(第四篇)河岸の道
彼の泊まる宿近くのだだっ広い土面の敷地内に、何十棟ものバラックが建ち並んでいた。周囲には鉄条網が広く張り巡らしてあった。たぶん、インド政府か救世軍の管理による貧民、あるいは難民のための救護施設か、と彼には思えた。百人は下らない居住可能の施設にどうしてか、真昼の炎天下のゆえにか、そのとき屋外には人っ子一人いなかった。が、敷地内の大きな水溜りの中で、十頭以上のイノシシがひしめき群れを成して泥浴していた。赤土の地面、草木、バラックの外壁──、と辺りの物みな乾き切っていた。ただイノシシだけが泥水にズブ濡れているのを、彼は鉄条網越しにボーッと見ていた。そのとき、背後から「あのう」と聞こえる声をかけられた。彼が振り向くとベージュ色の開襟シャツを着て、青いバックパックを背負った短髪の若い娘が立っていた。いぶかるまでもなく、彼女はいわゆる瓜実顔の日本の娘だ、と一見できた。彼女は、彼が日本人であることを確かめると、「Gゲストハウス」を知っていたら教えてほしい、と彼に尋ねた。この近くに宿は一軒しかなかった。
「この道の、あそこ、あの最初の左への脇道をまっすぐに行けば、すぐにわかります。看板は出てませんが、一軒だけ目立ってこぎれいな民家ですから。わたしもそこに泊まっています」と彼は指差しで教えた。
「ああ、どうも」と二十歳過ぎたばかりのような面差しの娘は、軽く腰を折って一礼した。それから陽のまぶしさに目を細めるようにして、イノシシの方を見た。そして、
「あれ、豚じゃあないですよね」と前方に顔を向けたまま言った。
「イノシシでしょう。遠目のパッと見には区別つきませんが」と彼もイノシシを見やりながら言った。
「飼ってるんでしょうか」
「でしょうね。いちおう囲いの中にいるわけだから」
「食用でしょうか」
「おそらくね。ペットじゃあないでしょう。彼らの聖なるお牛さまとは違って。よくは知りませんが」
「それならセッショウ、ですよね」と娘は言って、また泥にまみれるイノシシのほうを見た。彼も見た。「セッショウ……、ああ殺生か」一昔前の片田舎に住む篤信の老婆か、あるいは尼さんのような物言いをする。今どきの娘にはめずらしい、などと彼はことさら年寄りじみた思いにかられながら、横目で彼女の短髪頭に目をやった。娘はご丁寧にも、「ツツミ・チカ、です」とフルネームを名乗って、宿へと歩いて行った。彼は近くのマハーボディ寺院へと向かった。
参拝客が敬して仰ぎ見るの五十二メートルの大塔の、さらにずっと高くの中天に、北インドの灼熱の午後の陽があった。彼は園内の一隅に佇み、その場の動かぬものに目を止め、動くものを目で追ってひと時を過ごした。
仏塔から奥の庭園へと回遊するツーリストの群れが、途切れることなく流れていた。聖地ブッダガヤのランドマーク、マハーボディ寺院の仏塔の基壇周囲の床は、白い大理石に敷き詰められてあった。園内は裸足のきまりだった。熱した石床を、大仰に足の上げ下げをする身ぶりをして歩く者もいた。境内の石柱や石板のモニュメントに刻印された文様は、この国のいにしえの文化を今に伝え、一連のレリーフは、釈迦のライフ・ストーリーを図像で物語っていた。
釈迦がその樹下で悟りを開いたと仏伝にある、枝葉を繁茂させた丈高い菩提樹は、仏塔の裏手に植わってあった。その傍らで、異国からの巡礼者や僧侶などの仏弟子が、師に倣い座して瞑想していた。また、幻の回廊を廻るようにして、仏塔の周囲を歩行瞑想で身体を運ぶ行の者たちも散見された。
そのとき炎天下の菩提樹の樹下に、葉叢を日傘がわりにして、十四、五人が趺座していた。床に落ちた葉蔭の一隅に、グレーの筒袖仕様の僧衣を着た、三人の短髪の東洋人尼僧が横並びに座っていた。たぶん台湾かベトナム人か、と彼は思った。ほかには、肩までの薄茶色の長髪に髭面の若い西洋人が、単独で座っているのがことさらに彼の目を引いた。
若者は白いクルタシャツにこげ茶色のハーフパンツを身につけ、長い両脚をクロスさせて結跏趺坐に組んでいた。それは仏塔のレリーフに浮く釈迦の彫像とおなじ坐法だった。力みをまったく感じさせず、それでいて背筋をピンと立てて崩さなかった。十分、十五分と脚を組みかえることもなかった。彼が瞑想のビギナーでないのは一目瞭然だった。
若者は、おそらくいまふうの「バックパッカー」のツーリストなのに違いなかった。けれど、彼のふうていは、今ここの場所柄と相まって、「ヒッピー」とでも名付けたほうがよりお似合いに見えた。見映えしてかっこうの被写体の彼に、歩を止めてカメラを向ける参拝客もちらほらといた。
今はもう昔語りの、六十年代後半から七十年にかけて、精神世界に興味を持つ多くの西洋の若者たちが、インドやネパールを流浪の民のように彷徨った、とガイドブックには載っていた。さらに、ブッダガヤは仏教の四大聖地の一つで、当時、聖地巡礼途上のヒッピーの多くがこの地を訪れた、とも付記されていた。ならばいま目前の若者のように、この菩提樹の下に座したヒッピーも少なからずいたことだろう、と彼は思いを馳せた。
菩提樹を囲う石柵のそばに、禿頭に太り肉の西洋人の老男が佇んで、ペットボトルの水をうまそうに飲んでいた。Tシャツに短パンの出立ちの彼もまた、菩提樹の葉蔭の下で、しばし涼味の恩恵に預かって憩っているようだった。そんなとき、傍らのガイドらしきインド人に手差しで、──たぶん「旅の記念品にどう」とでも促れさたのか、老男は足下の菩提樹の落ち葉を一枚ひろった。そしてこんなさいのお決まりの所作をなぞるかのように、葉柄を指に摘んでまだ緑の葉面をしばし見つめ、それから指先でクルクルと数度回した後、それを短パンのポケットに入れた。──彼はそれを見納めにして出口へと向かった。
その日、ゲストハウスには、彼とさきほど出会ったばかりのチカと、あと数人の欧米人が宿泊していた。皆出かけていた。午後のひととき、彼は玄関脇の共有スペースで、ゲストが捨て置いて行ったかの本や雑誌を読んでいた。平積みされた数十冊の中に、日本語で書かれたインドのガイドブックや小説が数冊あった。中に芭蕉の「おくのほそ道」の文庫本があった。芭蕉なんかを道連れにしてインドへ来たツーリストがいたのか。そして、どんな心境の変化でこの地にそれを置き去りにして行ったのか、と彼は旅ごゝろをみょうにくすぐられて思った。他の洋書はパラパラと眺め読みして、写真だけを目で拾った。
ブッダガヤ滞在二日目の彼は、二、三日のうちにインド出国のために、コルカタへと移動するつもりだった。
外出から帰って来たチカが、彼と向き合って椅子に腰を下ろした。彼女はどこか儀式めいた動作でゆっくりとペットボトルを持ち上げ、水を一口飲んだ。それから布地の肩掛けのバッグの口を開いてハンカチを取り出し、短髪の頭や顔の汗を拭った。目を閉じて瞼に、さらには頬にとハンカチを押し当てるようにして無造作に拭うのは、まったくのノーメイクだからだろう……、などと彼は愚にもつかぬことを思いながら、つられるように彼女の一連のふるまいを見ていた。頬や首筋のあたりがほんのり日焼けしていて艶っぽかった。長袖のゆったりめの白いTシャツの襟首下辺りに薄く汗がにじんで見えた。右肩から胸にかけて、たぶん袈裟がけのバッグの紐が作ったらしき帯状の濃い汗の滲みも見て取れた。チカはシャワーを浴びに部屋に行きもせず、ポツネンとそこにいて、高い天井でガタついたファンが回るのを、少々気だるそうにしばらく見ていた。
「どうしたんです。そんなにしんどそうにして」と彼がチカに声をかけた。
「あっ、いえ」と彼女は取りつくろいの顔を作る間もなく、といった感じで彼のほうを向いて応えた。
「行ってきたんでしょう、マハーボディ寺院へ。つまらなかったんですか」
寺院はこの宿から歩いて三十分くらいのところにあった。
「いえ、見栄えがしてとても良かったです。……でも、なんだかがっかりしました」
「何に」
「ブッダガヤに、というより今回のインド旅行にかな」
「どうして」
「さっきバス停で、自分と付き合ってくれたら、宿泊費がフリーになるゲストハウスを紹介してやる、って声かけられました」
「ああ、それ、ガヤ行きのバス停の前でのことでしょう。ミャンマー寺のそばの」
「ええ、そうです。そこです」
「あそこに、バックパッカーの若い日本女性をたぶらかしたことを自慢する、不快な奴らが何人かいたな。ピースサインのツーショット写真なんかニヤついて見せびらかしながら」
「わたしそんなふうに見えますか」
「もちろん見えないですよ」
「インドの観光地ってどこでもこんなふうなんでしょうか」
「さあ、どうなんだろう。あっちこっち行ったわけじゃないから。……それに自分は男だし」
「情けないです。たかが声かけられたぐらいで、こんなにたあいなくグラついちゃったりして……」
「…………」彼は気の利いた応答を、しばし頭の中でまさぐってみたが、見つけられなかった。
紫の地色に花柄のサリーを着た太った老婆が奥から出てきた。彼女は宿の主人の母親だった。老婆は通りがかりに、チカと互いに目を合わせて立ち止まり、微笑み交わした。ついで、英語を話さない老婆はガラス窓に近寄り戸外を指差して、無言でちょっと顎をしゃくりあげた。「行ってきたかい」とそんな感じで。チカも言葉なく、片腕を頭上に思いっきり伸ばして老婆に示した。「こんなに高かった」とでも言うみたいに。老婆は愉快げに笑って頷いた。たぶん、「そうだったかい」の合槌か。二人のやりとりは、マハーボディ寺院の仏塔のことなんだろう、と彼は想った。狭いブッダガヤにいるツーリストの、先ずもって行くところはそこしかなかった。老婆が去った後チカに問うと、彼女は「そうです。わかりましたか」とはにかんで言った。
異国からインドへやってくる風来坊的なふうていの旅人の十人のうち、少なくとも三人くらいは、巷間に言う「スピ(リチュアル)」に興味を持つ者がいるように彼には思えた。出会いのおりのチカの話しっぷりや短髪姿から、彼女もまたそうではないのかとは、問わず語りに推察できそうだったが……。
「じつはパスポートを取るまで行き先は決めてなかったんです。予算に合った所ならどこでもよくて。インドへ行こう思ったのはその後です。わたしの母はデザイン関係の仕事をしているんですが、一ヶ月ほど前、母の仕事用の仏教美術書の中にある『釈迦涅槃図』見た時、ふとここへ行ってみたい、と理由もなく思い立ったんです。あっ、断っときますけどわたし仏教信者なんかじゃ全然ありませんから」
「でも、その短髪を見て、あなたのインド旅行の動機を聞けば……」
「ははっ、確かにそう思われてとうぜんですよね」
「よく似合ってますよ、その短髪」
「えっ、そうですか」とチカは言って額から後頭部へ手のひらを這わせるようにしてひと撫ぜしてはにかんだ。
彼は、背後の棚に平積みされた本の群れから、英書のインド紀行エッセイ集一冊を抜き出した。そして、その中に載る女優のミア・ファローの写真をチカに見せた。その短髪姿の女優は一九六八年にインドを旅行した、とキャプションにあった。
「それね。あなたのは、その女優さんほど長くもない、だけど尼さんの坊主頭ほど短くもないんだな」と彼が写真を指差して言った。チカは写真を一瞥して、
「ふふっ、なにおっしゃってるんですか。わたしのこの短髪に意味なんてありませんよ。インドはさぞかし暑いだろうからってことで、カットしてきただけのことですから。たんなるファッションです」
「いや、そうでもない。それはファンタジーであるとも言えるな」
「ははっ、言えませんよ。そんなこと」と言ってチカは笑った。
「それにしても、最初の海外旅行がインドというのは、女性にとってそんなに一般的じゃあないんでしょう。別にインドは未開の辺境の地ってわけでもないけれど」
「ええ、そうですね。母にも友達にも、女一人旅でインドなんて心配だ、しかも初海外のくせに、そんなとこ行くのやめときなよ、って言われました。だからこそかな、今にして思えば、インド旅行に向けてなんとかハズミを付けたくて、その絵に会いに行かなきゃ、ってしいて思い込んだような気もします。……なんでインドなんかへ来たのかな、わたし。たんなる怖いもの見たさかな……」
「…………」
「でもその絵になんとなく惹かれたってことは確かなんです」とチカは述懐し終えて、
「そうだ、絵のコピーを部屋から持ってきてお見せしましょうか」と言った。が、それには及ばなかった。彼女の言う「釈迦涅槃図」は、彼の手元のガイドブックにも載っていた。それはインド関係の仏教美術書や、ガイドブックには、どれにもこれにも、多用して挿画されている図像だった。マハーボディ寺院の仏塔にも、その絵柄のレリーフが嵌め込まれてあった。
彼は手元のガイドブックのページを繰って、その仏画の載る箇所を開いてチカに手渡した。
「そうです。これです。わたしの持ってるのと同じ絵ではないけれど、絵の内容はいっしょです。沙羅双樹があって……、お釈迦さまが寝ていて……、その周りに虎がいて、猿がいて、孔雀がいて……」と彼女は、絵面を人差し指でたどりながら言った。そして短髪頭をうつむけてしばらくその絵に見入った。
「じゃあ、その絵はクシナガラが舞台だから、これからそこへ」と彼が訊いた。
「ええ、そこだけは行っとかないと」
「で、いつインドへ来たの」
「三日前です」
「だったら、そのあなたの巡礼の旅はまだ始まったばかりじゃないですか」
「そう、ですね……」とチカはどことなく我に返ったような顔つきで小さく首肯いて言った。そしてまた短髪頭をたれてガイドブックに見入っていった。
彼は席を離れて窓辺に立ち、カンカン照りの中庭を見た。そこでは宿の雇われ女らしきが、たらいで洗濯をしていた。そのインド人の女は肌黒の痩身を、退色しきって柄模様も判別できないような赤地のサリーで巻いていた。そして裾をたくしあげて膝頭で挟み、地べたにつきそうになるほど腰を深く沈めながら、黙々と手づかみの布を前後に動かしていた。頭巾のようにサリーの端布をかぶった女の容貌は見えなかった。
彼は中庭におり、「ナマステ」と軽く合掌して女と挨拶を交わした。顔をあげた老女の頬は、痛々しいほどにこけていた。が、目はとても大きく眼光鋭かった。彼はコルカタへの列車のチケットを買いに旅行代理店へと向かった。
早朝のニランジャナ(尼連禅河)の河岸に沿う道を、ガヤ行きのバスの発着所へ向かって、短髪姿のチカが歩いて行くのを、彼は見送っていた。
彼女は、青のバックパックの下に、丈長で無地のレディース用の白いクルタシャツを着て、洗いざらしの黒のモンペ仕様の下衣からのぞく裸足に、同色のサンダルを履いていた。
釈迦が沐浴したとされる幅広の尼連禅河の水は、乾季のいまは干上がっていて、さしあたり剥き出しの川床の土砂の広がりが見えるばかりだった。雨季には大河のようになる、とガイドブックにあったことを彼は思い出した。で、ダブらせて見ようとしたがまったく実感できなかった。
川向こうのスジャータ村が、平坦な筆使いで描かれた水彩画のように、緑や薄茶色のカタマリの丈低い連なりとなって、ワイドに拡がって見えていた。
ブッダガヤを去り行くチカの後ろ姿は、心なしか弾まぬ足取りのようにも彼には見えた。が、それにしてもこの未舗装の田舎道は、想い入れて見れば、二千五百年も遥か昔の朝に、釈迦も歩いたであろう同じ河岸の土の道と違いはない、と見立てられなくもない。ならば、この道歩く者は、彼女のみならず、今まさに釈迦の幻の足跡と親しく足裏合わせている。「そんなの、それこそファンタジーですよ」と彼女は言うだろうが……、と彼は思いを巡らせて、一度自分の足下に目を落とし、それからまた遠ざかり行くチカのほうに目を向けた。
早起きのドーティ(腰巻き)姿の男たちが、彼女と相前後してちらほらと行き交っていた。臙脂色のストールを首に巻いた車夫の漕ぐ、客を一人乗せた一台のリキシャが、青と白と黒色の身づくろいのチカの後ろ姿をゆっくりと追い越して行った。
早朝の河岸にはまだ午後の陽にまぶされた火照りはなかった。ギラつきのない朝陽の下、あちこちの物みなまだほんらいの地色を保って余分な発色はなく、憩いの中にあった。彼は道沿いのチャイ屋へと向かった。




