第25話 西園寺瑞希の激情
パーティー会場から出た私達は、そのままホテル内を歩きながら気分転換をしようとしていた。
だが、私達家族は、それぞれが収まることのない感情の波にのまれていた。
私は場の空気という姿形のない『敵』に阻まれて、あの女に何も言い返すことができなかった悔しさに。
皐月は初めて直接向けられた、嘲笑と侮蔑に対する恐怖と悲しさに。
父さんはあの女に対する激情に。
そして――母さんは、おそらくあの女に浴びせられた言葉で抱えている心の闇を直接刺激されたことで、悔しさと、悲しさと、ただ耐え忍ぶことしかできないもどかしさと……とにかく、いろんな感情がぐちゃぐちゃに入り交じった複雑な感情に。
この中でも特に気分転換が必要なのは、言うまでもなく母さんだ。
会場から出るタイミングを無理やりにでも作った父さんは、褒められるべきだと思う。
「……大変。お姉様、唇から血が出ています」
「あ……本当。ちょっとこっち向いて、瑞樹」
「はい、お母様……」
どうりでひりひりすると思った。
でも、無理はないとも思った。だって、そうしてしまうくらい、ひどいことを言われてしまったのだから。
会場内で見た、母さんの顔は、私の脳裏に鮮明に焼き付けられている。
――それだけは、ダメ。
――お願い、どうか、耐えて……耐え切って…………。
声なき訴えが、幻聴が。その顔が思い浮かぶたびに、鮮明に聞こえてきて、気分転換にと会場から出てきたのに、一向に気持ちはよくならない。
むしろ、どんどん怒り、悔しさ、もどかしさがたまっていくばかりだ。
――あなたのような落ちこぼれが西園寺に嫁いだ時点で、どこかしら欠陥を抱えた出来損ないしか作り出せないだろうとは思っていましたけど。
否定された。これまでの努力、そのすべてを。
――もうお一方もそう。外見ばっかり上品で中身が伴っていませんわね。
侮蔑された。公立学校ではなく、有名なお嬢様学校に通っていて、学校生活を通してきちんとした礼節を学んできているだろう、生粋のご令嬢である皐月まで。
――西園寺家も本当に落ちたものですね……。まさか、『壁の花』を迎え入れるだけに飽き足らず、張りぼてだけの『偽物』を生み出して、それで満足してしまうなんてね。
挙句、西園寺家という『家』まで、徹底的に貶められ、辱められた。それも、不特定多数の人数が集まる、公共の場で。
母さんだって、なにも思っていないわけじゃないだろうに。
それでも、こうして気丈に振舞うのは――多分、慣れてしまったから、なんだろう。
それは、とても悲しいことだ。どれだけ、今まであんなひどい言葉をかけられ続けてきたんだろうか。
唇を拭われながら、このもどかしさを一体どうしたらいいのか、と私は頭を巡らせるが、一向に答えは見つからない。
「……はい。いいわよ。とりあえずは、これで大丈夫かしら……」
「ありがとう……ございます…………」
「…………? どうかした、瑞樹? 皐月も……」
言いながら母さんは取り繕うような声で、わざとらしい作り笑いで、笑った。
とても見るに堪えない。隠したいものを隠しきれてなく、ヒビだらけどころか大半が失われて意味をなさない仮面をかぶっているみたいな、そんな印象を受ける作り笑いだ。
それは――今の私にとっては、余計に神経を逆なでされるようなものだった。
「どうして……」
「ん……なにかしら?」
「…………ッ! どうして、母さんはそんなに平然としていられるの!?」
「…………瑞樹……?」
怪訝そうな、母さんの顔。
でも、その顔も、今はとても気に食わない。
一度堰を切った激情は、とどまることを知らずに、向けるべき相手をたがえているとわかっているにもかかわらず、一番労わるべき相手に向かってしまう。
「あんなに……っ、あんなにひどいこと、言われたのに……、どこまでも貶めるようなことさえ、言われたのにっ! どうしてそれで、母さんは平然としていられるのよ!」
「そうですっ! お姉様の言う通りですわ! 私、悔しいです……。悲しい、です……」
「皐月まで……」
普段見せている顔とは違う、本当の私が表に出る。
相手のことを考えることのない、どこまでも身勝手な言葉の応酬。
皐月も、それは同じようだった。悲しそうな顔をしていたけど、その中には母さんに対する疑問の念も含まれていて、私の言葉によってそれが触発されてしまい、爆発したようだ。
私たち二人の言葉を受けて、母さんは悲しそうな表情をして顔を俯ける。
――先ほどのあの女との対話で思い出させられた、母さんの過去。抱えている心の闇。
すでに傷だらけだった。それを忘れ去っていた。その傷を思いっきりえぐられた。それに塩を塗りたくっている。
全部いけないことだ。それくらいわかる。わかっている。それでも私は、止まれなかった。止まることが、できなかった。
だって、そんなの、母さんらしくなかったから。
いつもの、凛とした佇まいで何があっても動じない姿。私が目指したいと思っている、理想像だった。
だからこんな姿をやめてほしいと、もうしないでほしいという思いを乗せて、私は、そして皐月は言葉を投げ続ける。
「どうして……どうしてなのよっ! なんで、そんなボロボロな笑い方して、それで平気でいられるの!?」
「いつもの、まっすぐ相手を見て話をするお母様は、どこにいってしまわれたのですか! 急に、どうされたんですか!?」
「…………ごめんなさい。ちょっと…………ちょっと、待ってて……」
――ほら、見て。
本当は、こんなに泣いているのに。それを、意味をなさない仮面で隠し通しているように振舞って。
それで私が納得するとでも思ってるの? だとしたら大間違い。
なんで何も言い返そうとしなかったのよ。どうして、止めようとしたのよ。
怒りに、悔しさ。様々な感情が複雑に絡み合ってできたこの激情は、もはや自分が何を思っているのかさえ理解させてくれない。私は、ただ感情に任せて言葉が続く限り、母さんに食い掛っていった。
「ねぇ、どうして。どうして、あんなに馬鹿にされ続けて、黙っていられるの!? 答えてよ……ッ!」
母さんのドレスの裾を掴んで叫び続ける私は――不意に、横合いから延びてきた腕によって引きはがされ。
――パシッ……! と、乾いた音が、その場に響く。
一瞬、なにが起きたのか、わからなかった。
頬に感じる、じんじんとする熱い感覚は――痛み。
頬を張られた。そう理解すると同時に、その相手のことも認識する。
強制的に視界を移動させられた先に、その人物の顔があったのだから当たり前の話だ。
目の前に唐突に現れたのは。
横合いから腕を伸ばして、無理やり私を母さんから引きはがして。そのまま、私の頬を張ったのは。――いや、頬を勢いよく挟んで、無理矢理目を合わせてきた人は。
「…………父、さん……?」
――静かな、しかしとても強い怒りの念をその瞳に宿した、父さんだった。