第4話 楽園の城門にて、元勇者は跪く
漆黒の闇に包まれた「嘆きの荒野」。
死と絶望が支配するはずのその場所に、今、あり得ない光景が広がっていた。
地平線を埋め尽くすほどの光の洪水。
夜空を焦がすような輝きは、王都の夜景すらも霞むほどの眩しさだった。
「はぁ……はぁ……なんだよ、あれ……」
勇者ライルは、荒い息を吐きながらその光を見上げていた。
足の裏はマメが潰れて血が滲み、一歩歩くたびに激痛が走る。
喉はカラカラに乾き、唾さえ飲み込めない。
かつて黄金色に輝いていた自慢の髪は、砂と泥にまみれてボサボサになり、煌びやかだった聖鎧は錆びつき、留め具が外れてガラクタのように音を立てている。
「ライル……いい匂いがする……お肉の匂いが……」
背後でエリスがうわごとのように呟いた。
彼女の魔導衣はあちこちが破れ、自慢の白い肌は泥汚れと擦り傷だらけだ。
杖はすでに燃料として燃やしてしまい、手ぶらでふらふらと歩いている。
「神よ……あれは天国ですか? 私たち、ようやく召されましたの?」
聖女マリアに至っては、瞳の焦点を失い、半ば正気を失いかけていた。
数日前からまともな食事をとっていない彼らにとって、目の前の光景は残酷な幻覚にしか思えなかった。
だが、近づくにつれて、それが現実の物体であることがはっきりと分かってきた。
巨大な城壁。
見たこともない、滑らかで継ぎ目のない灰色の石材で作られた壁は、見上げるほどの高さで彼らを拒絶するように聳え立っている。
その向こう側には、ガラスと鉄で作られた塔が天を突き、窓という窓から温かな光が漏れ出していた。
城壁の上からは、食欲を刺激する香ばしいソースの香り、焼きたてのパンの香り、そして人々の楽しげな喧騒が風に乗って流れてくる。
「幻覚じゃない……本物だ!」
「街よ! 街があるわ!」
「あそこに行けば……あそこに行けば助かりますわ!」
三人は残された生命力を振り絞り、転がるようにして城門へと駆け出した。
希望。
ただそれだけが、彼らの足を動かしていた。
あの中に入れば、温かいベッドがある。柔らかいパンがある。
勇者である自分たちが頼めば、きっと誰かが助けてくれる。
そんな、根拠のない、しかし彼らにとっては絶対的な確信を胸に、彼らは巨大な鋼鉄の扉の前までたどり着いた。
「おい! 開けてくれ! 勇者ライルだ! ここを開けろ!」
ライルは扉を拳で叩いた。
ゴン、ゴン、という鈍い音が響くが、分厚い鋼鉄はびくともしない。
「お願いします! お腹が空いているんです! 食べ物を……食べ物を恵んでください!」
「アタシは魔導師エリスよ! 中に入れてくれたら、魔法を見せてあげるから!」
必死に叫ぶ彼らの前に、突然、扉の横にある石像が動いた。
いや、石像ではない。
全身がミスリル合金で覆われた、身長三メートルを超える巨人のごときゴーレムだ。
その眼部にあたる部分が赤く明滅し、無機質な合成音声が響き渡った。
『警告。ID未登録者ヲ検知。直チニ立チ去リナサイ』
「なっ……魔物か!?」
ライルは腰の剣に手を伸ばしかけたが、錆びついた剣は鞘から抜けなかった。
そもそも、今の彼らに戦う力など残っていない。
『再警告。当都市「ネオ・アルカディア」ハ、アレン・ロジスティクス総帥ノ私有地デス。許可ナキ者ノ立チ入リハ制限サレテイマス』
「アレン……?」
その名を聞いた瞬間、三人の動きが止まった。
聞き覚えのある名前。
いや、忘れるはずもない名前。
かつて自分たちが「雑用係」としてこき使い、無一文で追い出した男の名前だ。
「アレンって……あのアレンか? まさか、ここがあいつの……?」
「嘘でしょ……? あんな陰気な男に、こんな街が作れるわけないじゃない!」
「でも、アレン様なら……なんでもできましたもの……」
困惑する彼らの頭上で、不意に強烈なスポットライトが点灯した。
目が眩むほどの光に、彼らは手で顔を覆う。
城壁の上、遥か高みから、聞き慣れた、しかし以前とは決定的に違う冷徹な声が降ってきた。
「夜分遅くに騒がしいな。野良犬かと思えば……見覚えのある顔じゃないか」
ライルたちが恐る恐る視線を上げると、そこには一人の青年が立っていた。
城壁から張り出したガラス張りのテラス。
上質なシルクのシャツに、仕立ての良いジャケットを羽織り、片手には氷の入ったグラスを持っている。
その隣には、銀色の甲冑を身に纏い、冷ややかな視線を向ける美女――剣聖シルヴィアが控えていた。
光を背負い、彼らを見下ろすその姿は、まるで神話に出てくる王のようだった。
「ア、アレン! 生きていたのか!」
ライルの声が裏返った。
驚き、嫉妬、そして何より、安堵。
相手がアレンだと分かった瞬間、ライルの中にあった「惨めさ」が、「傲慢さ」へとすり替わった。
アレンは自分たちの雑用係だ。
どんなに立派な格好をしていても、自分たちに頭が上がらない存在なのだ。
そう思い込むことで、精神の均衡を保とうとしたのかもしれない。
「よかった、心配していたんだぞ! お前、こんなところに隠れていたのか!」
「そうよアレン! アタシたちに黙ってこんな街を作るなんて、水臭いじゃない!」
「アレンさん、私たち、お腹がペコペコなんです。早く中に入れて美味しい食事を用意してくださいな。ああ、お風呂も沸かしておいてくださいね」
彼らは口々に叫んだ。
まるで、十日前の関係性がまだ続いているかのように。
自分たちが追放したことも、借金を押し付けたことも、全てなかったことにして、笑顔で手を振っている。
その様子を、アレンは無表情で見下ろしていた。
グラスの中の液体を一口含み、ゆっくりと味わう。
その仕草の優雅さが、ライルたちの薄汚れた姿との対比を際立たせていた。
「……心配? 水臭い? 食事を用意しろ?」
アレンは低く笑った。
その笑いには、温度というものが欠落していた。
「お前たちは、状況が理解できていないようだな。ここは俺の街だ。そしてお前たちは、招かれざる客だ」
「な、何言ってるんだよ! 俺たちは仲間だろ!?」
「仲間? ……ああ、そういえば昔、そんな契約をしていた時期もあったな」
アレンは面倒くさそうに肩をすくめた。
「だが、その契約は破棄されたはずだ。お前たちの署名入りでな。忘れたとは言わせないぞ」
「そ、それは……! でも、お前だって俺たちがいなくて寂しかっただろ!?」
「寂しい?」
アレンは隣に立つシルヴィアに視線を向けた。
シルヴィアはアレンと視線を合わせると、頬を染めて微笑み、そして城門の下の元勇者たちへ氷の刃のような視線を突き刺した。
「アレン様、この不潔な者たちは何ですか? 街の美観を損ねます。排除してもよろしいでしょうか」
「待て待て、シルヴィア。一応、昔の知り合いだからな。話くらいは聞いてやろう」
アレンの言葉に、ライルたちはパッと表情を明るくした。
やっぱりアレンは自分たちに甘い。
そう確信し、必死に媚びへつらう。
「そうだよな! さすがアレンだ! 俺たちが悪かったよ、追放したことは謝る! だからパーティーに戻してやるよ!」
「そうよ! 特別にもう一度、勇者パーティーの一員にしてあげる! 感謝しなさいよね!」
「アレンさんの部屋も用意してあげますわ。荷物持ちの仕事も、また任せてあげます」
彼らの言葉を聞いて、アレンは呆れ果てたようにため息をついた。
こいつらは、本当に救いようがない。
ここまで落ちぶれてなお、自分が上の立場だと思っている。
学習能力がないのか、それとも現実逃避の果てに脳が腐ったのか。
「……戻してやる? 勘違いも甚だしいな」
アレンの声が、冷たく響き渡った。
「俺は今、この街の運営で忙しいんだ。お前たちのような無能な穀潰しを養っている暇はない」
「む、無能だと!?」
「そうだ。戦闘しか能がなく、それすらも俺のサポートなしでは満足にこなせない。金管理もできず、社会常識もなく、挙句の果てに犯罪に手を染める。お前たちのここ数日の行動は、全て把握しているぞ」
アレンが指をパチンと鳴らすと、空中に巨大なホログラム映像が浮かび上がった。
そこに映し出されていたのは、宿屋で食い逃げをするライルたちの姿。
畑から野菜を盗む姿。
騎士団から逃げ惑う惨めな姿。
その全てが、鮮明に記録されていた。
「な、なんでこれを……!?」
「この街の情報網を甘く見るな。大陸中の情報がここに集まるんだ」
アレンは冷ややかな目で彼らを射抜いた。
「窃盗、無銭飲食、詐欺、器物損壊。お前たちの罪状だ。そんな指名手配犯を、俺の美しい街に入れるわけにはいかないな。治安が悪化する」
「ま、待ってくれ! 金なら払う! 今はないけど、中に入れてくれたら稼いで払うから!」
「稼ぐ? どうやって?」
アレンは鼻で笑った。
「ギルドカードは凍結されているんだろ? 装備はボロボロ、レベルは停滞。今の自分たちのステータスを見たことがあるか?」
アレンの操作で、ホログラムに彼らの現在のステータスが表示された。
かつて六十を超えていた数値は、疲労と栄養失調、そして装備の劣化による補正値ダウンで、見るも無残な数字になっていた。
もはや、一般の兵士よりも低い。
「お前たちに価値はない。生産性もない。信用もない。……俺がここに入国させるメリットが、一つでも存在するなら言ってみろ」
沈黙が落ちた。
反論できなかった。
彼ら自身、自分たちに何もないことを自覚させられたからだ。
「あ、アレン……頼むよ……」
ライルはその場に膝をついた。
プライドも何もかも捨てて、地面に額を擦り付ける。
「助けてくれ……死にそうなンだ……何か食わせてくれ……なんでもするから……靴でも舐めるから……」
「アタシも……お願い……寒い……」
「死にたくない……」
かつての英雄たちが、涙と鼻水を垂らして懇願する。
その姿を見て、アレンの胸に去来したのは、優越感でも憐憫でもなかった。
ただの「処理業務」のような淡々とした感情だけ。
「なんでもする、と言ったな?」
「い、言う! 言うこと聞くから!」
ライルが顔を上げ、希望に縋るような目をした。
アレンはグラスを傾け、最後の一滴を飲み干すと、無慈悲に宣告した。
「だったら、罪を償え」
その言葉と同時だった。
背後の暗闇から、無数の松明の明かりが現れた。
蹄の音。鎧の擦れる音。
現れたのは、王国の紋章を掲げた騎士団の一隊だった。
第三話でライルたちが野菜を盗み、逃走した領地の騎士たちだ。
彼らは執拗な追跡の末、ついにここまでたどり着いたのだ。
「い、いやだ……!」
「嘘でしょ……なんで……」
「ここまでの道案内は、俺がしておいた」
アレンが淡々と告げる。
「俺の街周辺にネズミが迷い込んでいたからな。駆除業者(騎士団)に位置情報を送ってやったんだ。感謝しろよ、これでお前たちは王国の法の下、温かい牢獄で三食付きの生活が送れる」
「ふ、ふざけるなアレン! 裏切ったのか!」
「裏切る? 最初に裏切ったのはお前たちだろ」
アレンの声が、初めて怒気を孕んだ。
「俺が必死に維持してきたパーティーを、お前たちは自分たちの欲望のために壊した。俺の献身を踏みにじり、嘲笑い、切り捨てた。……その報いを、今受けているだけだ。これは復讐ですらない。ただの『精算』だ」
騎士たちがライルたちを取り囲む。
抵抗する力など残っていなかった。
手錠をかけられ、猿ぐつわを噛まされ、引きずられていく。
「んぐぐーーっ! (アレン! 覚えてろ!)」
「んんーっ! (助けて!)」
彼らの悲鳴にも似た呻き声が遠ざかっていく。
アレンはそれを、テラスの手すりにもたれて静かに見送っていた。
かつて輝いていた勇者パーティー『光の剣』。
その最後は、あまりにもあっけない、泥まみれの幕切れだった。
「終わりましたね、アレン様」
シルヴィアが静かに歩み寄り、アレンの肩にショールをかけた。
夜風が少し冷たくなってきた。
だが、アレンの心はかつてないほど晴れやかだった。
過去との決別。
胸の中にずっと刺さっていた棘が、ようやく抜けたような感覚。
「ああ。これで、本当に邪魔者はいなくなった」
アレンはシルヴィアに向き直り、微笑んだ。
「戻ろうか。みんなが待っている」
「はい。今日はハンバーグでしょう? 楽しみです」
「デザートにはプリンも用意してあるぞ」
二人は背を向け、光溢れる街の中へと歩き出した。
ガラス戸の向こうには、暖炉の火が燃え、仲間たちが笑顔で迎えてくれる広間が見える。
そこには、計算も裏切りもない、ただ穏やかで満ち足りた時間が流れていた。
闇に消えていった勇者たちのことなど、もう誰も覚えていない。
彼らは歴史の闇に埋もれ、二度と表舞台に出てくることはないだろう。
嘆きの荒野に聳え立つ、奇跡の都市「ネオ・アルカディア」。
その主であるアレンは、その後も独自の技術と経営手腕で都市を発展させ、やがて大陸全土に影響を与える大商国を築き上げることになるのだが――それはまた、別の物語である。




