、と聞かれていた気がしますね。彼は無視したようでしたけど。
「あら、瑞樹。おはよう。やっと部屋から出てきてくれたのね。まったく、例の件について、真剣に悩んでくれるのはうれしいけど、あまり心配はかけさせないでほしいわ」
よく言いますね。彼を追い詰めたのは、その『例の件』とやらを持ちかけたお母様自身なのですよ?
まぁ、そのおかげで私がこうして出てこられたのですから、皮肉なものですけれど。
「あ、お姉様! よかったです! やっとお部屋か、ら……。……………………?」
そして、お母様に続いて食堂に入った私を出迎えてくれた皐月とでしたが……お二人とも、なにやら怪訝な顔をして私の顔をまじまじと見つめています。
これは――疑念でしょうか。なにか、私ではない別の何かを見たような、そんな心境がうかがえます。
一瞬なぜそう思われるのか理解に苦しみましたが、少し考えて納得しました。ここ一年間、誰が『西園寺瑞樹』であったのかを考えれば、皐月が何を考えているかなどすぐにわかります。
その上今の私のメンタル面は、彼の記憶が流入してきた影響によって、短期間でとてつもない『変心』を遂げているのですから、別人のように感じて当たり前でしょう。むしろそう思われない方がおかしいですね。
「あなた……誰、ですか……?」
「皐月?」
「……お姉様、ではありませんよね……? 誰なのですか?」
「…………どうしたのよ、皐月。そんなことを急に言い出して……瑞樹がどうかしたの?」
お母様だけが、何もわかっていない様子。
まぁ、彼と同じなのだとすれば、頷ける話。水崎様がおしゃっていたように、所詮まがい物にしか過ぎないということでしょう。
言い過ぎかもしれませんけど。
「……そうですよ、皐月。私は私ですわ。それ以外の誰だとおっしゃるのですか」
「それはその、そうですが…………。でも、やっぱり違います。あなたは……お姉様では、ありません」
「…………」
それでも、ここにいる全員にとっての『西園寺瑞樹』が今は誰なのかを考えて行き着くのが、皐月の発したこの言葉。
今の私は……この二人とお父様にとっては、私こそが、異物でしかありません。
これまでのことを考えればすぐにわかることですが……それでもこれは、ちょっと……堪えがたいものがありますね…………。
そう、ですか……。私の居場所は――もう、ここにはないのですね。
「ふふ。――うふふふふふ…………」
「…………っ」
あら、いけない。思っていたことが外に漏れてしまったようですね。近くには私と同じく他者の感情に敏感な皐月がいるといいますのに……。
まぁいいです。
もう、ここに私の居場所がないとわかってしまった以上――私には、残された道は一つしかありません。少しだけ、向けるべき相手が変わってしまったのが残念ですが。
こればかりは致し方ないですよね。
皐月が怖がっていて、このままでは私が思っていることもすぐに伝わってしまうのではと少々冷や汗をかきかけましたが……幸いにも、助け船はすぐに出されました。なにやら複雑そうな話になりそうだと判断したお母様が、とりあえずは食事を済ませましょうと申し出たのです。
皐月はその考えには不服そうだったけれど、空腹感に負けたのか、引き下がってくれました。
そして、それだけにはとどまりませんでした。
なんと、場所と人を限定して話す機会をいただけたのです。
「……その、皐月が瑞樹を見て気にしていたことだけど……まずは、私に預からせてもらないかしら? 思い当たる節が、一つだけ……見つかったから」
「そうなのですか? ……わかりました。お母様にお任せします」
ちらちらと私のことを見つつ、考えるそぶりをしながら皐月の了承を得るお母様。しかし、同時にその顔からは『もしかしたら』という思いも感じ取ることができました。なにやら、お母様なりに仮説が成り立っている様子です。
これこそもしかしたらですが、皐月の様子から私に起こったことをお母様なりに敏感に感じ取ったのかもしれませんね。
なんにせよ、お母様と二人きりで話せる機会をお母様から用意してもらえたのは僥倖です。場合によっては、私の今の意志を伝えるチャンスにもなり得ますから。
私のことを警戒しながら食事を取る皐月にちょっとだけ悲しい気持ちになりながら、私は食後、お母様と二人きりとなったときにどのように話しを推し進めるか、静かに考え続けました。