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短編

まちがい差が死

作者: 久慈柚奈
掲載日:2025/12/18

 蛍光灯の光と消毒の臭いが感覚を刺激する。医師は重々しく私に告げた。

「ご臨終です」

 清潔すぎる空間で告げられる死にはどこか現実味が欠けている。

 日が落ちて真っ黒くなった窓に、病室と私たちの姿が鏡映しになっている。にわかに窓枠が画面のふちに見えてきて、これはドラマのワンシーンだろうかと考えた。

 医師が告げ、綺麗な女優さんが激昂する。医師に掴みかかり、看護師に押さえられるほどの勢いで。嘘ですよね、どうかそう言ってください! ……とかなんとか。

 私もそうすれば良いのだろうか。そうすればこの状況は何か変わる? 突如展開する現実への正しい反応が分からず、私は黙ってその場に立ち尽くすばかりだ。

 首元まで真っ白な布団をかけられた拓磨は、ただ眠っているだけに見えた。

 元来、拓磨はよく眠る。一度眠るとよほどのことがない限り目を覚まさなくて、その手強さは目覚ましグッズもアラームも太刀打ちできないほど。おまけに寝相も悪いので、よく部屋から重い落下音と「いてっ」というつぶやきが聞こえたりしていた。

 そんな彼が仰向けで静かに横たわっているのを見慣れない。彼がもう寝がえりを打たないなんて……赤信号を無視した乗用車が左折してこなければ……今晩は拓磨の好きな鯖の味噌煮を作ろうと思っていたのに。

 この数時間ほどのあいだに起こっためまぐるしい出来事が脳裏を駆け巡る――午後の電話、焦って乗り込んだタクシー、回る赤色灯。病院の廊下。手術室のランプ。それが消えて……。

 こんなことありえない。現実であっていいはずがない。

「……(あんず)()さん?」

 長らく黙ったままの私を、医師が心配そうに見つめる。自分でも驚くほど決然とした声が出た。

「分かりました。それでは拓磨のクローンをつくってください」

私はそれができることを知っていた。

 つい数ヶ月前。運転免許を更新してきた拓磨が、裏面の「クローン」の項目にマルをつけていたのを覚えている。

「以下の部分を使用してクローン産生に関する意思を表示することができます」

 拓磨は温かみのある色の照明の下で考えこんでいた。お風呂から上がってきた私が後ろを通りすがって、

「何してるの?」

「クローンの希望欄。免許証新しくなったからまたマルつけとこうかなって」

「珍しくちゃんとしてるね」

「こういうのはね」

 また少し考えるように遠くを見て、それからいよいよボールペンを握る。「遺族が希望した場合にのみ、クローン産生を希望します」の番号をマルで囲んだ。

 私はのぞきこんで文面を読んだ。

「へえ、クローンになりたいの?」

「俺はどっちでも。花梨まかせ。もし俺に何かあった時、花梨が悲しい思いをしなくていいようにね。選択肢」

「縁起でもないこと言わないでよ」

 あの会話が今回の出来事を引きつけてしまったのだろうか。それともあの会話があったから私は今この選択ができる?


ヒトクローンの産生にはたくさんの問題が絡み、クローン技術はヒト以外の生物で研究されるにとどまっていた。人権、倫理、人々の抵抗感が根強くあった。

 しかしそれはもう十数年も前のこと。ゆるやかに進められていた研究は、ペットロスに嘆いていた人々を入口に急速に社会に受け入れられだしたという。クローン技術が彼らの抑うつを原因から拭い去ったのだ。愛する小さな家族たちは死を超越するようになった。何度でも一緒に暮らし、何度でも戻ってくる、飼い主の好きなだけ。

今や故人のクローン産生は、公に認められた立派な権利である。

 私は医師に向き合う。

「記事で読んだことがあります。確か『改正ヒトクローン法』によれば、遺族の希望と本人が遺した同意があれば、クローンを産生してもらえるんでしたよね」

 詰め寄らんばかりの私に、医師は気圧されたように頷く。

「あ、ええ……確かにそうですが」

「拓磨の免許証に同意の意思が示してあります。そして私も希望します。お願いします、拓磨を……。拓磨のクローンをつくって下さい」

 すぐに持ち物が調べられ、同意の署名が確認された。

 冷たくなっていく拓磨の体から急ぎ細胞が採取され、それは病院の奥へ運ばれていく。


 成体から採取した細胞でクローンを産生し、細胞の提供者と同年齢に成長させるまでに、四十九日を要する。

拓磨のクローン産生は成功した。

 日曜日の今日はよく晴れていた。日差しの暖かさが建物の外観に印象づけられた暗い気配を遠ざからせ、四十九日前のあの夜が嘘だったのではないかとさえ思われてくる。だって私は今日、拓磨に会いにここへ来たのだ。

受付で用向きを告げると、診察室へ通される。医師から説明があるらしい。

 私を待っていたのはこの間とは違う医師だった。拓磨の担当医だという。

 革張りの椅子に向き合って座ると、医師はてきぱきと口を開いた。

「拓磨さんのクローン産生は成功しました。対面なさる前に、いくつか改めて確認したいことが」

 そう言って手元のクリップボードに目を落とす。読み飛ばしのないようにだろう、芯を出さないボールペンで文面をなぞりながら読みあげはじめた。

「以下のことをご理解ください……」

 読みあげられる内容に覚えがある。四十九日前、私が署名した「クローン産生同意書」と全く同じ。これは再確認だ。きっと形式的なものだ。私は機械的に「はい」をくり返す。一度目を通し、同意した内容だ。意志は変わらない。

 長く感じられる数分の末に再確認は終了した。いよいよ医師は立ち上がり、「少しお待ちください」と言う。奥のカーテンの向こうに消えていった。

 私は待った。カーテンを見つめ、診察室をざっと見回し、時計の秒針がのろのろ進むのを見、そしてまたカーテンを見つめる。

 新しい拓磨のことを考えた。

 奥に引っ込む前に医師は言った。

「年齢と最終学歴に見合った、大卒程度の知識は学習させてあるので、すぐ一緒に暮らしはじめることができますよ」

 学校で学んだ記憶はないのに――私と大学で過ごした思い出も失われているのに――知識だけ持っているというのはどんな感覚なのだろう。奇異で不安かもしれない。それでも私にとって拓磨は拓磨である。いつも以上に優しく接しよう。久しぶりに一緒に帰れるんだから。今日こそ夕飯は鯖にしようか。

 カーテンの向こうで足音。だんだん近づいてくる。にわかに緊張してきて、背筋を伸ばした自分に気づいた。拓磨に会うだけなのになんだか可笑しい。でも久しぶりの感覚でもあった。デートで待ち合わせるたびに味わった緊張に似ている。

 足音がついに止まった。

 開かれたカーテンの向こうに、拓磨が立っている。

思わず、たくま、呟きが漏れた。

 それはまさしく拓磨だった。記憶より印象より鮮明に、はっきりした実体として存在している。背の高さ。髪の長さ。手足の形……。青い病衣を着ている以外、すべて私が拓磨を考える時の拓磨そのものだ。

 私たちは無言のうちに見つめ合う。時間の経過を忘れるほど長く、あるいはほんの一瞬。看護師に勧められ、拓磨は広げられたパイプ椅子に腰を下ろした。

 私は安堵のうちに考えている。嗚呼良かった。拓磨は戻ってきてくれた。ここまで引きずってきた重苦しさが抜けていく。これで何もかも元通りだ。平和な日常が地続きに今日まできて、これからも続いていくのだ。何もなかったのと同じように。

 私、拓磨、医師は三人で輪をつくるような格好で座っていた。医師が拓磨を見、私を手で示す。

「拓磨さん。こちらが(あんず)()花梨(かりん)さんです。あなたが一緒に暮らす人ですよ」

 それから私に向きなおり、

「拓磨さんです。知らないことも多いでしょうから、優しく接してあげてください」

 そうして私たちはまた見つめ合う。五十センチ離れた拓磨の体から発せられる熱が――生きている気配が感じ取れるようだった。私を見つめる顔の造形。澄んだ目がよく見える。優しそうな目の形。

 話しだすのは同時だった。

「たく……」

「初めまして。杏井花梨さん。これからよろしくお願いします」

 そう言っておとなしそうに微笑む。

 素直な響き。拓磨のそれとは違う調子で発せられた言葉が私を揺さぶった。思わず呼びかけた名前を呑み込んでしまう。

 初めまして……?

 初めまして、ってなんだろう。いや当たり前だ、この拓磨は記憶を、私と過ごしたことを何も覚えていないのだから。違う、違う。そうなんだけど違う。頭では理解しているつもりだったことがらと、実際に面と向かって「初めまして」と言われることとはわけが違う。ひどく自分の記憶が頼りなくなった。

 私が覚えている数々の出来事。私が知っている拓磨は、今まで一体どこにいたのだろう。本当に存在していたのだろうか? 時が経つにつれてそれらはどんどん忘れ去られ、あの拓磨は存在しなかったと同義になってしまうのではないか。目の前にいる拓磨の形をしたものが、すべてを置き換え変質させてしまう気がする。それも自覚のないうちに。

 両肩がこわばっていることに気づく。再会にときめく気持ちはもうなかった。

「……よろしくお願いします」

 硬質でよそよそしい声が出る。彼は純粋に返答のあったことを喜んでいるようだ。

 それがなんだか許せなかった。


 午前七時。私はスマホのアラームで目を覚ます。

 カーテンの隙間から入る朝日を眺めていると、漂ってくるトーストの香りに気づいた。途端にえも言われず心が重くなる。

 のろのろと布団を這い出しリビングへ向かった。

 ベーコンがじゅわじゅわ焼ける音、トースターがパンを焼く音、遠くで回る洗濯機。ドアを開けると私は朝の喧騒の只中にいる。

 パジャマの上にきちんとエプロンをかけた彼が、ドアの開く音に気づいて振り返った。

「あ。おはようございます。花梨さん」

「おはよ。……朝から悪いね」

「いえいえ。もうちょっとで朝ごはんできますから」

 私の言葉にあいただろう空白になど気づきもせず、彼はフライパンに手際良くたまごを割り入れる。その背中を見ながら私は、不自然で唐突な喉の詰まりについて考えこんでしまう。

 まだ彼を「拓磨」と呼べない。

 呼ぼうとすると、一寸声が出なくなる。沈黙が続くのも気持ち悪く思えて、私は後に当たり障りのない言葉をつなげる癖をつけてしまった。つなぎ方はますます巧妙になって、ますます名前を正しくはさむ余地がない。

 苦々しくリビングを眺めやる。

 カーテンの開かれた吐き出し窓からは陽が燦々(さんさん)と差し込み、レースカーテンの影が躍るフローリングには塵ひとつない。二人掛けのダイニングテーブルにはすでにランチョンマットが敷かれていたので、私は他に必要なものを取りにキッチンへ入った。引き出しからフォークを取り出しながら「なんでだろうな」と思う。

 なんで部屋がもうこんなに綺麗なんだろう。なんでもう洗濯機が回っているんだろう。

 もちろん彼が掃除しスイッチを押したからなのだが、私はまさにそこに慣れないのだった。

 拓磨はこんなことしない。

 拓磨は大雑把で寝ぼすけ。私より早く起きるのは遠出が楽しみな日ぐらいで、服を部屋のあちこちに脱ぎ散らかす癖がある。何度も注意したらようやくひっくり返して脱ぐのは収まったけれど、洗濯かごへの道のりはまだ通そうだった。四角い部屋にまるく掃除機をかけるせいで隅にはホコリが溜まっていた。

 はずなのに、彼は拓磨の癖を軽々と飛び越えて、なかったことにしてしまう。とんでもない異質が私の知る日常を浸食し続けている。私は異質に取り込まれないように、拓磨の記憶を引っ張り出して差異を拾い上げながらいる。そうする他にこの状況へ対処するすべを思いつかない。

 フォークを並べ、塩こしょうの瓶を出す。そのあいだに彼は盛り付けを済ませていて、座った私の前にきらびやかな朝食が運ばれてきた。

「はい、どうぞ」

 大きなワンプレート。目玉焼き、ベーコン、サラダ、トースト。そこへ淹れたてのコーヒーが一杯。彼はマグカップに紅茶を淹れているようだ。

「いただきます」

 いざ食べようと塩こしょうの容器を手に取った時、彼の視線がテーブルを見渡して何かを探しているのに気づく。探し物に思い至った。

「あ。ソースだよね。ごめん今取ってくる」

 椅子を引いた音が騒々しかった。冷蔵庫から掴み取った容器が手に冷たい。

「ありがとうございます」

 受け取った彼はごく自然に感謝を述べた。それに内心安堵する自分を意識する。

 彼はすまなそうに眉尻を下げる。

「すみません。目玉焼きにソースなんて……おかしいですよね。前の僕は違ったんでしょう」

 そうだよ。拓磨は塩こしょうをかけてた。知った顔で「前の僕」なんて言わないでよ。それか知ってるなら合わせてよ。拓磨と全然違うくせに。

 鋭い言葉を飲みこんで「気にしないでいいよ」ととびきり優しい声で言う。そんな自分に吐き気がしそうだった。なぜ私にわざわざこんなことを言わせるのだろう。

 調味料を選ばせてやったことを後悔する。

 彼が料理をしてみたいというので、家へ戻った晩に目玉焼きを教えた。ほんの優しさのつもりだった。卵を何個も何個も焼いて、調味料によって味わいが変わると教え、いろんな調味料をかけた。とどのつまり彼は拓磨のクローンなのだから、塩こしょうを気に入るだろうと安易に考えながら。

 あろうことか、彼が「これがいちばん美味しくなりますね」と顔をほころばせたのはソースだった。私はとっさに何も言えなかった。異質だけが決定的にそこにいた。

 次に怒りが湧いてきた。そんなのは変だと言おうとして、医師の言葉を思い出した。

「優しく接してあげてください」

 彼が思ったことをすぐ顔に出すことに早い段階で気づいた。もし私が怒れば、彼はあからさまに悲しそうな顔をするだろう。塩こしょうに落ち着かせることはできるかもしれないが、それでも……拓磨と同じ造形の顔で悲しむだろう。

 私はそれを見て平然としていられる自信がなかった。弾けるような笑顔の印象が強い拓磨が悲しい顔をするのなんて見たことがない。私は拓磨にまつわる記憶に見慣れない表情を付け加えたり、本人には絶対に言わないような言葉をぶつけたりしたくなかった。

 それで私は大きく譲歩して「うん、そうだね」と言ったのだ。

 まさか彼がソースをかけるのを見るたびに、その小さな差異が私を苦しめ続けることになるとは思ってもみなかった。

 私が発揮できた最大の優しさはそれだった。この二か月のあいだに、生活の中から優しさが減っていった。

 彼はあまりにも拓磨と違う。

 彼は私を「花梨さん」と呼ぶ。誰にでも敬語で話す。私以上にきれい好きで、雑誌に載りそうなほど見た目も味もいい料理を作る。そして、鯖が苦手だ。

 その違いが私を苛立たせる。

 

 皿は半分ほど空になっている。彼がおもむろに顔を上げた。

「花梨さん。少しお時間いただけませんか? 相談したいことがあって」

「うん、なあに?」

 反射のように優しさを張りつけた返事が出、そんな自分をまた嫌悪する。今日は仕事が休みで時間に余裕があった。

 いつもなら嬉々として話しはじめる彼が、珍しく緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。

しばしの沈黙の後、ようやく彼は言った。

「僕も、そろそろ働こうと思って」

「え、もう?」

 素直に驚いた。

 拓磨は営業の仕事に就いていたが、彼は必ずしもすぐに復職することを求められてはいない。彼は仕事の代わりにクローンの学校に通っていた。ヒトのクローンが増えるにつれて設置が進むこれらの学校では、コミュニケーションやマナー、その場その場で求められる社会的振る舞いについて学ぶという。知識は産生時に詰めこめるが、経験は獲得に時間がかかるし、クローン同士で練習しあうのが良い、という考えらしい。

 彼が通学しているあいだ、国からは生活に困らない程度の給付金を受けとることができる。私も働いているのだし、彼が就労を急ぐべき理由は見当たらなかった。

 彼が話をつづける。

「僕も掃除や料理以外の方法で、花梨さんの役に立ちたいんです。学校には最大三年間まで通えますが、卒業するタイミングは個人で決められるので」

 役に立ちたい。素直な響きで発せられた言葉に私は引っ掛かりを覚える。そう、私の役に立ちたいの。じゃあ、私の拓磨を返して。今すぐに。

 飛び出しかけたどす黒い感情は呑みこんで。

「じゃあ元の職場に戻るの? 営業」

 細身のスーツに身を包み、「いってきまーす!」と出かけていく拓磨を思い出す。時に大きすぎて恥ずかしかったその声も今は。

「あ。いや……実は別の仕事を考えていて」

 彼は途端にきまり悪そうな顔をする。拓磨の笑顔が玄関の向こうに消え、ドアが閉まった。

「学校で練習してはいるんですが、知らない人と話すのが……何回やっても緊張が抜けなくて。僕には営業は向いていないみたいで」

「そう」

「別のやりたいことが見つかったんです。花梨さんに料理を教えてもらったでしょう。毎日、作ることがすごく楽しくて。だから厨房で働けるような仕事に就きたいと思っているんです。ゆくゆくはお金を貯めて、調理師の資格を取るのもいいな、なんて」

 ちょっと待っててくださいねと言い置いて、彼は自室へ入っていく。ほどなくして書類の入ったクリアファイルを手に戻ってきた。

 拓磨ならまだ部屋をごそごそやっているだろうに。

「これ」

 テーブルの端に書類を置く。見て欲しいということか。私が書類を手に取り読みはじめるのを目で追うさまは、まるで満点のテストを自慢したい子どものそれだ。

 期待に満ちた視線に気づかないふりをしながら、書類に目を落とす。まだ頭の数文字しか読めていないのに、待ちきれなくなってしまったのだろう。彼は口を開いた。

「学校で回答した、適職診断の結果です。僕はどちらかというとひとりでの作業に向いているみたいなんです。飲食関係なら調理とか……」

 うん。うん。

 嬉々として語る彼の声と私の気のない相槌が、ながら聴きするラジオのように耳を掠める。遠くで繰り広げられる茶番。無意味なやりとり、偽善。

 代わりに私は考える。拓磨が同じ診断を受けていたら、ここにはどんな結果が印刷されていただろう……。

「――どうでしょうか、花梨さん」

 彼の問いかけで我に返る。いつの間にか彼の話は終わっていて、今彼は私の返事を待つように少し身を乗り出していた。

「良いんじゃない、頑張ってみたら」

 私はテーブル越しに書類を返した。

「ありがとうございます!」

 彼の顔がぱっと華やぐ。その瞬間。

 書類をしまいに席を立つ後姿を、追いかけようとした自分に気づいた。

 拓磨。

 口をつきかけた呼びかけを寸前で呑み込んでしまう。慌ただしく動いた椅子の音は、彼が部屋のドアを開けた音に重なって気づかれず済んだようだ。

 呆然と彼の席に視線を落とす。

 今、確かに。彼が拓磨の顔で笑った。拓磨が嬉しがる時と同じ、全力の笑顔。

 私は拓磨を喜ばせ――その直前まで辛辣な思いを抱いていた。圧倒的な罪悪感に呑まれる。

同時にこうも思う。別に良いじゃないか、そもそもあれは拓磨ではないのだから。私が申し訳なく思うのは彼の拓磨に似ている部分に対してであって、彼本人にではない。彼は拓磨ではない――時々ひどくよく似た表情で私を苛立たせてくるだけで。異質な彼と拓磨の残滓のあいだで、私は翻弄されている。

 彼が部屋のドアを閉め戻ってくる。私は何事もなかったように席についた。


 それから一か月もしないうちに、彼は希望通りに調理見習いの仕事を見つけたらしい。採用された店のことをあれこれ知らせてくるが、私は愛想良く聞き流してばかりいた。

 店長が優しいとか、包丁さばきを褒められただとか。逐一知らされる彼の喜びが、ひどくどうでもいい。

 拓磨と違うところに興味が持てない。話半分に聞く私に、それでも満足する彼が少し憐れだ。


 週末。真優美がランチに誘ってくれた。

 会うのは実に三年ぶりだ。真優美の結婚式以来、かもしれない。

「花梨―!」

 近づく声と足音。顔を上げると真優美が小さく手を振りながらやってくる。その姿が真優美であると気づくまでに、少し時間が必要だった。

「真優美。久しぶり。雰囲気変わったね」

「そう? あ、そっか。会うの久しぶりだもんね、そうなの。職場にこういうテイストの人が多くてさ」

「似合うよ」

「ありがと」

 ニッと歯並びの綺麗な歯を見せる笑い方は、大学の頃から変わらない。真優美は私を手招いた。

「美味しいお店予約したんだ。行こ」

 案内された先は小ぎれいなフレンチレストランだった。人気店らしく、なかなか混んでいる。注文したランチセットが来るのを待つあいだに、私たちには話したいことがたくさんあった。

互いの仕事のこと、最近聴いている音楽、真優美の結婚式の思い出。

 料理が運ばれてきて会話が一度途切れる。フォークを握った辺りで真優美が何気なく「で、拓磨くんは元気なの?」と尋ねてきて、私の返事に熱がこもった。

「それがさ、聞いてよ!」

 私が真優美に本当に話したかったのは、この話題ひとつだったのかもしれない。

 思いつくことをすべて話した。交通事故。クローン。四十九日。やってきた彼。あまりにも違いすぎるふたり。

「私の役に立ちたいとか、教えてくれた料理が楽しいから調理系の仕事がしたいとか言ってさ。実際、どっかのレストランに就職しちゃったし。毎日楽しそうだよ。でも思ってたのと違うんだよね。拓磨と似てないんだもん全然。同じなのは顔だけ」

「んー」

 真優美は曖昧に微笑んでいる。

「診断結果はそりゃ大事だけどさ、もっと努力して拓磨みたいに……」

 視界の端を人が通り、私の注意はそちらへ引きつけられる。言葉が止まった。

 あ。拓磨。

 とっさにそう思った。

 実際そこにいたのは彼のほうだった。丁寧な動作を見ればそれと分かる。私たちから二つ離れた席の後片づけをしている。手が回らないからホールを手伝ってこいとでも言われたのだろうか。他のウェイターとは違う白い制服に身を包み、食べ終えられた皿を丁寧に重ねて持っている。彼の素直な目はテーブルに集中していて、私たちの方を見ない。

 なんで。どうして。よりにもよって真優美が予約してくれた店が、彼の職場なの。自分が、彼が恨めしい。どうして気づかなかったのだろう。もし知っていたら――毎日彼が嬉々として語る話を真面目に聴いていれば、ここで今の話はしなかったのに。

 聞かれたんじゃないか。絶対に聞かれた。でもどうしてそんなことを気にするんだろう?

「花梨? どしたの?」

「あ、ううん。……なんでもない」

 嫌というほどぎこちなく笑う。真優美に彼がいることに気づいてほしくない。

ちょうどデザートが運ばれてきて、私は新しい話題の種に飛びついた。

 彼は片づけを終えて厨房へ戻っていった。


 デザートを食べ終え顔を上げると、いつの間にか店のピークは過ぎている。残っているのは私たちと、窓際の老夫婦くらいだ。厨房からは誰かが休憩に入るのか、男声の「お疲れ様でした!」が数人分揃って聞こえた。ウェイターもいつの間にか見えなくなっていて、店内は気の抜けた雰囲気が漂っている。皿を洗っているらしい、水流と皿が触れ合う音が耳に心地良い……と思ってすぐ、その皿は彼が洗っているかもしれないと思い至る。にわかに居心地が悪くなってきた。

 ちょうど最後のひとくちを含んだ真優美が、満足そうに息をつく。

「美味しかった! ここ当たりだね」

「そうだね。長居しちゃった」

「ほんとだ。そろそろ帰ろうか」

 これ幸いと一緒に席を立ちかけた時だった。

「おい、ここソース残ってんぞ。しっかり洗えよ新人」

「すみません。すぐやり直します」

 水音が止まる。厨房から静かな店内に漏れ聞こえてきたのは、間違いなく彼の声でなされた謝罪だった。水音が再び始まる。

「ったく。新人は皿洗いしか能がねえんだから。こんくらいちゃんとやれよな」

「すみません」

 くすくす続く笑い声。真優美が眉根を寄せた。

「雰囲気悪いね。前言撤回。早くお会計して……」

「こいつには皿洗いだってムリですよ、鈴木サン。出来の悪いクローンなんだから」

 店内の空気が凍りついた気がしたのは、私の気のせいだろうか。でも真優美の顔が凍ったのが嫌にはっきり見える。

 耳元で心臓が鳴っている。全身が緊張して熱い。過敏になった感覚が、耳が、音声を補って厨房の奥で繰り広げられるやりとりを想像の中に浮かびあがらせてしまう。

 二人の先輩スタッフが、彼を取り巻いて笑っている。洗い残りを指摘された彼はやり直すためにシンクの前から動けず、嘲笑を一身に浴びる他ない。だから二人の放つ言葉は遮るものなく彼の体に突き刺さる。

鈴木と呼ばれた男が彼を嘲った。

「ああそっか。お前クローンだもんな。人造のコピー人間だ」

「お前は一生皿洗いさ。将来は料理人になりたいとか言ってたっけ? はは、劣化コピーにはムリだよそんなの。てか、人造人間が一丁前に夢とか持つな。そのまま死んどけば良かったのにさあ」……。

「お会計お願いします」

 真優美の声で我に返る。気づくと私たちはすでに席を立ち、レジカウンターの前に立っていた。

 ウェイターは全員出払っている。厨房の話し声がふいに止み、取り繕ったような笑顔の男がカウンター越しに私たちと向き合った。名札に「鈴木」とある。慣れない手つきでレジを操作し、

「ええと、お会計は二人で六千……」

「これで。お釣りはいりません」

 鈴木が言い終えないうちに、真優美はトレーに押し付けるように一万円札を載せる。割り勘するつもりで財布を取り出しかけた私は間の抜けた声を出してしまった。

 面食らっている点では鈴木も同じだった。持ち上げた手がレジを打ちかけたまま、しかしどこを押せば良いか分からず固まっている。

声を聞けば分かる。真優美は怒っていた。

 怒りを明確に声と態度に表し、けれどあくまで慇懃(いんぎん)に言葉を発する。

「風通しの良いお店ですね」

「え?」

「店内も厨房の話し声も、はっきり聞こえて。すごくアットホームですね」

 そうして颯爽と店を出ていく。私は困惑する鈴木を見、真優美が立ち去ったことを遅れて理解する。慌てて後に続いた。

 外に広がる日差しも、通り過ぎる車の音も。目に入り耳に聞こえるものすべてがなぜか遠い。私の心は先ほど受けた衝撃を受け止めきれないまま、まだカウンターの前に突っ立っている気がする。

 小走りに真優美の背中を追いかけた。ついていくのに苦労するほど早歩きだ。横に並んで表情を確かめることさえ憚られる、触れてはいけない怒りが全身からにじみ出ていた。

 どれくらい歩いただろう。

 信号を待つために立ち止まる。背の高いビルが日差しを遮り、横断歩道の前は涼しい風が通っていた。

「ごめんね、花梨」

「えっ」

 真優美の謝罪はひどく明るい声でなされた。あまりにも澄んでいて、私は先の出来事が目の前の真優美と地続きだとは思えない。

 ようやく勇気が出て、斜め前に立つ真優美の顔をうかがい見る。淡々として、静かだった。風が怒りの激しい熱は冷ましていた。

「でも言わずにはいられなかった。どうしても我慢できなかったの。あんな……クローンを否定するような言葉。とても聞かないふりなんてできなかった。他人事と思えなかった。……優斗もクローンになったから」

「え!」

 予想もしなかった、真優美の息子の名前が飛び出して思考がついていかなくなる。

 信号が移り変わり、私たちは横断歩道の上に出た。

 真優美は口を開いた。

「優斗は生きていれば五歳になるはずだった。でも去年……車の前に飛び出しちゃって。今一緒に暮らしているのは優斗のクローン。真斗(しんと)っていうんだ。うちの次男だと思ってる」

「クローンなのに……優斗くんと同い年じゃないの?」

「そう。七歳までの子どものクローンは、成長させるか、赤ちゃんから育てるかを決められるんだよ。七つまでは神のうちっていうでしょ。

 子どもは優斗だけのつもりだったから、まさかもう一度赤ちゃんを育てることになるとは思わなかったけど……必要だと思ってるんだ、私にとって。優斗が飛び出していったのは私の不注意だった。もしあの時五歳の優斗のクローンを受けとっていたら、まるで事故なんてなかったみたいに思えてしまう気がしてさ。この子に何があっても大丈夫、また複製すれば良いんだからなんて……思うようになりたくなかった。ひとりひとりの子がちゃんと生きているんだもん。代わりなんて、優斗とまったく同じ子なんて、きっともう生まれないんだよ。だからね、これは私たちなりのけじめのつもり。夫もそれでいいよって言ってくれたし。

 長男の優斗はもう天国に行かせてしまった。次男の真斗はそのぶんも大切に――違う子として育てていくって決めたんだ。長男と比べたりしないで」

「比べる……」

 真優美の口から発せられる一言ひとことが、眼差しと伸びた背筋のひとつひとつが、真優美の後悔と覚悟を伝えてきて重い。私に痛い。

 私は何をしているんだろう。

 さっきあの場で怒るべきだったのは、私の方ではなかったか。

 それなのに私は何もしなかった。ばれずに帰ることばかり考えていた。私が口にした彼の悪口は、間接的に真優美すら傷つけたのではないか。

 真優美に追いつこうと足を速める。

「真優美。ごめ……」

「いいよ、私に謝らなくて」

 真優美が立ち止まる。私と向き合った。

「花梨が謝るべき人は私じゃない。他にいるでしょう。謝るならその人に言って」

「それは……」

 そうだけど。だけど、なんだろう。何を言っても見苦しい言い訳だ。

 真優美は抑えた声で言う。

「真斗と暮らすことにしたのは私たち夫婦の意志。花梨が拓磨くんのクローンを必要としたのは花梨の意志。花梨の気持ちを想像できるつもりでいるよ。大事な人が急にいなくなってしまったら、辛いし寂しい。何もなかったことにしたい。これまでの暮らしを続けていきたい。そう思うのは当然だと思う。

 でもクローンを作る時、同意書にサインしたんでしょ。内容を読んだんでしょ。記憶と人格は引き継がれない。オリジナルとクローンはどこまでいっても別の人間なの。クローンもその人らしくあることを尊重されなきゃいけない。今花梨が拓磨くんに対してやっていることはそれを踏みにじっていると思う。だから謝るなら私じゃなくて、拓磨くんに」

 長い沈黙。

「……うん……」

 それ以外に何が言えただろう。

 認めたくなかった。自分がここまで狭量な人間であるなんて。

 否定し押しのけたくなると同時に私は理解してしまっている。もう逃れようがない。私は、拓磨らしくない彼が嫌いだ。

 ただ拓磨と同じ顔かたちという点それだけで、彼の恋人を気取り一緒に暮らしている。

 劣化コピー。素直に的確な言い回しだと思えてしまう。自分でちょうどいい言葉を見つけられなかったから言えなかっただけ、私はあの人たちと同じなのだ。彼をオリジナルと――拓磨と紐づけてしか見ず、比べて否定しては見下している。

「……今日はもう帰るね」

 背を向けて歩きだす。


 薄暗い玄関から、ただいま帰りましたと彼の声がする。

 もうそんな時間か。とぼんやり思った。

 食卓に突っ伏していた顔を横に向ければ、もう部屋は夕方の薄暗さに包まれている。窓から入る残光が、家具や投げたままのバッグを輪郭だけ見せていた。ああ、電気、つけなきゃ。

 思った瞬間に頭上でペンダントライトがオレンジ色の光を放つ。リビングダイニングにやってきた彼が、ちょうど壁のスイッチを押したのだ。

「どうしたんですか」と声。気遣わしげな響きを帯びている。

「電気もつけずに、こんな時間まで。……お昼寝ですか? 確か今日はお休みの日でしたよね」

 言いながら彼は自室へ鞄を置きに行ったようだ。声が一度遠ざかる。そのまま聴いていると、戻ってきた彼がリビングの床で物を拾い集めている音がした。バッグとその中身を集めてくれているようだった。

 気取らない優しさ。

 床から物を拾い上げるかすかな音を聞けば、かがんで拾う動作のひとつひとつを容易に想像することができる。その想像は自然と今日の彼自身の姿に重なった。私のそばでテーブルを片付けていた姿。何を言われても愚直に皿を洗い続ける姿に。

 のろのろと顔を上げる。彼はちょうどバッグをソファに置いて私を振り返った。

 そこはかとなく私を気遣うまなざし。その奥に拓磨とダブる表情の根みたいなものがある。彼の顔かたちに漂う拓磨の気配。私は今から恋人の顔に面と向かって切りださねばならないのだ。

 息を吸う。あと一秒でも多く止めていたら勢いが鈍ってしまいそうだった。

「別れよう」

 わかれよう。たった五つの音。自分の唇が動いたこと、喉が震えて声が出たこと。発した声が他人の言葉のように耳に届いた。言ってしまえば簡単だった。状況が走り出して勢いもついた。

「え……?」

 彼がはっきりと困惑している。耐えきれずに私はまくしたてた。

「もう無理だと思ったんだよ、私たち。いや私。君と一緒にいる資格がない。だから、別れよう。

 うん、そうだよ。言ってみたらますますはっきりした。別れよう。私たちもう一緒にいない方が良いんだよ」

「待ってください。花梨さん、急になに言ってるんですか。全然理由になっていません。どうしてそんな」

「とにかく一緒にいない方が良いの。君にとって私は邪魔になる」

「邪魔なんて思ったこと」

「もう私の役に立たなきゃと思うことも、悪口言われて我慢する必要もないんだよ。本当は最初からなかったのかも。君は君が充分だと思うまで学校に行き直して、もっと向いている職場で働いたらいい」

「悪口……?」

 彼が怪訝そうに眉をひそめる。心当たりのなさそうな口ぶりは強がりだろうか? それとも。

「言いたくないけど。君が店で悪い風に言われてるの聞いちゃったから。毎日あんなこと言われてるの? なんで私に何も言わなかったの? どうして辞めないの?」

 言われたところで昨日までの私ならまともに取り合うことなどできなかっただろう……と思ってしまって、また自分で自分が嫌になる。けれど尋ねずにはいられなかった。

 彼は息を呑んだ。

「まさか。お店、来てくれてたんですか。気づかなくてごめんなさい。それから、不愉快な思いをさせてしまったことも」

 なぜ心底申し訳なさそうに謝れるのだろう。彼は何も悪いことをしていないのに。

 伏せた彼の目に決意が光っていた。

「……言いませんよ。わざわざ心配をかけてしまいそうなこと。それに、大して気にもしていないんです。クローンに批判的な人が一定数いることは、学校で習いました。あそこまで露骨な人がいるとは思っていませんでしたけど。でも、心の準備はしていたので」

 違う、違う。私が言いたいのはそういうことじゃない。問題は私も「一定数」の人々と同じような目で君を見てしまっていたことなんだよ。

でもそのままこれを彼に伝えるのは論外だ。返事はぶっきらぼうになった。

「そう。それなら、心が強くて良かったね。とにかく、そういうことだから」

「待ってください!」

 これ以上遠回しな話し合いを続けていられない。下手なことを口走る前に席を立とうとした。

 彼が私の腕を掴んで引き留めた。

久しぶりに感じる、拓磨の大きな手。

 違う、初めて触れる彼の手。真剣な目をまっすぐ見られない。

「花梨さんの気持ちは受け止めます。僕と……別れたい、んですよね。でも、言いっぱなしで終わらせるのだけは待ってもらえませんか。僕の話も聞いてくれませんか」

 考えあぐねる私に、彼はなおも食い下がる。

「無理に貴女の考えを変えさせるつもりはないんです。ただ、聞いてほしいんです」

 真摯な言葉をはねかえすほどの気概がない。手首を軽く引かれるまま、私は元通り椅子に掛ける。彼も食卓をはさんだ向こう側に腰を下ろした。

 息を整える間もほとんどないまま、

「すみませんでした」

 彼が深く深く頭を下げる。心からの謝意が滲んだ言い方で。

「拓磨さんの代わりになれなくて」

 私は硬直した。

「え……。なんで」

 顔を上げた彼は落ち着いている。

「貴女を見ていれば分かりました。僕が僕らしくあることよりも、どれだけ拓磨さんと近い行動を取るかを見ていましたよね。

 目玉焼きにソースをかける人でごめんなさい。鯖が苦手でごめんなさい。営業に復職できなくてごめんなさい。違う人間でごめんなさい。夢を持ってしまったんです。僕と拓磨さんの個性を折り合わせて、僕もあなたに認めてもらえないかなって。

最初にこの家に連れてきてくれた日、大学のアルバムを見せてくれましたよね。貴女と拓磨さん、真優美さん。それからたくさんのお友達が写っているやつ。僕のオリジナルをひと目見た時、僕とはまったく違う個性を持った人なんだと分かりました。元気で明るくて、すぐに誰とでも仲良くなれてしまうような。

 この時、僕の目標は拓磨さんになりました。貴女を喜ばせたかった。……できませんでしたけれど」

「どうして、そこまで……?」

「分かりませんか?」

 彼は優しく微笑しようとしたのだろうか。

「貴女が好きだからですよ」

 想像もしていなかった。彼の言葉が体内で反響し、見えると思いこんでいた現実を変質させていく。彼は諦めたように笑んだまま続けた。

「……まさか、ここでこんな形で言うことになるなんて。本当はちゃんと貴女に認めてもらってから伝えるつもりだったんですが。でも、そうなんです。僕は貴女が好きです。診察室で初めて会った時から。

 人は自分で恋人を選びますけれど、僕は違いました。生まれた時にはもう貴女がいた。会うまではどんな人なのか不安で。でも会って、見て、嗚呼オリジナルを大切にして、きっとまた大切にもされてきた人なんだろうなと分かりました。僕も貴女を大切にしたい、喜ばせたいと思いました。

 でも、僕では力不足だったみたいです。貴女の期待に応えられなくて、拓磨さんになれなくて、ごめんなさい。大事な人のひとりも幸せにできないなんて、僕は駄目でしたね」

「……」

 とっさになにも言えなかった。彼が立ち上がり、自室に鞄を取りに行くのを呆然と見守っているしか。

「心苦しいのですが、最低限の物いくつかはいただきますね。明日からの仕事に差し支えてしまうので」

 いつも通りにやんわりと言ってくる。彼は私の無言を了承と受け取ったようだ。鞄を片手に玄関へ向かい、靴を履く。

「さようなら」

 静かに気配が外へ出て、扉が閉まった。

 彼が共用廊下を歩いて行く。エレベーターで降りていく。マンションを出て行く。私が放心しているあいだに進むだろう出来事の一切を、漫然と考える。

 彼は今日、どこで夜を過ごすのだろう。どこかのホテルに泊まるのだろうか、それとも学校でできたという友達のところに身を寄せる? 学友の話を何度かされた気がしたが、聞き流してしまった私には彼らの名前も分からない。

 単純な真実。見落とした事実。馬鹿だ、私は馬鹿だ。彼は何も気づいていないと決めつけて、彼の立場に立って考えることもなく。

 私は自分が気づくずっと前から――最初から、彼を傷つけ続けていた。

 すべてに気づいていた彼はそれでもなお私を好いていようとし、別れ話すら私の言うまま受け容れた。

 やはり私たちは一緒にいるべきではなかったのだ。もともとそう思っていた、これで良いじゃないか。私が言おうとしていたことは言い、私が望んだ通りになった。

 それなのに、この虚しさはなんだろう。

 暗い部屋の中で、頭上のペンダントライトだけがついている。

 わずか八カ月ほど前、拓磨がこの明かりの下で免許証のクローン希望欄を埋めていた。

 拓磨。

 心の中で呼びかけて、唐突に私は悟る。

 拓磨は、死んでしまったのだ。

理解した気になっていただけだ。彼は拓磨の代わりではないし、誰も代わりなんてできない。あの身体にも、笑顔にももうさわれない。拓磨は死んだ。死んでしまったのだ。

 何も解決していない。事実は事実として最初からそこにあり、私だけがそれを拒絶していたのだ。彼も、真優美も、人の死を受け容れていたのに。私だけ。

拓磨は死によって私の前から立ち去り、彼もまた。私は二度失ったのだ。

 背後で倒れた椅子がフローリングに当たる。私は強い何かに引きずられキッチンへ入った。カウンターと吊戸棚がオレンジ色の照明を切り取って他を闇に沈めている。私の両手は勝手を知っているように力強く動いて、食器棚の引き戸を開けた。

 皿を掴む手に迷いはない。取り出して床に叩きつける。

可逆性のない崩壊の音が耳を刺す。何故かそれが心地良い。

 私は割り続けた。拓磨とケーキを食べた小皿を。二人でポイントを貯めて交換した皿を。彼が何度も朝食をよそい、拓磨が何度もオムライスを失敗した皿を。それぞれ持ち込んだ茶碗を。こだわって買ったグラスを。一緒にホットワインを飲んだマグカップを。拓磨がいつも五分で空にしたどんぶりを。

 思い出の一切を、割り捨てる。

 カトラリーを収めた引き出しを開け、仕切りごと中身をぶちまける。ステンレスのフォークが磁器の破片に当たってでたらめな音を立てた。引き出しを放り捨てた。

棚は空になり、これ以上捨てられるものがなくなった。薄暗いキッチンには肩で息をする私と、床に散らばる破片が入り乱れている。思い出したように足が痛んだ。きっとどこか切れたのだろう。どうでもいいけれど。

 ふらふらとリビングダイニングへ戻る。ソファに腰掛けたバッグに手を突っ込む。彼がきちんと置いてくれたバッグ。

 手探りでスマホを探した。



                  おわり


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