第25話:【幕間】元勇者の転落
鼻を突く腐臭と、肌にまとわりつくような湿気。
王都の華やかな大通りから一本入った裏路地、そのさらに地下に広がる下水道で、男は膝まで泥水に浸かっていた。
「……クソッ、なんでこの俺が……」
男――かつて「勇者」と持て囃されたアルスは、錆びついた鉄の棒で排水溝に詰まったゴミを掻き出しながら、呪詛のように呟いた。
数日前までの煌びやかな鎧姿は見る影もない。今の彼は、ボロ布のような作業着を纏い、全身を汚泥に塗れさせていた。
右腕は包帯で分厚く巻かれ、首から吊るされている。
あのドラゴンブレスの直撃を受けた右腕は、高位の治癒魔法でも完全には再生しなかった。神経が焼き切れ、指先一つ動かすことができない。剣士にとって、それは死刑宣告に等しかった。
「おい、そこ! 手が止まってるぞ! 日が暮れるまでに終わらせろよ!」
地上から監督役の男の罵声が飛んでくる。
以前のアルスなら、そんな口を利いた人間に剣を向けていただろう。だが今の彼に、そんな気概は残っていない。
「わ、わかってるよ……!」
力なく返事をし、左手一本で懸命に作業を続ける。
聖剣は失われた。ドラゴンの腹の中で溶けたのか、あるいは瓦礫に埋もれたのか。 国宝級の聖剣を紛失した代償は、莫大な違約金としてアルスにのしかかった。これまでの報酬など一瞬で吹き飛び、装備も全て売り払った。それでも足りず、今の彼は借金まみれの身だ。
パーティメンバーだった聖女は、アルスの怪我を見るなり「回復の見込みなし」と判断して去っていった。魔法使いも「泥船には乗れない」と姿を消した。
残ったのは、何も持たない、ただの無力な青年一人。
――バシャッ!
足元のヘドロに足を取られ、アルスは無様に転倒した。
顔面から汚水に突っ込む。口の中に鉄錆と汚物の味が広がり、嘔吐感がこみ上げた。
「ごほっ、うぇ……っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アルスは這いつくばる。
惨めだった。悔しかった。
なんで俺がこんな目に。俺は選ばれた勇者だったはずだ。王都の民衆に歓声を浴び、美味しい食事と美女に囲まれて暮らすはずだったんだ。
その時、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
地味で、愛想がなく、いつもアルスの後ろで荷物を背負っていた支援術師。
かつて自分が「役立たず」と罵り、追放した男――ジン。
そういえば、以前の下水道討伐クエストの時、こんな風に泥まみれになって道を作っていたのはジンだった。
装備の手入れも、野営の準備も、怪我の治療も、すべて彼がやっていた。 アルスたちが華やかに戦っている裏で、彼は常に泥を被っていたのだ。
「あいつが……あいつがいれば……!」
アルスは泥水を拳で叩いた。
反省ではない。後悔ですらない。それは、ただの身勝手な責任転嫁だった。
ジンさえいれば、自分の右腕は無事だったはずだ。
ジンさえいれば、聖剣を失うこともなかった。
ジンさえいれば、今頃また高級宿でワインを飲んでいたはずなのに。
「ふざけるな……ふざけるなよ、ジン……!」
アルスの瞳に、ドス黒い光が宿る。
自分を捨てて(実際は捨てたのはアルスだが)、のうのうと成功を収めているジンへの逆恨み。
それが、今のアルスを突き動かす唯一の燃料になっていた。
今は泥水を啜ってでも生き延びる。
そしていつか、必ずあいつを引きずり下ろしてやる。
しかし、その慟哭は暗い下水道の壁に虚しく反響し、汚水の音にかき消されていくだけだった。
栄光の日々は二度と戻らない。彼に残されたのは、果てしない借金と、出口のない暗闇だけ。
こうして、一人の「元勇者」の物語は、誰にも知られることなく静かに幕を閉じた。
お読みいただきありがとうございます。
【幕間】元勇者の転落でした。
栄光から泥水へ。
自業自得ですが、彼の地獄はまだ始まったばかりです。
今後も忘れた頃?に、彼の「その後の不幸」をお届けする予定です。
さて、次回からは新たな展開がスタートします!
新居での生活、そして新たなトラブル……。
ジンたちの「不運」と「確率操作」が、今度はどんな騒動を巻き起こすのか。
新たな「マスコット(?)」も登場予定です。
引き続き、応援よろしくお願いいたします!




