第26話 西園寺瑞希と母との和解
「……少し、落ち着いたか?」
「…………は、い……」
ひりひりと左右両方の頬が痛む。が、確かにそれによって、失っていた自制心が戻ってきた。
私が叩かれたことに驚いたのか、皐月はひどく狼狽していた――が、同じく、我に返ったようだ。
私の、そして皐月の目をじっと見つめる父さん。その瞳には依然、静かな怒りをたたえていたが――やがて、ふっとその色を消して、柔和な笑みを浮かべ始める。
「どうやら、本当に落ち着いたみたいだな。……すまなかったな、痛い思いをさせてしまって」
「……いえ。私も、取り乱してしまいまして申し訳ありませんでした」
「いいさ。お前たちの言い分も、もっともなんだからな。ただ、な……。麗奈のこれは、もう麗奈自身か、さもなければ時間に頼るしか解決できないことなんだ。……あまり、突かないでやってくれ」
「……はい」
「…………わかりました……」
他人にはどうしようもないこと。自分にしか解決できないこと。
そういうものなんだと理解した。納得は、全然できないけど、この件については私達はただ、見守ることしかできないんだと理解させられた。
そうなんだと思ったら、もう落ち着くしか、なくなってしまう。
「……………………。今日はもうこのまま家に帰るか?」
「…………いいんですか?」
「あぁ。一応、お暇すると一言だけでも伝えてからと思っているが……お前たちはあんなことがあった直後だし、再入場は精神的に厳しいだろう。俺もあんな奴と再び顔を突き合わせるのはごめんだしな。ま、実のところお前たち三人が母娘やってる間に家に連絡して、すでに帰り車を向かわせるように伝えてはあるんだが……到着するまではもうちょっとだけ時間がかかるだろう。その間に挨拶してくるから、ここで待っていてくれ」
「わかりました」
「麗奈も……いいな?」
「…………はい」
最後に母さんに確認を取ると、父さんはそのまま会場となっている部屋へと戻っていった。
付近に設えられたソファーに座って待つこと10分弱。さほど時間を置かずに、父さんは戻ってきた。
「待たせたな。戻ってくる最中に、菅野からホテルの駐車場に到着したと連絡もあった。……さぁ、今日はもう疲れたから、家に戻ろうか」
『はい』
私達が頷き合って、エレベーターホールに向かおうとしていると、
「お待ちください!」
「西園寺様、お待ちくださいませ!」
後ろから聞き覚えのある声に呼び掛けられた。
パーティー主催者である藤崎家の関係者。藤崎夫人と、涼花ちゃんだ。
それからさっきパーティーで出会った朱里さんもいる。
「本日は不快な思いをさせてしまいまして、誠に申し訳ありませんでした」
「栞奈さんが誤ることではないでしょう。これは藤崎家の責任ではないはずだ」
「ですが、私共の開いたパーティーで、とても不快な思いをしたのは確かなことですから……」
「………………まったく。その気遣いには負ける。あいつらには栞奈さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」
「まぁ。お上手ですね」
クスクス、と手をは口元にあてて笑うその姿はまさに貴婦人。見ていて思わず見惚れてしまいそうな上品さだ。
父さんたちの会話がひとしきり終わると、今度は涼花ちゃんと朱里さんが、私達に近づいてきた。
「申し訳ありませんでした、瑞樹様、皐月様」
「いえ……。大丈夫です。少し休んだら、ちょっとだけ落ち着きましたから……。それに、お父様が言ったように、これは涼花様達のせいではありませんから」
「そう、ですよね……」
「でも、お気持ちは伝わってきましたわ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「いえ……これくらいしか、できないのが心苦しいです……」
「涼花様……」
皐月は、感極まったと言わんばかりに涙ぐんでいる。
私もちょっとだけ、ぐっと来た。
そうしてひとしきり感傷に浸ったところで、頃合いを測ったかのように今度は朱里さんの番。
「あまり気を落とさないでくださいね。……世の中には、ああいった人達は、必ずいるものです」
「はい……」
「こちらを、どうぞ。今日みたいに元気がないときは、これ見て元気になってくださいね」
そう言って差し出されたのは――なんだろ。やけに小さい小包だけど……帰ってから開けてみれば、わかるのかな。
ちょっといたずらっぽい笑い方をしているのが引っかかった。
「また、いずれ会いましょうね。それでは、本日は参加いただき、ありがとうございました。お気をつけて、お帰りください」
「…………はいっ!」
涼花ちゃんの可愛さで引かれるような笑みとは違う、美しいという比喩が似合うような笑みでそう言われれば、それだけで元気になるから不思議だ。
「それでは、これでお暇させてもらうな。明良、すまなかった……」
「いいさ。悪いのはあいつらなんだからな……」
なにやら含みのある笑いでそういう明良さん。うわぁ、邪悪だ……ここにとんでもなく凶悪そうな人がいるよ……。
マスコミという情報の肝を握っている人を敵に回すようなことをした誰かにちょっとだけ憐憫の思いを浮かべながら、私は父さんたちに続いて、パーティー会場を後にした。
帰りの車の中。
誰もしゃべろうとしない気まずい空気の中、私はどうすべきなのか、ずっと悩んでいた。
さっきは感情任せに母さんに噛みついてしまったけど……忘れていたけど、母さんもずっと抱え込んでいたものがあった。
トラウマを刺激されて、精神的に参っていたところへ、私はさらに追い打ちをかけるような真似をしてしまった。
――謝らないと、いけないよね。
そうは思ったものの、なかなか謝罪の言葉は出てこなかった。
なんどか声をかけようかと思ったものの、顔を見たり、目があったりするたびにさっきのことが思い浮かんでしまい、なかなか謝れないでいた。
許してもらえるかどうか、不安だったから。
どう切り出すべきか、とっかかりを見出すべきか。あれこれと考えていると、思いついたような顔で父さんがぽつり、と言葉をこぼした
「さっきのことなんだがな」
「…………?」
「お父様……?」
「なんでしょうか……」
顔つきからすると怒られるとかそういったことではないだろう。
何か悪いことを企んでいそうな予感がするが、話だけは聞いておこう、と背筋を正した。
「瑞希、皐月。さっきのあいつ。水崎の婦人なんだがな。あれは悪い手本だから絶対に参考にしちゃだめだからな? 間違ってもあんな奴みたいにはならないでくれよ? 特に瑞希」
「わ、私ですかっ!?」
急にとんでもないことを言われて、素っ頓狂な声で叫んでしまう。
でも仕方がないと思う。というか、あの女と似たような役柄、私にはとても務まらないんじゃないだろうか。こう、ごてごてに着飾って、高圧的に『オーッホッホッホ……』とか笑って……とか、絶対に無理だから。
先ほどの女がおほほ笑いをしているところを思い浮かべてみる。次に、同じように笑う私――はうまく思い浮かばなかったので、あどけなくも優しく育ちつつある皐月が同じくおほほ笑いをしているところを思い浮かべてみる。
うぅん、やっぱり皐月には似合わない気がする。そして皐月に似合わなければ私にも多分、外見的に似合わなさそうな気がする。
というか、そんな光景を思い浮かべて生理的嫌悪感すらしてきてしまった。
「お父様っ! いたずらにそんな思いもよらないこと言わないでください! あの人と同じようになるなんて……うぅ、思い浮かべようとするだけでトリハダが立ってきました……」
「はっはっは。そこまで嫌うか。なら大丈夫だろう」
そう言ったのは皐月である。
両の二の腕をさするあたり、嫌悪感を堪えられなかったようだ。
何気に私よりもあの女をディスっているように見えなくもない、ということには言わないでおいた。
「もう二度と言わないでください。じゃないとお父様って呼びません!」
「おぉ、それは困ったな。じゃあこの話はやめるか」
「やめてください」
「やっぱり続けよう。こんなに頬を膨らませた皐月、めったに見られないからな」
と、そこまできてようやっと父さんが企んでいることが分かった。単純に社内の重たい空気を変えたくて皐月をからかっているようだ。
まぁ、からかわれている皐月はたまったものではないだろうけど。
「~~ッ!? お、お姉様~ッ、お父様が意地悪してきます。何とかしてください」
案の定、皐月は私に抱き着いて泣き出してしまった。
うん、さすがにこれはやりすぎ。父さんを止めないといけない。
「皐月……よしよし、もう大丈夫ですからね…………。お父様、さすがにいたずらが過ぎますわ。皐月は年相応に純情なんですから控えてください」
「あ~、さすがにやりすぎたか……すまん、もうやめるから許してくれ」
「いやです。意地悪なお父様なんか嫌いです」
「うぐっ……、さすがにそれは堪える。頼む、許してくれ、な?」
「いやです。ふん」
「本当に悪かったから。ごめんって……」
「…………」
「……クスッ。クスクス……」
とうとう無視を決め込む皐月。そろそろ仲裁するべきか。
そう考え始めたところで聞こえてきたのは――控えめな、母さんの笑い声。
私達と父さんのやり取りをぼぅっと見ていたみたいだけど、立場が逆転して最後は父さんが謝罪一辺倒になったところで、どうやら笑いのツボにはまったらしい。
鬱屈した表情だったのが一転して、とても面白いものを見てこらえきれなかったかのように笑っている。
その様子を見た父さんと皐月が、ふっと表情を柔らかなものへと変えていく。
うん? 二人とも、芝居だったりしたの?
「二人とも、面白い……。あんなことがあった後なのに、一人だけ沈んでいたのが馬鹿らしくなってしまいました……」
「あぁ、よかった……まぁ、半分は本音だったのだがな」
「絶対に半分じゃなかったです! 本音の方が多かったです! 本当にひどいですよね、お姉様……」
ばれたか、という表情になり、再び皐月が頬を膨らませるも、父さんは気にする素振りを見せない。謝っていたのは父さんの演技だったということだろうか。柳に風、とはこのことだ。
「…………あー、まぁ、なんだ。とりあえず、お前が元気になってくれてよかったよ。麗奈」
「はい。……ありがとうございます、瑛斗さん、皐月」
ひとしきり笑った母さんの顔は、つきものが取れたかのように晴れやかだった。
そういえば、私の心もついさっきまでいろいろ悩んでいたのがウソのように凪いでいる。
――今なら、謝れるかも。
内心で皐月と父さんに感謝しながら、私は母さんに向き直った。
「お母様」
「なにかしら、瑞樹」
「さっきは……先ほどは、申し訳ありませんでした」
「瑞樹………」
母さんは、一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐになんのことかに思い至ったのだろう。
先ほどのことを思い浮かべているのか、ちょっと悲しい顔をしたものの、振り切るように首を横に振ると、いいのよ、と穏やかに笑って許してくれた。
「……確かにちょっと辛かったけど…………瑞樹たちが言おうとしていたことは、全部、本当のことだから……」
いろいろ悩んできたことだけど、どうすればいいのか、いまだによくわからないのだという。
でも、今日私達に糾弾されたことで、一つだけ、思ったこともあるとか。
それがなんなのかは教えてはもらえなかったけど――話しているときの顔は、きっとそれは、少なくとも母さんや私達にとって悪いことではないだろうと、そう思わせてくれる、いつもどおりの母さんだったと思う。
それからほどなくして、リムジンは西園寺邸に到着した。話し終わってから五分もたっていなかった。どうやら、私はそれなりの時間、考えに没頭していたようだ。