第32話 西園寺瑞樹の支柱が砕ける時
年末年始ではあるが、早朝の鍛錬は普通に行われている。
今日も朝早い時間に起きて動きやすい服装に着替え、敷地内に建てられた道場に向かおうとすると、部屋を出る直前に菅野さんに呼び止められた。
「お嬢様、おはようございます」
「あ……おはようございます、菅野……」
「奥様より伝言を預かっております。今日は早朝鍛錬の前にお話があるそうです。ついては、携帯電話を持ってくるように、とのことでした」
「え……? はい、わかりました……」
なんだろうか。昨日の茶会の時の話もあって、昨晩の母さんの顔を見た時と同じような不安感に襲われる。
それと同時に、とても嫌な予感も。
とにもかくにも、母さんを待たせるわけにはいくまいと、私は言われた通りに、携帯電話を持って道場へと移動した。
そこには――入り口に背を向けて、静かに黙想をしている母さんの姿があった。
母さんは、私が入ってきたのにすぐに気づいたようだった。
しかし、私の方には振り向かず、そのままの姿勢で私達に厳しい口調で、まずはいつものように着替えてから定位置に座るよう、促してきた。
指示に従って道着に着替えて、いつも通りの位置取りで座り、母さんの様子をうかがう。しかし、私が座って数分が経過しても、母さんは微動だにしない。
「あの――」
「……まずはおはよう、瑞樹」
沈黙に耐えかねて母さんに声を投げかけて、それでようやっとあいさつ。私達に向き直ってくれた。
でも、その顔が、纏う雰囲気が、とても、普段とは様子が違う。日常の、基本的に穏やかで柔らかい物腰ではなく――そう、例えるなら抜き身の業物のような、ピリピリとした雰囲気。
先ほど感じた不安が、より一層濃厚なものとなる。
なにを言われるのか怖い。聞くのが怖い。でも、とても聞かないという選択肢を取れない雰囲気であるのも確か。
「…………っ」
隣で、ひく、と声を漏らす皐月。気持ちは痛いほどわかる。
こんな母さん、この一年間で見たことがない。
私達、なにかとんでもないことをしてしまったのだろうか。そんな疑念がよぎったとき。
永遠とも思えるような沈黙が、再び断ち切れる。
それを破ったのはやはり、母さんで。
「今日は、どうしても二人に、主に瑞樹に対してお話ししたいことがあったので、稽古をお休みとすることにしたわ」
「そ、そう、ですか……」
母さんはとても固い決意と、悲しげな感情が入り混じった、複雑な表情で私にも早朝鍛錬の中止を伝えてきた。
その後一度躊躇するように俯きかけたが、一度息を深く吸って……吐いて、そして意を決したように口火を切った。
「瑞樹。菅野に携帯電話を持ってくるよう伝言を頼んでおいたのだけれど――持ってきたかしら?」
「は、はい……お稽古の邪魔になるかと思い、今は手元にありませんが……」
「そう……更衣室にあるのね。では、持ってきなさい」
「は、はい…………」
とても逆らえる感じがしない。駆け足でできる限り素早く、携帯電話を持ってくると、母さんにそれを差し出すように言われる。
若干躊躇したが、催促するように母さんに手を伸ばされ、諦めてその手に携帯電話を乗せた。
受け取った母さんは早速携帯電話を開き、そしてしばらくなにやら操作を行った。時折数秒間から数十秒間、何もせずに黙って画面を睨んでは、素早くキーを操作して、を繰り返して。
やがて、十分後くらいにその携帯電話は私の手に戻ってきた。
「…………事後になるけれど、謝らせてもらうわね。ごめんなさい、瑞樹。――あなたの携帯電話から、友達の――『朝比奈優衣』の連絡先の情報をすべて、削除させてもらったわ」
「――え?」
慌てて携帯電話の電話帳機能を呼び出す。そこに記録されているのは――母さん、父さん、皐月の電話番号と、私付きのメイドである菅野さんはじめ、私と関わりの深い使用人使用人に支給されている携帯電話の番号。
それだけしか、なかった。それ以外で唯一、登録されていた優衣ちゃんの連絡先が、なくなってしまっていた。
それだけではない。着信履歴を見てもその情報は削除されていたし、メールもすべて削除されていた。つまり、この携帯電話で優衣ちゃんの連絡先を調べる手段は、すべて失われてしまったということ。そして私は、それらを他に控えてなどいない。
その事実を知り、私は愕然とせざるを得なかった。
――ついこの間までは、優衣ちゃんとの友達付き合いに肯定的でいてくれたのに。
これは、それを打ち消すようなものだった。
勝手に携帯電話を操作されたと思えば、私に確認を取ることもなく友達の連絡先を勝手に削除するという仕打ち。
とても、耐えられるようなものではなかった。
気づかないうちに、私はこぶしを握って、こみあげてくるさまざまな激情を、必死に飲み込もうとする。
母さんは謝りこそしたが、その謝罪は極めて事務的なものだった。それは、反論は許さないという明確な意思表示であり。私が反発したところで、何も変わらないという声なき言葉であり。
――つまり母さんは、私に優衣ちゃんとの友達付き合いをやめろと言っているに等しかった。
「……どうして」
気づけば私はそう呟いていた。皐月は皐月で、突然の出来事に茫然としていたが、それがあまり気にならないくらい、私も茫然自失としている。
あんなに、あんなに肯定的で、優衣ちゃんが言えに来たときはたまに会話に交じって笑い合ったり、お菓子まで振舞ったりなんかもしていたのに。
それがどうしてこんなに、手のひらを反すようなことをするのか。
「どうして、ね……。昨日のお母様の言葉。覚えているかしら」
「お婆様の……?」
「庶民と仲良くしていれば、隙を作ることになるという言葉。自分を取るか、家を取るかという言葉。その二つよ」
「…………っ」
言われて、一瞬反応が遅れる。
それは私自身が抱えている葛藤だったから。でも、なんでそれを母さんが。
「自分を取るのか、家を取るのか。私にとってそれは、瑞樹の現状を許すか、それとも――引き締めるべきなのか。そのどちらかだと、結論を出したの」
「私、の……?」
「えぇ、そうよ。……別に、朝比奈優衣と仲良くするな、と言っているわけではないの。倉田佳香や渡辺美奈穂を家に招くなとは言いたくないし、羽瀬勇太と一言もしゃべるな、なんて絶対にそんなことは言わない」
「じゃあ――」
「でも――」
仲良くするなと言わないならどうして電話帳のデータを消したのか。そう聞こうとしてしかし、言葉をかぶせられる。
何も言うな、ただ黙って決定事項を聞き入れろ。そう言うかのように。
事実、それは母さんの中では決定事項で、西園寺の娘である私にとっては聞き入れないといけない絶対的命令なのだろう。
「でもね。彼らと私達は、絶対に越えられない壁で隔てられているの。どれだけ近くに近寄ろうとも、ただ近くに見えるけどとても遠い場所にいけるだけ」
まるで強化ガラスで隔てられた、あちら側とこちら側のように、と。
母さんは、諭すような顔つきになって、私を説得するように続ける。
「どれだけ近づいても、その透明な壁がある限り、私達とは相容れないの」
「そんなこと――」
「そんなことない。そう言い切れる? 言い切れるのなら、言ってみなさい」
「…………ッ!?」
「かつて、あなたと同じように庶民と近しくなった女の子がいた。けれど、近しくなり過ぎて、名家の令嬢として失格の烙印を押され、やがてとてつもなく惨めな思いをすることになった。今でも、周囲から嘲笑と侮蔑の視線は耐えることがない」
反論しようとして、強い口調で止められる。そして語られた、ある女の子――おそらくは母さん自身の物語。
「関わり方や話し方を工夫すればいいだけの問題ではないの。周りからどう見えるのかが問題なの。――水崎様の言葉も、覚えてるわよね。あれだけ痛烈な言葉だったのですもの、忘れるわけがないわよね」
「はい…………」
「どれだけ隠し通そうとも、見る人は見ているし、わかる人にはわかってしまうの。そして名家に生まれた以上、私達は庶民とは違って――選択の自由なんてものはなくて、どれだけ『仮初めの自由』を味わったところで、親の敷いたレールからは脱線でも起こさない限り逃れることはできない」
「…………」
「私達にはね――私達の生活、というものがあるのよ。すべてを捨てて、勘当される覚悟で家を出て。それくらいやらないと、庶民の中では浮いてしまうし――私達の中でも浮いてしまう。どっちつかずの生活なんて、結局できないのよ………………」
それは、かつて母さんが歩んできた軌跡。
一条院家ご令嬢という肩書きを捨てきれず、しかし中身は根っからの庶民で奔放に動き回りたいという衝動に駆られて、好き放題に行動をしたという少女の、そのなれの果ては。
結果として西園寺家という名家の中の名家に拾い上げられたものの、周囲からの評価は淑女としてはとてもやっていけるようなものでもなく。嫁いだ先の家の地位を、日本国内限定ではあるらしいが、大きく下げる要因となってしまった。
「別に、庶民と接するのがいけないというわけではない。庶民だからと見下せと言っているのでもない。でも、中途半端だけは許さない」
「中途半端…………?」
「さっき私がやったそれは、あなたに示した選択肢よ。――もう一度、選びなさい」
「もう一度、選ぶ……? どういうこと、でしょう……」
「忘れたかしら。前にも同じようなこと、あったわよね。あの時はそう、確か……」
――西園寺の娘としてお嬢様生活を全うしたいのか、一時的にかつ疑似的にでも一般人らしい学生生活を送りつつ西園寺の娘としてふさわしいお嬢様を目指すか。それとも――これまであなたが思っていたように、本当の意味で一般人となりたいのか。
「……それ、は…………」
「あの時は、私が間違っていたのかもしれない。だから、もう一度聞き直させてもらうわね。ただし――少しだけ、内容を変えて」
「…………」
あの時と、同じようなこと。でも、あの時とは少し違う問い。
それを聞くのが、とても怖い。
今の状況、直前に起きたこと。それらを統合して考えて、その上で考えられる、予想できるそれを聞くのが、とても怖い。
でも、母さんは待ってくれなかった。
覚悟が決まらないうちに、私にあの時と似た、今後の人生を決めるような問いかは、容赦なくその口から発せられる。
「瑞樹。あなたは、どうしたいのかしら。――西園寺本邸、この家から出て、すでに用意してある一戸建て住宅に移住して完全に西園寺家と縁を切るのか。それとも、西園寺家後継者としてふさわしくなれるように、今一度周囲との接し方を改めるのか。――後者を選んだ場合、瑞樹には金輪際、庶民の友達をこの家には招かないと、誓ってもらうわ。携帯電話も、新しいのを用意するし、そのあとで改めて朝比奈優衣と連絡先の交換をすることも禁止させてもらうつもり。周囲との付き合い方を――家全体で、徹底して管理させてもらうわ。まぁ――朝比奈優衣に関しては、前に本人の前で堂々と宣言してしまった手前、本当に困っているようであれば、家の体面を保つだけの範囲内で、それなりになんとかするけれど」
「…………ッ!?」
「お母様それはっ!」
それは――あまりに、辛辣だった。
今までとは段違いに、厳しいものだ。
それを飲み込めば、私は本当に――本当に、表面上でしか学校のみんなと友達付き合いをすることができなくなってしまう。
でも、今回は、別の選択肢はもっと苛烈なもので。
「逆に、家を出ることを選んだ場合。今度は、私はついて行くことはない。菅野を世話役について行かせるけれど、それ以外は金銭面でのサポートしかしない。ほぼ完全に、西園寺家との縁は切れることになるわね」
「そんな…………」
「世間的には、母子家庭もあるのだし――まぁ、大変でしょうけれど、普通の母子家庭とは違って、菅野には西園寺家の使用人という体を続けてもらうし、住んでもらうことになる住宅に住み込みでついてもらう予定だから、家庭生活という意味では、それなりに充実するでしょうけど」
そして、その選択肢は、本当は選ばせたくないという気持ちの意思表示なのか、とても冷たい、感情を感じさせない語調で語られた。
実質、私には一つしか、道は残されていないようなものだった。
「すぐに答えを出しなさい、とは言わない。でも――そうね。来月の六日までには。答えを出しなさい」
それまで、じっくりと考えて。
本当に自分にとって大切なのは何なのか、それについても考えながら。
そう言って、母さんは話を締めくくった。
釘をさすように、――いや。もしかしたら母さんも、なにかを振り切りたくて、感情を殺すために、そうしたかったのかもしれない。
この日の早朝の鍛錬は、とても厳しく、そして雑念を許されなかった。そして終わった後も、鍛錬前の話については取り付く島もなく、私は問いかけについて考えざるを得なくなってしまった。
――どこかで、重要な何かが一つ、砕け散るような音が聞こえた気がした。