第33話 お嬢様の葛藤
それからというもの、優衣ちゃんからはメールが一切届いていないらしい。
らしいというのは現在、私の手元に携帯電話がないからである。携帯電話は今、菅野さんの手によって厳格に管理されており、私は菅野さんが認めた場合にのみ、携帯電話の着信に応じることができる状態にある。
正しく――今の私は、『家』によって管理されている状態だ。
年末年始の集まりに気を回す余裕もないまま、私は選ぶことができない選択をどうするべきかずっと考え続けていた。
気がつけば来ていたはずの祖父母達はいつのまにか帰ってしまったらしく、西園寺邸には本来の生活リズムが訪れようとしていた。
いつもと違うのは私と皐月だろう。
私は言わずもがな。母さんに言われたこと、そして問われていること。
考えて、答えを出しなさいと言われているそれに対する『答え』を出すのに没頭していて、周囲のことなどほとんど目に入らない状態だ。
時たま部屋に入ってくる皐月の相手をすることはある。
その時の皐月の表情は、なにかを探し求めるようなもので、十日ほど前に見た時と似たような顔をしていた。
そして私の姿を発見すると安堵したような顔になり、部屋を出る時には決まって
『お姉様は――お姉様、ですよね……? ずっと、お側にいてくれますよね。いなくなるなんてこと……ありませんよね…………?』
と、泣きそうな顔に也ながら、そんなことを言い残して去っていく。
晴香婆さんによれば、皐月は氷川家の遺伝的な力で、相手の何気ない仕草や微表情から深層心理を察してしまうという。
実際問題、今私は究極の二択を迫られていて、とても悩んでいる状態だ。
皐月がそう思ってしまうのも、無理からぬ話だろう。
カレンダーを見てみる。今日は一月六日。母さんに答えを聞かせなさいと言われた期日は、明日だ。
でも、今日までいろいろ考えたけど、やっぱり答えなんて、出せなかった。でも、今日には出さないと。
明日が、期日なんだから。
優衣ちゃん達と、学校のみんなと今までよりも一歩引いた位置で付き合っていくか、家を出て、ある意味では本当の意味での自由を得るか。
そのどちらかを、明日までに選ばないといけない。
でも、どちらを選べばいいかなんて、いまだに私にはわからなかった。
どちらを選ぶべきかなんて、本当はわかっている。私は、西園寺瑞樹で――父さんの跡を継いでもらう、と言われているのだから。
それを守るなら、優衣ちゃん達とは少し離れて、うわべだけの付き合いにしないといけないのも、本当はわかっている。
でも、優衣ちゃん達との友達付き合いが楽しくて、心地よくて、離れたくないのもまた事実。
母さんはある程度なら譲歩するとは言ってくれているけど――それでも、今まで通りにはいかないだろう。それで納得できない自分がいる。
友達との今まで通りの付き合いを選ぶのか、それとも家の方針に従って友達から離れるのか。
どちらを選べばいいのか。さんざん悩んだ挙句思い浮かぶのは決まってあの言葉。
――重要なのは自分を取るのか、家を取るのかということ。
どちらを取るのか。私にとってその問いは、まさに今考えさせられていることそのものだった。
いざ問われてみれば、どう答えを出せばいいのか全く分からない、とても答えに困る質問だと思った。
その二つのせめぎ合いに、しばらく悩まされる。
しかし答えは一向に出なかった。
どうしたものかと考えた私は、ひとまず一方を選んだ場合の結果、その未来について考えてみることにした。
家の方針に従った場合は、優衣ちゃんや、他の学校の友達とは今までよりだいぶ離れた距離で接することになる。
急な態度の変化を見れば、気分を害することもあるだろう。
そしてその後も、学校の級友とはうわべだけの付き合いだけで、グループに入って積極的に話すことは難しくなるかもしれない。最悪、孤立する可能性だってあるかもしれない。
それが少なくともあと五年という期間。正直、やっていけるかどうか不安なところだ。
まぁ、そのあとは上流階級の子しか通わないようなところへ進学すればいいだけの話なのだけれど。それまでの間、どう過ごしていくか、非常に悩みどころだ。
学校の友達。私にとっての『日常』を選ぶなら西園寺家を出ていかなくてはならない。
これは、当初の予定では生活の保障さえしてもらえるならそれでも問題はなかった。
だって、私の当初の目標は、西園寺が没落してもその後の生活に困らないように備えること、だったのだから。
でも、母さんに諭されたから、私は西園寺家の令嬢を名乗るのにふさわしくなることを目標に据えていた。
現実とゲームは違う。現実で西園寺の没落の可能性が消えた以上、私はその責務を果たさなければならない。だから、その目標を掲げるのは至極当然のことだったはずだ。
――そう、当然のことだった、はずなのだけれど。
母さん指導の下、マナーや上流階級での暗黙の了解など、そしてそれに付随する形で身の振り方なども身につけてきた。全部、順調に進んでいた。はずだったのに。
でも、そうではなかった。
ウインターパーティーの時に投げかけられた、水崎財閥の夫人の言葉。
たった数分の間だったのに、それまで構築してきたアイデンティティーが崩されてしまった。
あの時は反発してしまったけど――今になって考え直してみれば、頷ける話だと、思えるようになってしまっていた。
うわべだけのお嬢様。中身が伴っていない、形だけのお嬢様。どこまでいっても令嬢擬き――贋物にしかなれない半端者。
いくらそれらしいことをしていたとしても、やっぱり私が西園寺家の令嬢になるなんて、無理だったんだ。
公立の小学校に通うことを選んだ時点で、私の、西園寺瑞樹としての『お嬢様生活』は詰んでいたのだ。
それに――一度築いてしまった友達関係をなかったことにするのは、とても辛い。まして、優衣ちゃんとは方向性は違えど『普通とは違う』という共通点から、短い期間でとても仲良くなってしまった。
いまさら、一線を画するなんて、できるわけがなかった。
でも、と。
だからといって、今のまま友達関係を継続させる、という選択に踏み切ることは、そう簡単にはできなかった。
だって、そうすれば、今度は母さん達と――この、『西園寺家』という家から出ることになる。母さん達もまた、私にとってはとても大事な存在なのだ。別れられるわけがない。
どちらを選んだ場合でも、なにかを捨てなければならない。
どうして、なんで、なぜこんなつらいこと考えないといけないのか。
苦しみながらも、しかし答えは――すでに、私の中では出かかっていた。
うっすらとだけど、出かかっていた答え。でも、自覚できなかった。したくはなかった。だって――大事な人と別れるのは、辛いから。
それでも――答えは、出さないといけない。どちらかを選べ。そう言われているのだから。反論は許さない、と声なき言葉でそう言われてしまったのだから。
――すなわち、私には……家を取ることはできない、と。
自分を取るのか家を取るのか。
あれこれ考えてみたけど、私には家を取るなんて――そんな大それたこと、できそうもない。
純粋に『子供』でなににも染まっていないがために、これからいかようにも染めることができる皐月の方が、後継ぎにふさわしいくらいだ。
どれだけ頑張ったところで、私は――中身が、庶民なのだから。
認めよう。
私には――こんな豪邸でのお嬢様生活なんて似合わない。他の誰かが許しても、私自身に受け入れられるような器ではなかったんだ、と。
諦めよう。
今までやってきたこと。全部、無駄になってしまうけれど。
めったにできない、いい体験だったと割り切れば、それで済むこと。
私には、私にふさわしい生活というものがある。それは――前世の記憶がよみがえったあの時から、私の中にすでにあったこと。
考えてみれば、別に大したことでもないんだ。だって、元の生活水準に戻るだけなのだから。
――本当に、それでいいの?
ふいに、頭の中でそんな声が響いた。
なんだか、前にもそんなことがあったような気がするけど、前の時よりもかなり鮮明だ。
私はその頭の中の声にも、語り掛ける。
このまま今までのように、母さんにあれこれ指導される毎日を過ごすのも、あるいはありなのかもしれないけど――この前までとは違って、かなり行動を制限されてしまうはずだ。
正直、それに耐えられるほど、私は強くない。
――本当に諦めるの? あれだけ気合を入れて頑張っていたのに?
あんなの、周りから見れば頑張りでも何でもない。ただのおままごとにしかみられていなかった。
母さんだって言ってたじゃないか。重要なのは私がどう頑張っているかじゃなくて、誰にどう見られているのかだって。
どれだけ頑張ったって、結局『本物』からしてみれば、ただの道化師にしか過ぎない、と言われてしまったのだ。
無理に決まっているじゃないか。
――たった一度の失敗だというのに、それで諦めるというの? 意気地なしですね。
意気地なしなんかじゃない。現実を受け入れたんだ。
私にはできなことなんだと、気づいた。だから、諦めたんだ。
私には私でふさわしい生活がある。それに気づいた。だからそちらを選んだ。それだけでしかない。
できないことを認めて、それを乗り越えるのもできないと気づいて、でも無駄に足掻き続ける。そんなの――やっていても悲しいだけだから。
『…………、そうですか。頑張っている様子を見てもしかしたらと思いましたが……』
「……え?」
考え事をしていた時のまま、ベッドに膝を抱え込んで座り、じっと下を向いて頭の中に響いてくる声に心の中で言葉を返し続けていたが、急にその声は頭の中からではなく、前方から聞こえるようになった。
急な変化に驚いて声のした方向――正面を見てみればそこには、透き通ってこそいるものの、寸分違わぬ姿で私自身が私を見下ろす形で立っていた。
『正直、あなたには失望しました。もう、いいです』
「…………わた、し……?」
『えぇ、そうですね……。付け加えるならば、勝手に身体を奪われたばかりか、好き勝手に人生を狂わされた本来の私です』
私は私を見ながら、そう言ってきた。
その目はどこまでも凍てついていて――その声も、どこまでも今の私を蔑むような声色だった。