(第一篇)ハッピー・チャイ
裏街の乾き切った土の路上を、人やリキシャ、荷車などがしげく、時に間遠に往来するのを、彼は店奥から飽かず眺めていた。シャッターが開け放たれた茶店の店先を枠にして、動画のように人や物が流れて行くのが目に触れ、流れの合間には、通り向こうの店々のカラフルなヒンドゥや英文字の看板が、目に貼りつくように留まって見えていた。そこへ東洋人とおぼしい若い女がやって来て、店先でチャイを煮る店主の親爺と立ち話を始めた。
昼日中の戸外はようしゃのない暑さだった。けれど店內は天井から下がる大ぶりのファンに冷まされて涼しかった。煤けた壁面の上部に、目立って大判のポスターが一枚貼ってあった。チベットの曼荼羅にも似た色づかいで、ヒンドゥの神、猿顔のハヌマーンの立姿が、色あでやかに刷り込まれていた。この茶店は、彼がチャンドニー・チョークの大通りから気まぐれに外れて歩いた裏通りにあった。もっぱら地元のものが集うオールドデリーの一隅のありきたりな茶店だった。そのとき初海外の彼が、日本の若い女と相席したのは、日本びいきの店主の親爺によるフレンドリーな計らいによるものだった。
店内の客は二人の他にいなかった。さきほどの女を、店主の親爺は、彼女もあんたとおなじジャパニだ、と彼に紹介した。そして、異国で出会った同じ祖国の旅人同士なら、せいぜい仲良くしなきゃな、といった感じで、彼女のチャイを彼のテーブルにとうぜんのように運んだ。「この店では、めったに日本人には会わないんですが」と彼女は言って嫌がるそぶりもなく、またはにかむでもなく彼の対面、奧に向かっての椅子に腰かけた。そして、若い女子がよくやる両の掌を扇子がわりに首筋を煽り、渇いた喉にさっそくいつもの甘い湿りをくれる、そんな感じにチャイを一口すすると、テーブルの側に突っ立った店主の親爺に、「ベリー・デリシャス」と言った。親爺は、うん、うん、そうだろうとも、といったふうに満面の笑みで頷くとまた店先へ戻って行った。
彼女は二十代半ばに見えた。イズミです。もう一年近くも日本を離れて旅をしています、と自己紹介した。店主の親爺との会話ぶりから察すれば、英語がネイティブなみに話せるようだった。彼は話の接ぎ穂に、インド入国早々の四日前のことを彼女に語った。
そのとき彼はコルカタの安宿街のあるサダル・ストリートにいた。入国当初の宿、「サルベーション・アーミー」に二泊した。日中、宿の鉄門前にはガイドやリクシャーのドライバー、それにドラッグの売人など土地の者がたむろしていた。投宿二日目の朝、通りの外れのチャイ屋台に行きかけた彼は、中年の売人ひとりに、ガンジャ(マリワナ)いるか、と呼び止められた。彼は、いらない、英語できない、と簡略に言って足早にその場を離れた。が、売人は屋台の近くまでしつこく付いてきて、彼の顔を覗き込むようにして、なんの脈絡もなく「アー・ユー・ハッピー」と低い声でつぶやくように言った。その程度の初級英語は彼にもはっきりと聞き取れた。彼は立ち止まり、とっさに、「バット・インディア・イズ・ツー・ホット(だが、インドはいささか暑すぎるじゃないか)」と売人に言った。すると青シャツ、出っ腹の売人は、「オー・アイム・ソーリー」と欧米人を真似たようなジェスチャーで、いかにも小バカにしたような口調で言った。そして、その後、天を指差して早口で二言、三言なにか言って大口を開けて高笑いした。その売人の決め台詞の英語は彼には聞き取れなかった。──あのガンジャ・セラーは、あの時なんと言って笑ったのか……、その疑問は埋め残された英字新聞のクロスワード・パズルの空白のように、ちょっとしたもどかしさの思いとともに、今も彼の心の隅に残っていた。
いまデリーの茶店でこのたあいない話を聞くイズミも、控えめに面白そうに笑った。
「わたしの売人に言った初級英語、間違ってますか」と彼が彼女に訊いた。
「いえ、ふつうはイッツから始めますが……」
と彼女は答えた。
「……ああ、そうか。この場合は天候のことだから」
「そうです、そうです。でも間違いと言うのではないですよ。意味は通じますよ」
ならば、なにがあんなに可笑しかったんだろう、あの売人は……、と彼はあの日の朝に思いを巡らせながら、店先の方をぼんやりと見た。淺黒肌の痩せた体に、白いクルタを着た老男が、イズミの肩越し見えていた。老男は店先の路上でチャイを立ち飲みしながら、あのインド人特有のおおきな眼で、惚けたようにこちらをジッと見ていた。老男の無遠慮なその眼差しが、「賢者と空け者は紙一重」そんな言い習わしを彼に思い起こさせた──。
「ところで……」とイズミが彼に言った。
「あっ、はい」と彼は彼女に目を戻した。
「ところで、アイム・ソーリー、のあとに、彼はあなたになんと言ったんですか」と彼女が訊いた。
「えーと、聞き取れたのは、イッノウ、それと……、マイフォル、とかなんとか……」
イズミは伏し目ぎみにテーブルに目を落とすと、反芻するかのようにつかのま唇をかすかに小刻みに動かした。そしてすぐに、それはこうに違いない、と合点したふうに小さく頷き、それから謎解きを始めて言った。
「その状況なら、おそらく彼は、『イッツ・ノット・マイ・フォールト』と言ったんでしょう。それは慣用句ですから。つまり、彼はまず、『すまないが、インドのこの暑さはわたしのせいじゃない』と言ったんですね。そしてその後、空を指さして、『残念だがわたしにはどうにもしてやれない。なんならお天道様にでもお願いしてみたらどうだ。涼しくしてくれるようにってさ』とでもいったニュアンスで、軽くジョークを言って笑ったのかもしれません。もちろん、ここのところはわたしのまったくの推測ですけど」
「なるほど、そうか。確かにそんなふうだった。つまりは、コルカタの早朝の安宿街における、日本人とインド人の中年の男二人による、ダルな眠気覚ましのストリート・パフォーマンスだった、というわけだ」
「ははっ、そうでもないですよ。聞きようによっては、なにかしら哲学的な問答に思えたりもします」と彼女は彼に調子に合わせるように言って、打ち解けた笑み顔をした。そしてショットグラスのチャイを一口すすって空にした。チャイのお代わりしませんか、と彼がイズミに言った。彼女は頷き、振り向いて店先で丸椅子に腰掛ける店主の親爺に、「チャイ、二杯お願い」と声をかけた。すぐに親爺はチャイを二人に運んできた。彼女を制して、彼が二人分を先払いした。といっても代金は二杯五十円にも満たない。彼女と店主の親爺は、彼にはとても聞き取れない早口の英語で、しばらく談笑した。
彼はデリーの後、先ずダラムサラへ移動し、次いでインドとネパールの国境を陸路でまたぎ、首都カトマンズへと行くつもりだった。が、迷ってもいた。南インド方面への選択も捨てきれなかった。イズミは、彼が口にするどの街へも行ったことがある、と言った。で、彼は二杯目のチャイをすすりながら、その行路での安宿やビザなどについての情報を、彼女に少しく尋ねてメモした。
イズミは、今からゲストハウスに戻って、リシケシに行くためにニューデリーの鉄道駅に向う、と別れの挨拶をして席を立とうとした。が、ふと思い立って、という感じで、
「あのう……、もしかして、ラマナ・マハリシを知っていますか」と彼に訊いた。
「ヒンズゥのマスターでしょう。『私は誰か』の」と彼が答えると、
「そうです、そうです。やっぱり」と彼女は一人合点したように言って、肩掛けの布バッグから一冊のペーパーバックを取り出して彼に見せた。「こんなの読んでます」と手渡されたその本は、南インドのティルヴァンナマライに生きたヒンドゥのグル(導師)ラマナ・マハリシと弟子や訪問客たちとの対話録で、彼の外国人弟子により編輯されたものだった。
「私は誰か(フー・アム・アイ)」その問いが、グルの教えの精髄であり、また弟子自らが自身を究極へと導くための手綱の句とされていた。彼は表紙のグルの写真を眺めながら、この店でチャイを傍にしてこのペーパーバックに読みふけるイズミの姿をチラッと想った。
さしあたって辞書なしには、彼に読める本ではなかった。彼は本のページをパラパラとめくって、ぼんやりと字面を眺めながら目移りさせた。そして、数語の可読な一群れの英単語に目を留めては、文意を押しはかってみたりした。
「ティルヴァンナマライへは行ったんでしょう」と彼がイズミに目を戻して訊いた。その地には、今は亡きグルを慕う外国人たちが集まるアシュラム(道場)があった。
「ええ、去年行って、半年いました」
「そんなにも長く……。で、謎は解けたんですか。『フー・アム・アイ』は」
「とんでもない。半年もいて、ほんの手掛かりさえもつかめませんでした。『フー・アム・アイ』──まさに謎かけです」
「あのガンジャ・セラーの、『アー・ユー・ハッピー』みたいにね」
「ふふっ、ほんとに。でも、その『アー・ユー・ハッピー』だって、よくよく考えてみると、けっこう謎めいた質問ですよね」と彼女は言って、はにかんだような笑み顔をした。それからイズミは真顔に戻って、彼が返す彼女の聖なる書を、両手で丁重に受け取った。そのとき彼女の右の掌の窪みの部分にだけ、色かたちも少し薄らいだ小さな花のような茶褐色の線描があるのに、彼は今さらのように気づいた。それは、「ヘナタトゥー」なのだろうとは思った。インド女性にポピュラーな伝統ファッションで、異国の女性観光客にも人気があった。彼がいちべつした彼女の掌に描かれた花の図柄は、インド国花のロータスに似ていた。
「それ、ヘナタトゥーなの」と彼はことさらにイズミに尋ねた。
「これっ、そうです」と彼女は肯いて右の掌をいま一度彼の前に差し出した。彼はちょっとためらったあと、彼女の手の甲に下から自分の掌を添えて、目を近づけて花の図像を見た。ロータスではなかった。その花の名は、描いてくれたインド人の友達に聞いたが覚えていない、と彼女は言った。
「そのタトゥーは時間がたつと消えるんでしょう」と彼が訊いた。
「ええ、三週間ぐらいで。いま十日目ぐらいかな。だいぶ色が薄くなりました」と彼女は言って手相を見る感じに、顔の前に浮かせた掌の花を見つめた。
彼は、愛読書を布バッグにしまうイズミをあらためて見た。彼女は洗いざらしのゆったりとした白いプルオーバーのクルタシャツを着ていた。ここ灼熱の日差しの国インドに、バックパッカーとして長期滞在中の彼女の顔や手は、それなりに日焼けの跡を見せてはいた。が、彼女のちょっとした身動きに伴って、ズレたシャツの首元や袖口あたりに、ほんの少し垣間見える素の肌は際立って色白に見えた。彼女の長めの黒髪はアップして後ろに束ねられていた。束ね残されたほつれ髪は、傷んだように縮れハネていた。
イズミは店に来た時のように、店先で親爺としばらく立ち話をしたあと、日差したけなわなオールドデリーの午後の通りを歩み去って行った。その彼女の後ろ姿が、店の中から見送る彼の視界から外れてすぐに、店主の親爺がまた彼にチャイを運んできた。
「これは、カナコから、アンタにだ」と親爺は、彼に気づかう感じにしいてゆっくりと初級英語ふうに言って、チャイのグラスをテーブルに置いた。
「彼女の名前は、カナコと言うのか」と彼が訊いた。
「そうだ。ミス・カナコ・イズミ。シ・イズ・マイ・フレンド」
「彼女は、またこの店に来るのか」
「もちろん、来るとも。カナコは、今日リシケシへ行く。だが、またデリーに戻ってくる」
「だったら、『ありがとう、ハッピー・チャイを』と彼女に、言っておいてほしい」
「オーケー・ジャパニ。きっと、そう、カナコに、言っておく」と白髪まじりの髭面のインド親爺は、友好的な笑み顔でゆっくりと言った。




