表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/6

(第六篇)上海、夜の廊下で

 ユースホステルの仄暗い相部屋の小窓から、朝の光がドアの足元にスポットライトを当てるように、斜めに射し込んでいた。「そぞろ寒気なり」そんな独り言が寝起きの彼の頭に浮かんだ。「出典はなんだ」と頭に問うたが答えはなかった。彼はゆうべ南国のバンコクから、三月の上海のこの宿にたどり着いたばかりだった。とりあえず身内に無事到着の知らせのメールを、と部屋を出た。

 廊下の突きあたり、一階への階段のそばの公共スペースで、若い男女が立ったままハグし合っていた。彼らは出会いの歓びよりも、別れを惜しむかのように見えた。女の足元に、赤地のバックパックが戯れる小動物の感じに、ショルダーを上にして寝っ転がっていた。男はアジア系のハンサムな顔立ちで、ブロンド髪の欧米系に見える女よりもずっと背が高かった。女をきつく抱きしめるその姿態はけっこうサマになっていた。

 一階ロビーに、ゲスト用のフリーのパソコンが三台あった。あいにくふさがっていた。彼はフロアのソファで空くのを待った。そこに先ほどのアジア系ハンサム男がやってきて、「日本人ですか」と日本語で訊いてきた。「ええ、そうですが」と彼が頷くと、二十代後半に見える青年は向かいのソファに座った。日本人だった。首筋を覆うまでの長髪と、白のワイシャツがよく似合っていた。青年は「租界」に興味があるらしく、列強だのアヘン戦争だのを熱っぽく語っていたが、彼は相槌を打つばかりだった。で、青年はほんのひとときの、通りすがりの暇つぶしを終えて、つまらなさそうに席を離れて行った。そしてフロントで、英語の上手い受付の中国娘と楽しそうに長話をしていた。

 パソコンはなかなか空きそうになかった。彼は壁のゲスト同士の伝言板を読んだり、観光案内パンフレットの中の風光明媚な山水の写真などの「チャイナ・イメージ」を観たりしながら、待ち時間を過ごした。


 部屋には二段ベッドが二つあった。同室の中国人二人はもう寝入っている様子だった。が、彼は昨晩とおなじですんなりとは寝付かれなかった。彼にとって初めての相部屋での宿泊だった。夜の十二時近かった。彼は、昼間コンビニで買ったカップ麺を手にそっと部屋を出た。共同キッチンでカップにお湯を注ぎ、廊下の片隅にある二つの小さなテーブルに付いた椅子の一つに腰掛けた。先客がいた。欧米人らしいあご髭を生やし、白いTシャツによれよれのベージュのジャケットを重ね着した中年の男が、瓶の色が緑の「青島ビール」を飲んでいた。男は彫りの深い顔の高い鼻梁に、ジョン・レノンのような銀縁の丸眼鏡をかけていた。

「中国人か」と男が気さくに彼に話しかけてきたが、「いや、日本人だ」と彼が答えると、なぜか男は少しがっかりした表情をした。「あんたは、どこだ」と彼がいちおう、挨拶がわりに聞いた。アメリカ人だった。深夜に、慣れぬ英会話に頭を使うのはごめんだった。で、彼は黙って麺を啜り、汁を飲んだ。男はその終わりを見計らっていたかのように、「チャイニーズ・ポエトリー、知ってるか」とまた話しかけてきた。彼は「一つ、二つは……」と言いかけたが、思い直して「いや、まったく知らない」と応えた。「そうか……、でも日本人も漢字を使うんだよな」と男は言って、空き椅子の上のペーパーバックを手に取り、ちょっと見てみろよ、といったふうに彼に手渡した。それは漢詩のアンソロジーだった。漢文とその英訳が交互に並んでいた。英語のパートは、副詞や形容詞が多用されていて、彼にはほぼ部分読みしかできない英単語の羅列にすぎなかった。

「で、あんたの好きなのはどれ」と彼は、男に本を返しながら話を継いだ。男は、その反応や良し、といった感じに、うんうんと二度ほど頷き、ニコリとした。そしてすばやくあるページを開けて、彼に見せた。男のお気に入りは、「清明」というタイトルの、短句が四行の一首だった。男が言うように漢字が読める日本人ならば、この詩に限っては、詩のイメージを感得するのはさほど難しくはない。彼は、漢字の字面と、訳文中のいくつかの読める英単語をミックスして、詩の内容を推し量った。


〈春もさかりなるに、こうも、しとしとと小雨がパラついたんじゃあ、うっとうしくて、旅人のわたしは酒でも飲まねばやりきれない。おいこの辺りに居酒屋はあるか、と牛飼いの少年に尋ねれば、あっちだよ、と指さすその向こうには、杏の花咲く村が〉


「ふーん、これがあんたのチャイナ・イメージ、そして旅のイメージなのか」と彼が男に言った。

「いやいや、こんなのはもう昔ばなし、映画の中だけのことさ」としたり顔で男が応えた。

「してみると、これはあんたのマインドの中のイメージなんだな」

「まあそうだな」と男は頷いた。

「つまりは、ノスタルジアってことだ」と彼が言った。

 かつてネパールのカトマンズで同宿したドイツ人女性のエマは、いま目前の男と交わす会話と似たような脈絡の中で、「ノスタルジア」という英単語を使ったことがあった。

「ノスタルジアか……、いいな。ところで、日本人のあんたの思うジャパン・イメージとはどんなだ。たとえば日本の歌なんかで言うと」と男が言った。

「さあ……」彼はとっさには何も返答できなかった。自分の乏しい英語力のせいもあるが、それよりもこのさい間を持たせるために、簡便にガイドブック的なことを言うのが、彼にはなぜかしらためらわれた。

 ともあれ男はいわゆるオリエンタル趣味のガイジンだった。ならばやっぱり「荒城の月」か「さくらさくら」か、と彼は思ったが、ことここにいたると、それこそ「春高楼の、花の宴」とか「やよいの空は、見わたす限り、かすみか雲か」とかは彼の初級の英語力では、長考せずして、いやそうしてさえも半分くらいしかカバーできない。それにしても、彼はなによりこんな旅のシーンでガイジンを待たせるのが嫌だった。気詰まりで間が持たなかった。で、うろ覚えの日本のフォークソングの歌詞の数フレーズを、思い出すままにいくつか束ねてカタコト英語で訳し、男との会話の間を継いだ。彼はカトマンズの安宿のキッチンでも、同様のことをエマ相手にした。ドイツ人女性の彼女だけは、彼がたった一句の英訳に一、二分かけてさえ、「無理しなくてもいいからね」と気長に待ってくれたものだった。


〈わたしは行きたい。山羊にひかれて。思い出だけを道連れにして。何があるのか、そこには。しあわせ、それとも、ふしあわせ。何があるのか。山の向こうには〉


「ほーう、『ビヨンド・ザ・マウンテンズ』──それがあんたのジャパン・イメージ、というよりは旅のイメージなんだな」と男は言った。

「そう、そうだ。さしあたって言うならばな」

「うーん、そうなのか。けど、それなんか考えさせられるじゃないか。何があるんかな、山の向こうには。『ハッピー・オア・アンハッピー』どっちかな」と男はちょっとおどけたように言って、ビールの小瓶を手にしたが、それはもう空だった。男は浮かせた瓶を、音を立てないようにテーブルの上にそっと置き、それから黙った。男のその沈黙は、二曲目の即興演奏のために、あらためて弦をチューニングし直す間、といった趣きがあった。

 ほどなくして男は、「ふふっ」と小さく笑って沈思黙考を解くと、「いや、ひょっとすると、山の向こうには、その村にはだな……」と含み笑いのまま言いかけた言葉を切った。「何があるのか」と彼は男にその先を促した。するとそれまで廊下の黒塗りの壁を見ていたアメリカ男は、おもむろに彼に向き直って、

「おれ好みのレディーが、おれを待ってる、ってこともありうるよな」とキザなセリフを吐いて破顔一笑した。つられて彼も笑った。が、男のそのセリフには、「案外とあのときドイツ人女性のエマが言った、『山の向こうには、ソウルメイトのような良き伴侶がわたしを待っているかもしれないよ』のようなごくまっとうなニュアンスが、こもっているのかもしれないな」とも彼に思わせた。それは、男の知的な風貌が、というよりクラシカルな丸眼鏡のせいなのかもしれなかった。まったくもってたあいないこの場の見立てだ、と彼は自分をおかしがった。

 話が一段落して彼は席を立った。「グッ・ナイ」と男がちょっと名残惜しそうに言った。男の発音をまねて彼も「グッ・ナイ」と返した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ